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9話 隆史の過去(4)

 生まれて初めての遊園地。生まれて初めての家族でお出かけ。

 アニメでしか見たことがない、おとぎ話だと思っていた光景が目の前に広がる。ゲートをくぐった瞬間、華やかな音楽と色とりどりの装飾に包まれたアトラクションなどに自然と高揚感がこみ上げたのを覚えている。

 俺の両手を握ってくれる異なる手。片方は俺の手をすっぽり納めるほど大きな手。もう片方は、その大きな手よりは小さいけど、それでも俺の手より大きく、柔らかくて温かい手。


『隆史君は最初なにが乗りたい?』

『うーん……』


 初めて来た遊園地に、なにがあるのか、なにを乗ればいいのかわからず悩んだ記憶がある。

 希さんなら、なにを乗りたいと言っても怒らない、きっと笑って許してくれると思う。けど、不安な気持ちはいまだに俺の中でくすぶり続けている。

 きっと怒らないだろうし、叩いたりしないだろう。

 でも呆れられたら? また捨てられたりしたら?

 正解不正解がわからない。


『大丈夫、隆史君が乗りたいものを言ってね』

『……ジェットコースターに乗ってみたい』


 アニメのキャラクターが楽しそうに乗っているアトラクションといえばジェットコースターや観覧車。

 乗ってみたいというよりも、それ以外詳しくなかったので、とりあえず言ってみたというのが近い。


『じゃあ、それに乗ってみよっか』


 遊園地の敷地を縦横無尽に駆け巡るアトラクション。そこの近くでは悲鳴がこだまし、並んでいる人たちの目には楽しそうにワクワクしていた。


『これ、身長制限大丈夫かな? 隆史君、ちょっとここの前に立ってみて』


 アトラクションの前に設置された身長計の前に立ってみると、少し足りなかったのか、希さんの表情には少し悲しい物が浮かんだ。


『あら残念、少し身長が足りないみたい』

『そうなんだ……』


 ――――せっかく連れてきてくれたのに、また自分のせいで。


『あ、あっちのジェットコースターなら身長足りなくても保護者同伴なら大丈夫だって! あっちに行きましょう!』


 向かった先は、さきほどのアトラクションよりもこじんまりとした、俺と同じくらいの子供がたくさん並んでいた。


『ジェットコースター楽しみね。パパも一緒に乗る?』

『俺はいいよ、隆史とママだけで乗っておいで。ここで写真撮ってあげる』


 父を置いて二人でジェットコースターに乗ることになったが、このときはあんな風になるなんて思いもしなかった。


『……よしよし、怖かったね』

『うぐ……ぐす……』


 まさかジェットコースターがこんなに怖いとは思わなかった。あまりの恐怖に、乗り終わったあとでもべそをかく俺の頭を希さんがずっと撫でて宥めてくれる。

 もう二度とこんな怖いのは乗らない。そう心の中で誓う。


『もう少し軽めのにすればよかったわね』


 その軽いかどうかの判断がまだわからない。もし知っていたら真っ先にジェットコースターなんて除外していたはずなのに。


『メリーゴーランドなんかどう? あれならきっと楽しいし怖くないわよ』

『メリーゴーランド……』


 それも聞いたことがあるアトラクションの一つ。

 遠目から見ても、確かに怖そうな感じはしない。ジェットコースターのように急激な速さがあるわけでもなく、むしろゆっくりと同じところをぐるぐると回るだけ。

 あれなら俺でも乗れそう。


『ほら、行こ行こ! パパは今回も写真撮影?』

『そうだね。俺は外から撮ってあげてるから、二人で乗っておいで』

『隆史君、あの白いお馬さんに二人で乗ろうか!』


 希さんが優しい笑顔を浮かべて、俺の手を引っ張ってくれる。

 その晴れやかな笑顔を見ているだけで、心が軽くなり、安心させてくれた。


 ――――お母さん。


 そう呼びたかった。希さんなんて他人行儀な呼び方じゃなくて、もっとちゃんと母と言いたい。

 抑えきれない衝動に突き動かされ、ぼそりと囁くように。


『……おか、あ……』


 恥ずかしくて、まるで自分の声じゃないみたいに、つっかえながら発する。

 ただお母さんと呼ぶだけなのに、それだけのことなのに、どうしてこんなにも勇気がいるんだろう。それでも、どうしても呼びたくて、自分を奮い立たせる。


『ん、なーに?』


 けど、その勇気は、希さんの輝くような笑顔の前で霧散してしまった。最後まで言い切ることができず、途中で気恥ずかしくなった俺は、真っ赤になった顔を見られるのが嫌でただ俯くだけ。

 希さんはクスリと笑うだけで、俺がなにを言おうとしていたか察していたはずなのに、急かすわけでもなく俯いた頭を優しく撫でてくれた。


 ――――お母さんって呼びたかったな。


 俺にもっと勇気があれば、恥ずかしいなんて感情なんてなければ。

 このときほど後悔した日はない。

 それからも日が暮れるまで家族三人で楽しく過ごし、あまりに楽しくて、こんな夢のような時間が終わるのが名残惜しくて、自分でも驚いてしまうほど初めてわがままを言ってしまった。


『……帰りたくない』


 帰ってしまえば夢のようなひと時が終わってしまう。大人からすれば、まだまだ帰るには早い時間。

 なのに、それでも希さんと父さんは帰ろうと遊園地のゲートに歩を進める。俺は足を動かしていないのに、勝手に出入口に身体が近付いていく。


『まだ……帰り、たくない……』

『隆史君、また家族で来ようね』


 希さんがからかうように俺の頬を突く。

 遊び疲れてしまった小さな体を、軽々と背負ってくれる父の背中が大きかった。意識はどんどん落ちていく感覚になんとか抗おうとするも、瞼が鉛のように重く、視界が切れかけの街路灯のように点滅を繰り返した。


『おか、あ……』


 言いたい……最後に言いたい。この時間が夢ならば、お母さんって言っても誰にも怒られないはず。

 俺の言葉は途中で終わってしまい、意識は落ちてしまった。


 家族で過ごした一年間。間違いなく、俺の人生の中で一番幸せな一年間だった。

 もう少し、あとちょっとの時間があれば、気兼ねなく希さんのことをお母さんと呼ぶことができた。

 しかし、そんな幸せな時間は長くは続かない。夢はいつか覚めるもの。

 父の死によって、この夢のような時間に終わりが告げられた。

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