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10話 隆史の過去(5)

 いつもと変わらぬ日々、希さんと楽しく過ごしながら父さんを待っていた我が家に突然の連絡が来た。電話を受けた希さんの表情が歪むのを横目で見ながら、一抹の不安がよぎったのを覚えている。

 交通事故だったらしい。

 信号無視をしてきた乗用車に轢かれてしまい、そのまま帰らぬ人となった父を病院で見た。

 横たわる身体が目に入り、それから聞こえるつんざくような悲鳴。


『いやぁぁぁぁああああああっ!!』


 あの慟哭は忘れようと思っても忘れることができない。希さんのあんな声を聞いたのは初めてで、思い出すだけで胸が締め付けられるような気持ちになる。

 眠るように横たわる父に泣き縋る彼女と違い、俺は呆然自失と立ち尽くす。

 思考がまとまらず、映画でも見ているような感覚。綺麗な身体で、目立った外傷も見当たらないのに目を瞑る父さんが、本当に眠っているように見えて、死んでいるとは実感が持てなかった。


 ――――これって夢だよな? 俺は本当は夢でも見てるんじゃないのか?


 そんな感覚さえ覚える。


『ぁぁ……うぐ……』


 希さんは強かった。

 父さんの胸に覆うように泣きついていたかと思えば、すぐに俺のところに駆け寄って来て、背中を押してくれた。


『ほら、隆史君……パパにお別れ言おう……』

『…………』


 涙も言葉も出ない。

 だって、いまだにこれが現実だと思えなかったから。今すぐにでも起きてくれるんじゃないかと思えるほど。

 もしかしたら時間が経てば実感が湧くのかと思ったが、病院の椅子に座り、呆然としながらいくら時が過ぎても涙は出なかった。

 病院を出るときに、白衣を着た医者が頭を下げながら見送ってくれる。

 そのときに。


 ――――ああ、俺は一人になったんだ。


 そう思うことがやっとだ。

 でも……もしかしたら、かあさんが助けてくれるかも。だって、実の息子が一人になってしまったんだから。


     ※ ※ ※


 それからは目まぐるしく状況は変化していき、希さんは悲しみに暮れることなく忙しなく動いていた。

 父さんの親戚や友人に連絡し、葬式の準備。子供の俺はそれをただ眺めることしかできない。

 そのうちの一人、前妻のかあさんにも連絡を入れたようで、電話でなにか話しているのが聞こえた。


『……来ない? 理由は……察してくれ、ですか……わかりました』


 今となっては、それはそうだろうと思う。不倫していたうえ、あれだけ夫婦仲も冷めていたのに、今更どの面下げて来れるのか。

 けど、もしかしたら来てくれるかもと期待していた自分がいた。


 ――――俺を助けに来てくれるかもしれない。血の繋がった息子が一人になったことを憐み、迎えに来てくれる。


 そんな淡い期待を打ち砕かれる。


 ――――俺は捨てられたんだな。いらない子だったんだ。


 葬式の準備は着々と進み、狭い室内に所狭しと大人が座った。

 まだ子供だった俺は別室で待たされ、ひたすら時が過ぎるのを待った。

 聞こえていないと思ったのか、低い声で囁くような会話が漏れ聞こえる。なにを言ってるのか、正確な内容はわからなかったが。


『……保険……土地……あの子を引き取れば……どうせ……あの女は、捨てる……』


 そう言った内容だった気がする。

 別室で待機している俺に詰め寄って来る大人たち。どの大人も張り付いた笑顔を浮かべ、矢継ぎ早に話しかけてくる。


『隆史君は家に来る気はないかな? お菓子とかもあるし、君くらいの子もいるから安心できるよ』

『おじさんたちは君を守ってあげるから、安心していいんだよ』


 ああ、なるほど。この大人たちは、あの駄菓子屋の店員と同じだ。

 言葉巧みに俺を騙し、心を操ろうとしてきている。弱っている人に綺麗な言葉を並べてて、丸め込もうとしている。

 お前たちは汚い、そうやって自分のことだけしか考えていない最低な大人だ。

 もう誰も信用なんてできない。

 そりゃそうだよな。だって血の繋がった息子も捨てるような世の中なんだ、他人である俺に手を差し伸べる人なんて物好きしかいない。

 けど、世の中にはそんな酔狂な人もいた。


『やめてください!』


 この人だけは違う。


『この子は手放しません! 騙すようなことを言うのはやめてください!』


 他の大人と違って、打算ではなく俺を守ってくれる。


『隆史君は私の子です、誰にも渡しません!』


 希さんの手は優しくて温かくて、俺を決して傷つけたりしない。安心でき、信頼できる大人だ。


     ※ ※ ※


 葬式が終わった後も俺たちの日常は戦争のように大変だった。

 希さんの仕事が忙しくなり、朝は早くに出掛け、帰ってくるのは日付が変わる頃合いに。なにしろ女手一つで俺を育てなければいけない、ご飯やお金など、足りなものだらけだ。

 ふらふらになりながらも、希さんはいつも笑顔を浮かべ俺を養ってくれた。

 そんな完璧な彼女にも、一つ欠点があるとすれば、絶望的に家事ができないことだ。

 特に料理。どう作ればあんな風になるのか疑問だが、希さんが作るご飯ははっきり言って美味しくなかった。

 それでも仕事の合間を縫って朝晩と、ちゃんとご飯を作ってくれる。


『希さん、俺が家事をしますよ』


 気付けばそう提案していた。


『隆史君が家事を……?』

『はい。俺が家事をするので、家のことは任せてください』

『うーん……でも、勉強したり大変でしょ?』

『希さんに比べたら全然大変じゃないですよ。家事くらい俺にさせてください』

『でも……』

『お願いします』

『うーん……じゃあ、無理をしない範囲でお願いしようかな。大変なときはしなくて大丈夫だから』


 よかった、これで希さんの役に立つことが出来る。


 ――――これで捨てられない。


 ――――お願いします、捨てないでください。希さんに迷惑をかけないから、良い子になりますから捨てないでください。


 希さんはそんなことしないと心の中ではわかっている。それでも、もしかしたら……。

 もし捨てられたら、俺はどうやって生きていけばいいのか、誰を信用すればいいのか。

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