11話 隆史の過去(6)
子供はどうしてあんなに風邪を引きやすいのか。気を付けていても、どうしても体調を悪くするときがある。
その日は朝から身体のようすがおかしかった。頭は火が付いたように熱く、思考がまとまらない。強烈な喉の痛みと、鼻の奥のツーンとした痛みが同時に襲ってくる。悪寒と吐き気に苛まれながら、ベッドから這い出た。
体温計で確認しなくてもわかる。
きっと風邪を引いている。熱を測ると、余計に体調を悪くなりそうなので、無視して体に鞭を打つ。
『けほ……ごほ……』
吐き気を我慢するように口を抑えながら咳き込む。もし俺が体調を悪くしていると気付かれると、希さんに要らぬ心配を掛けてしまう恐れがある。決してバレてはいけない、無理してでも笑顔を浮かべて、何でもない風を装わないと。
身体の節々が痛みながら、朝食の準備をしていると希さんが起きてきた。
『おはようございます!』
『お、おはよう……隆史君、今日は元気だね』
『そうですか? いつもと同じですよ』
『そ、そうかな……凄い笑顔だし、逆に変よ』
『なんか体調が良いんですよね。元気が出るというか、よく眠れたからかもしれません』
つらつらと嘘を吐く。
希さんが出勤したあとに、ベッドに横になれば……だめだ、もし学校をズル休みなんかして連絡なんかいってしまったら、余計に心配をかけてしまう。無理をしてでも学校に行かないと。
『朝は、コーヒーです……よね?』
『隆史君、本当に大丈夫? 顔が真っ赤だけど……ちょっと、おでこ触らせて』
『やめてください、子供じゃないんだから』
『七歳は立派な子供よ。ほら、はやくおでこだして』
『だ、いじょうぶ……』
あ、まずい……視界がどんどん狭くなってきて、ぐるぐる回りだした。
ジェットコースターに乗ったような感覚に、今自分が立っているのか、それとも座っているのかわからなくなってくる。目の前にいる希さんの顔も急激に歪み、声もどんどん遠く……。
※ ※ ※
『う……っ』
ここは……?
目を覚ますと、見慣れない天井が広がった。
今だ頭の奥がズキズキと痛むのを堪えながら左右を見渡すと、いつもとは違う部屋、いつもとは違う寝具。
ここはどこだろう……自分の部屋ではないことは確かだけど……。
ベッドではなく布団に横になる視点は、いつもより天井が遠かった。敷布団から伝わる床の感触は、マットレスとは違い、硬い床の上で寝ているようで違和感が凄い。
確か、希さんはいつも布団で寝ていた気がする。
そこでようやく気付いた、ここが希さんの寝室だということに。さらに気付いてしまう、どうやら自分は風邪を引いてることを誤魔化すのに失敗したということに。
『すいま……子供が……なので……』
希さんの声が扉を隔ててくぐもって聞こえる。
少し隙間が空いた扉から覗くと、スマホを耳に当て、必死に頭を下げるのが見えた。
『はい……はい、申し訳ありません……』
何度も見えない相手に向かって頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返している。
どうやら俺が風邪を引いたことで会社を休ませてほしいということを言っているようだ。土下座をするような勢いで謝る希さんを見て、申し訳なさで胸が張り裂けそうになる。
――――ああ、また迷惑をかけてしまった。
ただでさえ迷惑をかけているのに、謝罪までさせてしまっている。どうして俺はこんなにも駄目なんだろう。
罪悪感に苛まれていると、電話が終わったのか、希さんが部屋に入ってきた。
『あ、隆史君起きた? 体温計持ってきたから熱測ってみよっか』
『……はい』
体温計を脇に挟むと、先端の金属がヒヤリと伝わり、それが熱を帯びた身体には少し気持ちよかった。
『食欲はありそう? お薬飲まなきゃいけないから、一口でもいいから食べれる?』
『あんまりお腹は空いてないですが、一口くらいなら』
『じゃあ、うどんを作ってきてあげるね』
『え……希さんが作るんですか?』
『なにその反応。うどんくらいなら私でも作れるわよ』
