24話 体育祭、本番(3)
「ルナっち、頑張って!」
紬の言葉を背中に受け、ルナが一歩、足を踏み出す。
「~~~~~~っ!」
直後、激痛に顔を歪めた。
たった一歩踏み出しただけなのに、まるで全身を針に刺されたかのような痛みが全身を襲う。
それでも、ルナは止まらない。耐えるように歯を食いしばり、眉間に皺を寄せながら、一歩、また一歩と足を踏み出す。片足を引きずりながら、亀のような速度で前に進んだ。
そのようすに、生徒も異変に気付いた。声援が止まり、ざわざわと騒々しい雰囲気に。
そんな状況も聞こえていないのか、ルナは走った。
「……っ……ぐ、う……あぐ……」
数メートル走っただけなのに、それでも大量の汗が吹き出す。それだけの激痛がルナに襲い掛かっていたのだ。
真夏の炎天下で、フルマラソンの距離を走っているような感覚。ルナにとって、それくらいゴールまでの距離が果てしなく遠く感じるだろう。
「……い、たい……ぃたい……っ……」
そんな呟きが聞こえてくる。
全校生徒が声を張り上げる中、ルナの囁くような声は聞こえないはず。それでも俺にはしっかり聞こえた。
……ルナ、頑張ってくれ!
思わず胸の前で手を組んで祈った。少しでも痛みが和らぐように、少しでも早くゴールできるように。
「……はあ……はっ、はっ……ぐ、あぁ……」
荒い呼吸を何度も繰り返し、激痛に苛まれながらゆっくりと走っていると、後続の走者がバトンを渡した。白鳥がスタートを切ったのだ。
一際大きな声援が聞こえ、ルナが横目で白鳥を確かめた。
迫って来る白鳥の姿。このままでは確実に負ける。あれだけ練習したのに、あれだけ努力を重ねてきたのに、負けてしまう。
焦りがルナを覆った。そのとき、生徒の声援を掻き分けるように声が届いた。
「ルナっち、頑張れー!」
「ルナちゃん、頑張ってー!」
「ルナさん……頑張って、ください……っ!」
みんなの声が届いたのか、ルナの表情に赤みが差し始めた。
ルナが莉子を見た。
『莉子は、運動神経が悪いと言っていた。けれど、誰よりも練習をしてくれて、今では安心して走っているのを見ていられる』
岡田に視線を送る。
『岡田は部活動があるのにも関わらず、休んでまで練習に参加してくれた。』
最後に紬を。
『紬は、私を叱責してくれた。彼女のおかげで、私はみんなに頼ることができた』
ルナは、みんなに感謝していた。
『みんなが自分のワガママについてきてくれた。一人で戦ってきた自分に、みんなが力を貸してくれた。それなのに、それなのに負けるのは絶対に嫌だ』
みんなの思いを受け取ったのか、ルナが瞼を閉じた。
そして、その瞳が再び表したとき、覚悟を決めたような、決意の光が宿っていた。
「ああああぁぁぁぁああああっ!!!」
「……なっ!?」
ルナが走り出した。怪我している足を無視して、さっきまでとは違う、引きずるような形ではなく、足を踏みしめるように走りだす。
思いもしなかったルナの力に、白鳥の表情が驚愕に満ち溢れた。走れるはずはない、そう思ってた人物が目の前で走り出した。それは想像していなかったこと。
「……っ……ぃ、っ……」
足が痛いはずがない。それでも彼女は走り続けた。
風を切りながら、白鳥との距離を広げようと……けれど、広まらない。
「……速い」
思わず呟いてしまった。その圧倒的な速度に。
今やルナは、怪我をする前と同じくらいの速さで走っている。それでも白鳥はそれに追いつこうとしていた。これほど速いとは思わなかった。陸上部を一人で強豪にしたのは伊達ではない。
まずい、負ける……っ!
