6話 隆史の過去
あれから散々泣いてしまい、泣き腫らした目を、細く陶器のような指で拭ってくれた。今はルナの膝に頭を乗せて、疲れ切った心を癒してもらっている。
ずっとそばにいてくれて、ずっと優しく抱きしめ続けてくれて、今も穏やかに俺の頭を撫でてくれている。
ああ、なんて温かいんだろう。心も身体もゆっくりできる。
「……ルナ」
「うん? どうした、隆史」
「ルナに聞いてもらいたいことがあるんだ……俺の過去、なにがあったかを」
「うん、聞かせてくれ」
「ごめんな。こんな話、つまらないだろうけど、ルナにはどうしても知ってもらいたいんだ」
「そんなことない。隆史の話はつまらなくない」
「……そか、ありがとう」
でも、本当に、ほんとうにつまらない話なんだ。
アニメとか漫画みたいに、酷い虐待を受けていたとか、凄惨ないじめにあったとか、そんなことは一切なく。ちょっとした不幸なことが続いただけの、どこにでも転がっているようなつまらない話だ。
それでも、俺という人間が、今に至るまでの大事な過去。
※ ※ ※
一番遠い過去は、朧げながらも覚えている。
たぶん四歳くらいのことだと思う。
暗い部屋でひたすら震えていた。起きていないようにするために、自分に矛先が向かないようにするために。
俺の両親はよく喧嘩をしていた。顔を合わせては醜い言葉をぶつけ合い、ときには暴力を振るっているのか、物が壊れる音が家中に響いた。それが怖くて、ひたすら自分はいないように存在を消し、震えながら嵐が過ぎるのを待っていた。
一度、喧嘩をした母親を慰めようと近付いたとき、八つ当たりのようにぶたれてしまい、それがきっかけでまた夫婦喧嘩が始まったのをみて、それ以降はなるべく近付かないようにしている。
喧嘩をする度に父親は家を出ていき、丸一日帰ってこないなんてことはしょっちゅうだ。
そして、決まってそのあとは母親が俺のそばに来て、両肩を掴みながら言うんだ。
『あの人は最低な人だから、あの人のことは忘れましょう。あたしとずっとそばにいて、ずっと暮らすのよ』
子供を味方にしようと必死なのだろう。最低なことを子供に言ってくる。けど、俺も小さかったし、泣いているかあさんが可哀想で、黙ってその言葉に頷いた。
かあさんは料理が苦手な人だった。手料理なんて食べたことがないし、夜はお父さんが買ってくるお弁当ばかり食べていた。
夜はそれでいいかもしれないが、昼間はそうもいかない。休日でも忙しく働く父は仕事でいないし、誰も作ってくれない。
『ごほ、ごほ……ママ……お腹、空いた……』
『じゃあ、これで好きなの買ってきなさい』
タバコをくゆらせるかあさんにお願いすると、渡されたのは五百円玉。
それを握りしめて駄菓子屋によく行っていた。近くにはコンビニも無く……正確にはあったのだが、子供の足では遠すぎた……なので、仕方なく一番近くの駄菓子屋によく足を運んだ。
四歳では計算もできない。なので、適当にお菓子を選んで、もし金額が不足していたら、お菓子を取り除いて貰おうと思った。
適当にお菓子を選んでいき手に取ったのは、八十円のラムネ、百円のチョコレート、百円のグミ、七十円の飴。それを小さなかごに入れて、店員さんに持っていく。
『はい、全部で四百五十円ね』
本当は三百五十円のはず。計算ミスをしたのか、わざとなのかはわからないが、計算もできない俺は言われた通りに五百円玉をトレーに置き、五十円のお釣りとレシート握りしめて家に帰った。
これが初めて人に騙された経験だろう。
『あんた、なんで五十円しか持っていないの! お釣り、誤魔化してるでしょ!』
『え、え……?』
帰った俺を待っていたのは母親の叱責。ヒステリックに声を荒げ、激しく罵った。
『ご、ごまかすって……? お金……こ、これしか……貰ってない……』