『いや、そういう意味じゃないんですけど……』
もちろんそういう意味である。
料理が絶望的に駄目な希さんが作るうどん、それは絶望的にまずい可能性がある。
それなら少し無理をしてでも俺が作った方がいいかもしれない。なんて失礼なことを考えていると、希さんの中ではうどんを作ることが決定しているのか、工程をぶつぶつと呟きながらキッチンに向かった。
これは覚悟を決めるしかないな……。
体温計の数字を見ると、いつもは決まって止まるはずの数字をどんどん超していき、その数値は止まることを知らず、三八度を余裕で超えてしまった。
もういいや、これ以上は悪戯に不安を煽るだけだ。
まだ体温計は鳴っていないが、電源ボタンを押した。何度だろうが結果は一緒、三八度だろうが三九度だろうが熱であることは変わらないんだから。それに、もし四〇度なんて出してしまったら、希さんをもっと不安にさせてしまう。
『熱、何度だった?』
お盆に湯気が立った器を乗せ、希さんが戻ってきた。
『三八度でした』
『そっか、ちょっと熱があるね。今日はここでずっと寝て、安静にしてなきゃ駄目だからね』
『え、そしたら希さんはどこで寝るんですか?』
『もちろん隆史君の隣で寝るわよ。心配だもの』
『……俺は自分の部屋で寝ます』
『熱が下がったらそうしていいわよ』
……熱、もっと下に言えばよかった。
『うどん食べれそう? 一口でもいいから食べてみて』
『はい、ありがとうございます』
器を受け取ると、どす黒く、例えるなら漆黒のような墨汁の中に麺が入っているうどんが手元に。
こ、これは……どうやって作ればこんなつゆが出来上がるんだ……。
家事を一手に任せてくれるようになってわかったが、うどんなんて簡単に出来る。そりゃ、生地を作るだとかつゆにこだわろうと思ったら難しいが、スーパーで売ってるつゆとか麺を使えば簡単だ。
それなのに、どうしてこんな色になるんだ……。
『……えっと、そんなに美味しくなさそう?』
『え、そんなことないですよ! とても美味しそうです!』
ごくりと唾を飲み込んだ。
ええい、ままよっ!
ずずずっと勢いよく麺をすする。
不味い、とてつもなく不味い。つゆは濃すぎるし、麺は何分茹でたんだと思うほど伸びきっていた。逆に柔らかくなりすぎて胃に優しい気がする。
『……美味しい』
不味い、とても不味いんだけど俺はそう呟いた。
『そ、そんな無理して食べなくても大丈夫だよ?』
『……美味しいですよ』
『隆史君の顔はそうは言ってないけど……』
『いえ、本当に美味しいです』
そのあともうどんをすすり、あっという間に平らげてしまった。
『ご馳走さまです』
『はい、お粗末様。お薬飲んで、横になっててね』
『ありがとうございます』
水と一緒に薬を飲み、布団に潜る。
今更気付いたが、今入っている布団は、普段希さんが寝ているときに使用しているもの。それだけのことなのに、どうしてこんなにも温かくて、いい匂いがするんだろう。
鼻からゆっくり吸い込むと、安心する匂いに包まれ、それだけで身体が癒されるような気がする。
――――ああ、なんて落ち着くんだ。
お母さんに抱きしめられたら、こんな風に安心感に包まれるんだろうな。
希さんが布団に軽く手を添え、ぽんぽん、とお腹の上をリズム良く軽く叩いてくれる。
『希さん……恥ずかしいです……』
『クスクス……こうするとゆっくり眠れるでしょ? 子守唄も歌ってあげよっか』
『子守唄は本当にやめてください……』
俺を赤ちゃんのように思っているのか、そのあともずっとお腹の上を軽く叩いてくれた。
恥ずかしくて、でも心がどんどん落ち着けて、口ではやめてくださいなんて言ったけど、本当は子守唄も聞いてみたかった。だってこんなに安らぐんだから、もし子守唄なんて口ずさんでくれたら、もっと気持ちが良いんだろうな。
お腹の上がじわりと暖かくなっていき、瞼がゆっくりと閉じていく。
心地良い微睡に誘われながら、視界の端で映る優しい笑顔に見つめられ、眠りに落ちていく。




