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5話 ま、た……

「希、今日は遅いな」

「確かに遅い。いつもなら遅くなるときは連絡してくれるのに」


 ご飯も食べ終わり、お風呂も入った後の静かなリビングには、時計の音だけが響いている。俺もルナも、落ち着きなくソワソワとしている。

 もう日付が変わろうとしているのに、いまだに希さんは帰ってきていない。これくらいの時間に帰ってくることも珍しくもないのだが、それは連絡があるとき。スマホをまだ持っていないときは、連絡もなく、この時間に帰ってくることもあったが、今は違う。これほど遅い時間にも関わらず、連絡の一つもないのは最近では記憶にない。


「希に連絡してみたら?」

「したんだけど、返事がないんだよ。事故にでもあってなければいいんだけど」

「そうか、心配だな……」

「帰ってくるのを俺が待ってるから、ルナはもう寝てろよ。眠いんだろ?」

「眠いけど……心配で寝れそうにないから、一緒に起きてる」


 ウツラウツラとし、目をこすりながら眠気と必死に戦っている。

 それから一時間以上経った。いまだに連絡はなく、さすがにそろそろ心配だ。日付も変ってしまい、これはいよいよ会社に連絡したほうがいいのかと頭によぎる。

 耐えられなかったのか、ルナは眠気に負けてしまい、俺の膝を枕代わりにし、眠ってしまった。

 こういうときのパトカーの音や、救急車の音が怖い。もしかしたら事故にでもあったんじゃないかと不安になってしまう。

 外で車のエンジン音が家に近付いてくるのが聞こえた。それが家の前で止まったのか、聞こえなくなる。

 直後、チャイムの音が鳴った。

 こんな時間に誰だろう?

 ルナの頭をそっと膝から降ろし、玄関に向かい扉を開けると、見知らぬ男性が立っていた。その男性の隣では、希さんが身を預けながらふらふらと歩いている。

 意識があるのかないのか、彼女の目は閉じていて、辛うじて歩けている状態。


「ごめんよ。彼女と遅くまで飲んでいたんだけど、酷く酔ってしまって、こうやって送って来たんだ」


 希さんの肩を抱きながら、ゆっくり家の中に入っていく男性。擦れ違ったときに、希さんの呼気からお酒の匂いが漂った。相当飲んできたのか、酩酊しているように見える。


「希さんの寝室はどこかな? そこまで連れていくよ」

「こっちです」


 寝室まで案内して布団を敷いてあげると、男性が希さんをゆっくりと横に寝かせる。


「……隆史、希は帰ってきたのか?」

「うん、帰ってきたよ」


 目が覚めたようでルナが扉から顔を覗かせ、部屋のようすを窺ってきた。見知らぬ男性がいることに少し困惑したのか、それとも嫌悪感からなのか、ルナは一言「よかった」とだけ呟いて二階に上がってしまった。


「ふー、これでいいかな」


 布団を希さんに掛けてあげた男性が、一仕事終えたように額を腕で拭う。


「送って頂いてありがとうございます」

「いいよいいよ。こんな状態の希さんを一人で帰らせるのは不安だったしね。えっと、君は隆史君なのかな?」

「え、はい。そうですけど」

「そうか。ちょうどよかった君に話があるんだ」


 なんだろう、今日初めて会った人と話すことなんてこっちにはないけど。


「ここじゃなんだし、リビングにでも案内してくれるかな?」


 まるで自分の家のように振る舞う男性に少し不快感を覚えたが、親切にも送ってくれた手前、言われた通りにリビングに案内する。


「飲み物なにがいいですか? お茶とかコーヒーならすぐにでも出せますけど」

「いや、大丈夫。長居する気はないから」


 椅子に座った男性が、少しネクタイを緩めた。

 飲み物を断れたけど、マナーとしてやっぱり出すべきなんだろうか?

 大人に対するおもてなしのやり方がわからず思案していると、それを察したのか、男性が笑顔で話しかけてきた。


「本当に大丈夫だから。あ、私は希さんの同僚で、国次くにつぐって名前なんだ。よろしくね」

「どうもです。国次さん、今日は本当にありがとうございます」

「お礼なんていいよ。逆に謝らないといけない、こんな時間まで希さんを連れ回してしまったんだから」


 さっきからこの男性が馴れ馴れしく希さんと名前で呼ぶのが引っかかる。ただの会社の同僚が、名前で呼んだりするだろうか。名前で呼ぶほど仲が良いのか、それともそういう関係なのだろうか。

 希さんに彼氏がいるなんて聞いたことがない。

 ただ、客観的に見ても希さんは綺麗だ。彼氏がいてもおかしくないし、これまでに色々な男性に好意を寄せられてきただろう。もしかしたら俺には黙っていただけで、彼氏がいるのかも。