『レシートには三百五十円って書いてるじゃない! 残り百円、早く出しなさい!!』
『え、と……そ、の……こ、これ……お金……』
四歳の語彙力では、母がなにを言ってるのかよくわからない。ただ怒っているのだと、自分がなにか失敗をしてしまったのは伝わった。
『お金が足りないって言ってるでしょ!!』
『うわぁぁぁぁあああああん!!』
そして、またもやこっぴどく叩かれる。叩かれては泣き、それが癇に障るのか、また叩かれる悪循環。
あざができている俺を見て、また父と母が喧嘩する。それが嫌で嫌で仕方がなかった。
冷え切った夫婦の仲が修復不可能になるまでに至るきっかけ。それが後頭部にできた大きな傷。
※ ※ ※
あれは確か五歳の頃。
その日も俺はなにか粗相したようで、母親に叩かれていると、トドメとばかりに思いっきり身体を突き飛ばされた。
それが運悪く、突き飛ばされた先には背の低いテーブルがあり、後頭部を角に打ち付けてしまった。
『い、た……っ!』
頭を強かに打ち付けてしまい、後頭部を抑えて転がり回る。
目に映るのは、突き飛ばした癖に、顔面蒼白になって駆け寄って来る母親。なぜそんなに慌てているのか、突き飛ばしたくせになぜ駆け寄って来るのか。そのときはよくわからなかった。
『こ、これ……これで頭を抑えてなさい……っ!』
渡された大量のティッシュ。それを後頭部に押し当てると、ぬめりとした感触が手に伝わる。確認すると、ティッシュが真っ赤に染まっていた。
不思議と痛みはなかった。アドレナリンが出ていたからなのか、よくわからなかったが、俺の感想としては。
血が止まらない、おかしいな……。
くらいだった。
血が出ることなんて、転んだときにできるかすり傷くらいしか経験がない。そんな微かな傷の血なんて、すぐに止まることが殆どなので、止めどなく溢れてくる血が怖いとかより、まるでケチャップみたいだ、いつもはすぐに止まるのに変だな、と間抜けな感想しかわかなかった。
母親が慌ててどこかに電話しているのが見えた。
そして、電話を切った母親が、俺に向かって凄い形相で言った言葉は忘れることはない。
『その傷……どうやって出来たか聞かれたら、遊んで自分でぶつけたって言いなさい……っ!』
『う、うん……』
あまりの剣幕にそう頷く。
どうしてそんなことを言わなきゃいけないんだろう、だとか、自分が突き飛ばしたから僕は怪我したのに、だとか。そんなことは一瞬頭に浮かんだだけで、母親のあまりに必死のようすに、ちゃんと言われた通りにしなきゃ、と思い直した。
なぜかはわからないけど、そうしないと母親が悲しむような気がしたから。
それからのことはあまり覚えていない。
救急車に乗せられ、病院で頭を縫われたことだけは覚えている。
大の大人数人係で、泣き叫びながら暴れる俺の四肢を押さえつけ、縫われたことだけは記憶に残っている。
『ぎゃぁぁぁあああああっ!!』
そのときの感想も、今になって思い返すと間抜けとしか思えない。大人に押さえつけられたらこんなに身動きが取れなくなるんだな、とそれだけ。
気付けば俺は家にいた。頭にメロンを包むようなネットを被せられ、それが恥ずかしくて仕方がなかった。
このときの母親の言葉も、一生涯忘れることはないだろう。
『その怪我、あんたが悪いからできたんだからね。あんたが良い子にしてれば、そんな怪我なんてしなかったのよ』
『うん、わかった』
――――そうか、僕が悪いのか。悪い子だったからこんな怪我しちゃったんだ。
このときは本気でそう思っていた。
仮に俺が本当に悪いことをしてたとしても、これはどう考えてもやりすぎだ。体罰を完全に超えている。今はそんなことわかっているが、このときはそう信じてやまなかった。




