1話 大事な話
「かあ……さん?」
「もう、なに当たり前のこと言ってるの」
「い、いえ……あの、お久しぶりです」
今だ目の前の人物が現実にいるとは思えない。まるで夢を見ているような、頭の中が真っ白になり、靄がかかっていような不思議な感覚だ。
「え、と……」
久しぶりにあった母親は、昔の面影を残しつつも、それでいて大分変っていた。
こんなにも、老けてしまったんだな……。
昔とは違い、目尻にしわを作り、ほうれい線ができていた。白髪対策なのか、黒かった髪は茶色に染められ、だけど、ところどころに白髪が残り、それが際立って見える。特に印象強いのが、昔はあんなにもつり上がった目が、穏やかに垂れ下がっていた。
「隆史、こんなにも大きくなって……」
そして、昔はあれだけ大きく見えた背中が、今や小さく見えた。頭一個分以上に追い抜いてしまった身長は、それだけの年月が経っていることを示している。
「元気にしてた? ちゃんとご飯食べれてる? 勉強はついていけてる?」
矢継ぎ早に質問責めしてくる母親に困惑してしまう。返答したいのに、俺の言葉を待ってくれないので、中々返事ができずにいた。
どれの質問に答えていいのかわからず、最終的に。
「大丈夫です……」
とだけ答えてしまう。
「ああ、よかった! 隆史のことずっと心配していたの、元気にしているのかなって」
ズキリッと胸が痛んだ。
全身が氷のように冷たくなり、身体が震えていくのがわかった。呼吸も浅くなっていき、思考が定まらない。地に足がついていないような、足場の感覚が喪失し、ふわふわとした浮遊感に包まれる。
繋いでる手に力が込められた。俺の異常なようすを察したのか、ルナが安心させるようにぎゅっと握ってくれる。
「そうだ! このあと時間あるわよね、話したいこともあるし、ちょっとそこのお店に入りましょう」
「い、いえ……このあとは……」
「さ、さ。早く行きましょう」
人の話を全然聞いてくれない……。
この場から逃げたくて断ろうとしたが、母の中では約束を取り付けたことになっているようで、喫茶店の中に入って行ってしまった。
仕方ない、ついていくか。あまり長く話したくないし、適当に話を合わせてさっさと帰ってしまおう。
「いらっしゃいませ、三名様ですか? 喫煙席にしますか、禁煙席にしますか?」
「喫煙席にしてちょうだい」
「かしこまりました。お席にご案内します」
喫茶店に入ると、店員さんと母が会話をしていた。案内されるまま、指定された席に座る。
俺の隣にはルナが、向かいには母が座った。
座って早々、向かいの席では鞄をゴソゴソとなにかを探り始めている。取り出したのはタバコとライター。それを無造作に机に置き、小さい箱からタバコを一つつまみ上げる。
タバコを口に咥えて、白い煙を吐き出す。
「ごほ、ごほ……っ!」
しまった、そういえばこの人はタバコを吸っていたんだ……。
小さいときの記憶なので忘れていたが、この匂いで思い出した。毎朝、目が覚めると、この匂いが充満した部屋で起きていたことに。タバコが苦手だった俺にとっては、それが憂鬱で、朝が辛かった記憶が鮮明に残っている。
「ごほっ……ごほっ……っ!」
せめて吐き出す煙は明後日の方向にしてほしい。わざとなんじゃないかと思うほど、俺の顔に向かって煙を吐き出してくる。
「隆史、大丈夫か……?」
「だい、じょうぶ……ごほ、ごほ……っ!」
ルナが心配そうに顔を覗き込んでくる。安心させるように、彼女に向かって微笑んだ。
せめてもの救いなのが、ルナに煙が向けられていないこと。匂いはどうしようもないが、煙を直接吐き出されていたら、この辛さを味わさせることになっていた。
状況を見かねて、隣では帽子のつば下から睨むように、母を見据えだした。
「……タバコをやめてくれないか」
「隆史、この子は?」
そこで初めてルナを認識したかのように、母の瞳が隣に向けられた。
「希さんの親戚の子です。ルナって言います」
「手を繋いでたけど、隆史はこの子と付き合ってるの?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
「そう……あのねルナちゃん。ここは喫煙席なの、タバコを吸ってもいい場所なのよ。だからあなたにとやかく言われる筋合いはないわ」
「吸ってもいい場所かもしれないが、苦手な人もいるんだ。そこは配慮するべきだろ」
「誰が苦手なの? 隆史はもしかしてタバコ駄目だった?」
「……あの……その……」
「私が苦手なんだ。タバコを吸うなら、まずは私たちに確認をするべきだろう。それが最低限のマナーだ」
「じゃあ、最初にそう言ってよ。そしたらあたしも吸わなかったわよ」
「言う前に勝手に喫煙席にしたのはあなただ。もっと言うなら、席に案内される前から私たちに確認するべきだ」
ルナと母の視線が激しくぶつかり合う。お互いに主張を譲らず、一触即発状態になってしまった。
「あのね、ルナちゃん。あたしと隆史は久しぶりに再開して親子水入らずになりたいの。少しは空気を読んで席を外すとかしてくれないかしら」
「だからどうした、私の知ったことではない。空気を読む、読まないの話だったらそっちが読むべきだ。私たちが遊んでいたのを勝手に割り込んだのはそちらだろう。それならそっちが空気を読むべきだ」
「…………」
「もう一度言う、タバコをやめてくれ。それが嫌なら空気を読んであなたが出ていくべきだ」
不機嫌そうに顔をしかめ、明らかに聞こえるように舌打ちをした母が、灰皿にタバコを押し付けた。火を消している間もルナのことが気に入らないのか、向けられた視線は厳しい。そして、それを向けられている本人はその視線に一切逸らすことなく、負けずに同じくらいの視線で睨み返している。
「隆史、付き合う女性は考えた方がいいわよ」
その一言には反論したかったが、俺から口から出てくるのは喘ぐような呼吸音のみ。
自分が情けない。庇ってくれたルナを守ることもできず、言われたい放題なのに、それなのに俯くしかできない……。
「本当は隆史と二人で話したかったんだけど……あのね、大事な話があるの」
「大事な話……?」
「そう。あの人と離婚して親権を譲ったけど、ずっと隆史のことは気にしてたわ。あなたのことは忘れたことなんて一度もない」
テーブルの上に肘を乗せ、前のめりになって俺に近付いてきた。
「だからね、また一緒に暮らさないかしら? 隆史と過ごすはずだった失った時間を取り戻したいの」
その一言はあまりに衝撃的すぎて、頭をハンマーで殴られたような強烈な言葉だった。




