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16話 ごめんなさい……

 病院の最寄り駅に着くと、さっきまでの不安や恐怖心が嘘のように消える。落ち着きを取り戻すことができ、動悸や呼吸が徐々に平常に。ゴーグルをかけたように狭まった視界は徐々に開けていき、汗も引いていく。

 そこでようやく気付くことができた。俺はずっとルナの手を、信じられないくらいの力で握ってることに。


「ご、ごめん……っ!」


 電車に乗っている間もずっと力一杯握りしめていたのだから相当痛かったに違いない。


「ごめん、ルナ! ほんとうにごめん……っ!」


 許してくれるかわからないけど、ひたすら謝り続けた。

 いくら怖かったからっていっても、こんなにも強く握っていいわけない。いくら謝っても謝り足りないくらい俺は酷いことをしてしまったんだから。


「隆史、なにを謝っているんだ」


 なのに、ルナはなんでもないような顔をして、小首を傾げて不思議そうな顔をしている。


「だって、こんな強く握って……真っ赤になってるじゃんか……」

「ああ、そういうことか」


 怒られても仕方ない、責められても仕方ない、そう思っていたのに、ルナはいつもの百万ドルの笑顔を見せてくれた。


「これは隆史が頑張った証なんだ、謝ることじゃない」


 なんでそんなに笑顔でいてくれるんだ。

 電車に乗っている時間は三十分以上はあった。その間、俺はずっと力一杯握りしめていて、その手を傷付けてしまったのに、なんで怒らないんだ。


「隆史は誇っていい。電車が辛かったはずなのに、それに耐えたんだ。むしろ褒められるべきだ」


 こんなにも迷惑かけたのに、むしろ褒めようとしてくれている。

 笑顔で、俺が頑張ったって褒めてくれる。

 新雪のように真っ白な肌に、真っ赤になった跡は、見てる方が痛々しく感じるほど。それなのに、そんな傷付けた俺なんかを気遣ってくれ、あろうことかさらに手を差し出してきた。


「病院に着くまでは手を繋ぐんだから、離しちゃだめ」


 そう言って、また俺の手を取ってくれる。

 電車に乗っている間も、そして今も、俺の手の平にはじっとりとした汗が浮かび、本人ですら気持ち悪いと思うのに、ためらわずに握ってくれた。

 気持ち悪そうな感じなんて微塵も見せず、引っ張ってくれる小さな手がとても大きく感じ、頼もしく感じる。

 まるで暗闇の中から、一筋の光を照らしてくれるように。宇宙の中で彷徨う俺を、光り輝く月が、正しい道を導いてくれるように。


     ※ ※ ※


 病室に着くと、白を基調とした部屋の中に、ベットで横になる希さんと、それを見守る国次さんがいた。

 スーツを着こなし、以前に会ったときとは違い、顔が赤くなっているわけではなく、優秀なサラリーマンといった出で立ちで佇んでいた。

 