「実はね、こんなにも遅くなったのは君のことで相談を受けていたからなんだ」

「僕のことで、相談……?」

「そう、君のことで。だから話があったんだ」


 希さんが、俺のことで相談……。


「隆史君と希さんは血が繋がっていないらしいね。旦那さんの連れ子だって聞いたよ」

「……そうです」

「それで、最近になって旦那さんの前妻が、君を引き取りに来たとも聞いたよ」


 希さん、そんなことまでこの人に話したんだ……。

 他人に自分のことを勝手に話をされてたのは嫌だけど、それだけこの人に対して信頼を寄せているのか。それとも無理に聞き出したのか。

 やっぱり、それだけこの人と希さんは親密な関係なのかな。


「希さんはね、会社でも凄く評価が高いんだ。仕事ができるし、気さくだし、なにより美人だ。そんな彼女だけど今まで浮ついた話は一つもない。色々な男性にアプローチされても彼女は靡かなかった」


 やっぱり希さんはモテるんだな。

 なのに、どうしてそれらを全て断ってきたんだろう。


「隆史君がいるから全て断ってきたんだ。引く手あまたのはずなのに、彼女は再婚もしないし、彼氏の一人も作らない」

「俺が、いるから……」

「希さんはまだ若い、これから恋愛して結婚して子供を生んで幸せな家庭を築ける。なのに、このままだと彼女はそんな幸せを逃がしてしまう」

「…………」

「君が実の母親と一緒に暮らせば、希さんは自由になれる。そしたら、さっき言ったみたいな幸せな人生を歩める」


 俺が、俺が……希さんの幸せを壊してしまってるのか……?


「こんなこと言いたくはない。希さんが相談してきたのは隆史君がどうやって幸せにすることができるかの方法だけど、このままだと彼女が不幸になってしまう。それは、君が、希さんの足枷になってるからなんだよ」


 やっぱり、俺が……重荷で……だから、希さんを不幸に……。


「みんなが幸せになれる方法なんて簡単じゃないか。隆史君がお母さんのところに帰れば、それだけでみんなが幸せになれる」


 また、またなのか……俺は、また……。


「私が言ったことはあくまで参考程度に聞いてほしい。けど、よく考えておいてほしい。希さんの幸せを考えるなら、どうしたらいいか」

「……わかりました」

「じゃあ、私は帰るよ」


 国次さんを玄関まで見送る。扉が閉まる直前、最後になにか言っていたが、頭が回っていないのか言葉を認識できなかった。

 身体に力が入らない。夢遊病のような、千鳥足で二階に上がっていく。

 早く部屋に戻りたい。少し話しただけなのに、どうしてこんなにも疲れているんだろう。

 ここだと駄目だ。もし希さんが起きてきてしまったら、また心配をかけてしまう。せめて部屋に戻って……。

 まるで鉄のように重い自室の扉を開けて、緩慢な動きで部屋の中に入る。

 扉を閉めた直後、それまで我慢していた思いが一気に溢れた。


「隆史、さっきの男は帰ったのか。寝る前に……そ、その……ハムハムしていくか?」


 ルナがなにか言ってるが、そんなことよりも……身体が、心が、もう耐えられなかった。


「……あ……ぐ……ぁぁ……っ!」


 糸が切れた人形のように床に膝をつき、胸を抑える。心臓がバクバクと痛いほど早鐘を打ち、涙が勝手に溢れてくる。


「……ま、た……」

「隆史……?」

「ま、た……捨て、られる……」


 嫌だ……嫌だ、嫌だ……。

 俺がいるから、希さんを不幸に……また捨てられたら、みんな幸せに……。


「ぐ……ぅぅ……捨て、ない……で……」


 ひゅーひゅーっと、まるで自分が呼吸をしているとは思えない音が聞こえる。

 俺さえ……いなければ、みんな幸せに……やだ……やだやだやだ……。

 助けて……誰か、助けて……。


「捨て、ないで……捨て……」


 そのとき、温かく優しい柔らかなものが俺を包んでくれた。


「隆史、大丈夫……落ち着いて、私はそばにいるから」


 耳をくすぐる優しい音色。全身を包んでくれて、心を穏やかにさせてくれる声色に涙が止まらなかった。

 ああ、お母さんに優しく抱かれたら、こういう感じなんだろうな……。

 遠い記憶を辿っても辿っても、女性に包み込まれたことなんてなかった。こんなにも落ち着けるんだ、なんて優しく居心地がいいんだろう。


「ルナぁ……ルナは、ずっと……ずっと、そばにいてくれるのか……?」

「……ああ、もちろんだ。ずっとそばにいる。隆史のことを捨てない。なにがあっても私は隆史の味方だ」

「あ……う、く……ルナ……ルナぁ……っ!」


 優しく抱きしめてくれて、背中を、頭を撫でてくれる手が温かくて、ルナの胸の中でひたすら泣き続けた。

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