8話 隆史の過去(3)
『隆史、今日からお前のお母さんになってくれる希さんだ』
父さんに紹介された希さんが、俺に目線を合わせるために屈んでくれ、笑顔で話しかけてくれる。
『隆史君、よろしくね』
にっこりと微笑んでくれる希さんに、俺は慌てて父親の背中に隠れた。
『こら、隆史。ちゃんと挨拶しないか』
『いいのいいの。急にお母さんなんて言われても困るわよね』
初めて会った希さんの第一印象は、なんて穏やかで優しそうな人だ。
笑顔が素敵で、美人で、まるでテレビから出てきたのではと思うほど、その綺麗な容姿に目を奪われた。その見た目や年齢的に、お母さんというよりも、どちらかというとお姉さんの方がしっくりくる。
離婚してから一年経ち、父さんはいつの間にか職場で出会った希さんと恋愛をし、再婚をすることになっていた。
『隆史君、無理にお母さんなんて呼ぶ必要ないからね。私のことはあだ名でも名前でもいいから好きな風に呼んで』
『……希、さん?』
『うん、それで大丈夫。お母さんって呼びたくなったら呼んでね』
そうして俺の頭を優しく撫でてくれる。
その手が大きくて優しくて、でもちょっと恥ずかしくて。こんな綺麗で優しそうな人に、どう接すればいいのかわからず、ただただ戸惑った。
しかし、それも最初だけ。天性なのか、希さんは持ち前の懐の深さで、気付けば俺は心を開いていき、恥ずかしさや照れなどは無くなっていた。
※ ※ ※
『ただいまー』
『あ、おかえりなさい希さん!』
小学校にあがり、一人寂しく深夜に帰ってくる父を待っている毎日に光が差した。
父さんと同じ職場なのだが、希さんは毎日早めに帰宅してくれ、孤独に苛まれていた俺を癒してくれる。
『ふふ、隆史君良い子にしてた? お菓子買ってきてるから一緒に食べましょ』
『うん! あのね、希さん! 今日ね、友達ができたんです!』
『あらあら、よかったわね。どんな子と友達になれたの?』
『えっとねえっとね、莉子って言うんだけど、お話したらすっごく仲良くなったの!』
『あら、女の子? 隆史君はモテモテね』
『ち、違うよ! たまたま、たまたま仲良くなったんです!』
希さんはまだ玄関なのに、早く今日あったことをを伝えたくて、畳みかけるように話す。そんな拙く、他愛もない内容だが、それでも笑顔でずっと聞いてくれ、その太陽のような笑顔や安心感に甘えられることが嬉しかった。
こんな優しい大人の女性もいるんだ。
いつもヒステリックに叫んでいる女性しか見たことなかった当時の俺にとって、それは衝撃的だった。
『それでねそれでね……お菓子食べたいです!』
『ふふ、お菓子食べよっか。あ、でも……ご飯の前にお菓子は悪いことだから、パパには内緒ね。私と隆史君だけの秘密』
『はーい!』
ようやく玄関から希さんを解放したが、その後も俺の幼稚な話は続いた。
リビングのテーブルには、買ってきてくれたお菓子が並び、グラスにはオレンジジュースが注がれ、それを忙しなく食べては飲みながら希さんに語りかける。
話は明後日の方に何度も飛び、一貫性がまるでない。それでも黙って笑顔で聞いてくれるのが嬉しくて、ついつい話してしまう。
『莉子って猫を飼ってるみたいで……このお菓子美味しい!』
『その子は猫飼ってるんだ。隆史君もペット欲しい?』
『……ううん、大丈夫! 一人でお留守番出来ますよ!』
『隆史君は偉いね』
『しんちゃんよりも年上だもん、できますよ!』
『そうよね、しんちゃんよりもお兄ちゃんだもんね』
そのとき、オレンジジュースを飲もうとした手が滑り、テーブルにぶちまけてしまった。倒れたグラスからこぼれる黄色い液体がテーブルに広がっていき、次第に俺のシャツまでをも汚していく。
『あらあら、大変……』
『……ひっ!?』
かあさんと暮らしているときに、こんな風に汚してしまったら間違いなく叩かれていただろう。
だからそのときも、俺は叩かれると思った。
迫りくる暴力に耐えるために、自分の身を守るために、咄嗟にうずくまる。
『ごめんなさい、ごめんなさい……っ!』
――――殴らないで、殴らないで……っ!
酷いときにはプラスチックのバットで何度も痛めつけられたこともある。それが日常であり、俺にとって当たり前のことだった。
けれど、うずくまり震えるものの、いつまで経っても襲ってこない暴力。
『隆史君、大丈夫。あなたを傷つける人はいないから』
『……え?』
恐る恐る顔を上げると、そこにはいつもと変わらない優しい微笑みがあった。
俺を鬼の形相で叩くわけでもなく、汚い言葉で罵るわけでもなく、希さんはただただ優しく微笑んでくれる。
『隆史君、手を出して』
『……?』
俺の小さな手を包み込んでくれる大きな手。
――――あったかい……。
初めてのぬくもり。人の手のぬくもりが、こんなにも温かくて優しいものだと初めて知った。
『この手はね、隆史君を傷つけることなんかしない。
隆史君を守るためにあるの。
だから安心して、ね』
――――叩かないの? 僕、悪いことしたのに?
最初、希さんの言ってることが理解できなかった。悪いことをしたら、良い子にしなかったら、叩かれ怒られるのが当たり前だと思っていたのに。
目の前の人は、笑って許してくれている。
『服まで汚れちゃったわね。隆史君、バンザイしよっか』
『バンザイ……?』
『うん、服着替えさせてあげる』
『い、いいです! 自分で出来ますから!』
『あらあら、照れなくてもいいのに』
思い返すと、このときから俺は暴力に怯えなくなった気がする。
希さんは俺のことを傷つけたりしない、優しく包み込んでくれる。それがわかって安心することができるようになった。