せっかくルナが、激痛に苛む足を無視して踏ん張ってくれてるのに、白鳥に負けてしまう。
「……ふ、く……ぐぅ……」
額に滴る汗が目に入ったのか、ルナが泣いてるように見える。そして背後に迫る白鳥は涼しい顔をしていた。
振り返りはしなかったが、最高潮に達している声援で、白鳥が迫っていることがルナにも感じ取れた。
負けてしまう……。
それがルナの頭によぎったのか、焦りが絶望に変わっていく。
みんなに託されたバトン、それはただのバトンじゃない。みんなが自分のために頑張ってくれた、力を貸してくれた、そんな思いが詰まったバトン。
負けるということは、そんな思いを、みんなの頑張りを不意にするということ。
背後に迫る白鳥は涼しい顔をしていた。その両肩には陸上部の思いが圧し掛かっている。そんな重みも、白鳥は今まで跳ね除けてきた。
ルナの左手に圧し掛かったバトンが、今の彼女にとってはプレッシャーになっているのかもしれない。
泣きながらも、それでも懸命に足を動かす。
ルナ、頑張ってくれ……っ!
目を瞑って必死に祈った。
神頼みでもなんでもいい、ルナに力を与えられるなら……っ!
『だから、明日も頑張れって言ってくれ』
俺はなにをやってるんだ……。
違うだろ、なにを祈ってるんだよ。今するべきことは、こんなことじゃない……。
『だから、明日も頑張れって言ってくれ。隆史の応援の言葉が、私にとってなによりも励みになるし、力になる』
ルナは言ってくれたじゃないか。俺の応援の言葉が励みになるって……っ!
俺がするべきことは、目を瞑って祈ることじゃない。ルナを応援することなんだ。
「ルナー、頑張れーっ!!」
俺は立ち上がって、あらん限りの大声で喉を震わせた。
聞こえないかもしれない。こんな生徒の興奮が最高潮に達したグラウンドに、俺の声なんてルナには届かないかもしれない。それでも何度も声を張り上げた。
ルナの表情が変わった。今までは絶望に襲われて青ざめていた表情に、みるみるうちに赤みが差し始めた。
俺の声が届いて、ルナに力を与えられたなんて自惚れかもしれない。それでも、自惚れでもなんでもいい、ルナに力を与えられるなら何度でも頑張れって言ってやる!
「ルナ―、頑張れーっ!」
俺が声を張り上げた直後、ルナが速くなった気がする。
「……っ!?」
それは、追いつき追い越そうとしていた白鳥が一番驚いたであろう。急に速くなった、そんなことがあり得るわけがない。それでも現に自分の前を走る人物が、そのあり得ないことをしている。
一瞬だけ驚き、すぐに切り替えたのはさすがだと思った。
―――――速い。驚くほどに速い。
それはルナではなく、白鳥のほうだ。
怪我する前より速くなったルナに対して、白鳥はそれでも距離を縮めてきている。
なんて速さなんだ……これが陸上部のエースの底力。
いや、それでも……勝った! もう少し距離が長ければルナは負けていたかもしれない。
このままゴールまで走ると、数十センチ……いや、数センチの差でルナの勝ちだ!
やった、勝ったんだ……ルナ、俺たちは勝ったんだ!
ゴール付近では、迫りくるルナと白鳥に合わせて、女子生徒たちが、ゴールラインの白い白線に沿うようにゴールテープを広げ始める。
テープの両端を持っている生徒たちに見覚えがあった。
あれは……陸上部と一緒に、白鳥に詰め寄っていた女子生徒だ。顔つきからして多分一年生だと思われる。
俺はルナがゴールする決定的な瞬間を撮ろうと、スマホを取り出した。
もうすぐ、ルナと白鳥がゴールする。
そして、ゴールテープが切れた。
――――――勝ったのは、三組だ。
割れんばかりの歓声が上がった。
……俺たちは負けたのだ。
白鳥の元に駆け寄り、喜び合う三組と陸上部。そしてその近くでは、二組の俺たちが絶望に打ちひしがれていた。勝てると思っていた、途中まではルナは勝っていた。しかし、最後の最後に白鳥に捲られたのだ。
「そ、んな……」
「…………」
崩れ落ちる莉子と、呆然と立ちつくす紬の姿が見えた。目の前の光景が信じられず、まるで地獄に突き落されたかのように、その場を動くことさえできずにいる。
「あああ……ぐ、ぁあ……うぐ……くそ、くそ……っ!」
「ルナさん……」
跪き嗚咽を漏らしながら、悔しさのあまり何度も拳を地面に叩きつけるルナに寄り添うように肩を抱いてあげる岡田。
そんなどん底に落ちるみんなとは違い、俺はどこか冷めたような感覚に陥る。
もちろん悔しいし、俺たちとは違い喜んでいる白鳥たちを見ると、はらわたが煮えくりかえる思いだが、そんなことより、俺は次の行動に移すことを考えていた。