「ああ、やっと来たんだね」

「あ、あの……希さんが倒れたって、大丈夫なんですか……っ!?」

「……一応電話でも説明をしたんだけど、過労だからそこまで心配しなくて大丈夫だよ。二、三日の入院で元気になるだろうって」


 か、過労だったのか……。

 倒れたって聞いただけで、混乱してまともに説明を聞いてなかった。

 ぐっすり眠っているのか、希さんは静かな寝息を一定のテンポで刻んでいる。よほど疲労が溜まっていたのだろう、俺が隣で騒いでるのに、その瞳は開ける気配もない。

 よかった……特に命に別条はなくて……。

 安堵すると、それまで緊張で強張っていた身体から力が抜けてしまい、ふっと倒れそうになるのをぐっと堪えた。

 ほっとしたのも束の間、国次さんの低い声が俺をまた緊張させる。


「隆史君にちょっと話があるんだけど、ついてきてくれるかな?」

「……わかりました」


 なにを言いたいのかはわかっている。

 俺は特に否定の言葉もせず、けど、このあとの展開を考えると少し憂鬱になってしまい、わずかな時間逡巡してしまった。


「隆史、私も一緒についていこうか?」

「……ううん、大丈夫。ルナはここで希さんのことを見ててくれ」

「わかった……」


 本当はついてきてほしかった。

 けど、病室に希さんを一人置いていくのは不安だ。

 今はすやすやと眠っているが、もし容態が急変してしまったら、と考えると気が気でない。


 ルナを病室に置いて、中庭に案内される。

 ベンチに腰掛けるよう促され、先に座ると、国次さんは目の前にある自販機でなにか飲み物を買いだした。


「隆史君は、なにを飲みたい?」

「……いえ、俺は別に大丈夫です」


 俺の言葉に肩をすくめ、自販機からコーヒーとお茶を買い始める。そのうちの一つ、ペットボトルのお茶を差し出された。


「別にお金を返せなんて言わないから、素直に奢られなさい」

「……ありがとうございます」


 本当はこの人に借りを作りたくなくて断ったのに。しかし、こうして買ってもらった以上、その親切を無碍にするほうが失礼なので、素直に受け取る。

 そして、国次さんが口を開くのを待った。

 病室に着いてから、そして今もなお、射るような視線で国次さんは俺を見てきている。

 お互いに飲み物で喉を潤し、少し間をおいて国次さんは会話を切り出した。


「以前、隆史君に話したよね。希さんは君がいると幸せになれないって」

「……はい」

「あのときは、参考程度にって、オブラートに包んで言ったのがいけなかったのかな。ちゃんと伝わってると思ったんだけどな」


 もちろんわかっている。参考程度になどと柔らかく言っただけで、本当はそうしろと暗に言ってることは。


「希さんは普段から働きすぎてはいた、疲労で倒れるのもおかしくないくらいに。そこでさらに君のお母さんのことで心身ともに疲れてしまい倒れてしまったんだろう」


 かあさんが引き取りたいと言って一ケ月以上は経っている。その間も俺は答えをはぐらかし、無駄に時間を引き延ばしていた。


「君は希さんを不幸にしたいのかな?」

「そんなことは……」

「じゃあなぜお母さんのところに戻らないんだ。君が早く決断していれば、心労なんて無く、こんなことにはならなかった」


 俺だって早く決断したい。でも、希さんがなにを考えているかわからないんだ。

 ずっといていいならそう言ってほしい。寂しくない、行ってほしくないって言ってくれれば、俺は迷わず断ることができる。

 なにも言ってくれないから、本当は愛してくれてなかったんじゃないか、とか、いらない子だったんじゃないかなんて考えてしまう。


「例え今治ったとしても、今の悩みが解決しなければまた倒れるだろう」

「……俺がいなくなると、希さんは一人なってしまうから」

「それなら大丈夫、私は彼女に好意を寄せいるから。隆史君がお母さんのところに戻っても、希さんを幸せにすると誓うよ」

「希さんと付き合ってるんですか……?」

「いや、交際はしていない。隆史君がいるからね」


 遠回しに、俺がいるから付き合えないと言われてしまった。

 希さんだけじゃなく、国次さんまでも不幸にしている、と。


「はっきり言おう。隆史君がこのまま希さんの傍にいると、不幸にするどころか、殺してしまう可能性がある」


 手に持っているペットボトルが、くしゃっと音を立てて潰れる。

 はは、なんだ……俺ってやっぱりいらない子なんじゃないか……傍にいるだけで迷惑をかけてしまう疫病神なんじゃないか……。


「君がずっと答えを先延ばしにすればするほど、彼女を追い詰めることになる」


 どうして気付かなったんだろう……あれだけ働いてたらそりゃ倒れるよな……。


「そうやって自分のことしか考えていないから、お母さんは離婚したとき、君のことを捨てたんじゃないのか?」

「…………」

「……私はもう帰るよ。希さんにお大事にと伝えてくれ」


 …………。

 

 ………………。


「隆史、大丈夫か?」


 いつの間にか俺は病室に戻っていた。どこをどうやって歩いたのか、覚えていない。

 椅子に座って呆然としているのを、隣のルナが心配そうに覗き込んできていた。


「…………」


 ベッドに眠る希さん。

 なぜそこまでして働かせてしまったのか。俺さえいなければ、こんなことには。

 ピクリとも動かない手を取る。

 働き続けた手は、潤いを無くし、ボロボロになっていた。

 横たわるその顔には、目の下のクマがひどく、いつもはバレないように化粧で誤魔化していたということがわかった。


「……ごめん……ごめん、なさい……っ……」


 希さん……ごめんなさい……っ!

 こんなになるまで迷惑をかけていたのか……俺がさっさと決断しないから、こんなになるまで疲れさせてしまって……。

 ごめん……ごめんなさい……。


「……ぐっ……ひぐ……」

「……隆史」

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