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8話 おなら

「…………」


 最大のピンチが、今、俺に訪れている。机に置かれている手を血が出そうなくらい握りしめ、貧乏ゆすりが止まらずプルプルと震えている。額から玉のような汗が吹き出て、呼吸は荒れ、痛みに必死に耐えていた。

 教卓に立つ先生の声が煩わしい。片手に教科書を持ちながら、黒板になにかを書いてる。本来であれば、周りの生徒と同じように板書をしなければいけないのに、俺はペンを持とうともせず、ただひたすらに耐えていた。


「……っ……」


 ふぅふぅ、と何度も呼吸を繰り返す。教室に備え付けられた時計を見ると、最後に確認してからまだ五分も経っていなかった。

 な……五、分も経って……いない……。

 その事実が俺の肛門を刺激した。

 くおおぉぉ……ぬおおぉぉ……。

 屁が……屁がしたい……。

 けど、それはだめだ。今は授業中、筋肉隆々のナッパが背中を見せながらずっとなにかを書いている。その恐ろしさからか、ナッパの低い声と生徒がノートに書くペンの音だけが教室内に響いている。もしこの状況で屁なんてこいてみろ。無駄に響き渡る屁の音、それを青筋を立てて注意する先生。俺のあだ名が屁コキマンになってしまう。

 いっそトイレだと誤魔化して、屁をこいてくるか?

 タイミングを見計らい、手を挙げた。それに気付いたナッパが、俺に視線を送る。


「どうした宇上」

「……トイレに……行きたい、です……」

「あと十五分で授業が終わるんだ、それまで我慢しろ」


 ふざけるなぁぁぁああああ!! お前、これで本当にう○こだったらどうしてくれるんだよ! 教室内にバイオテロ、もしくはスメルテロが起きちまうぞ!! いや、スメルテロは今も起きそうなんだけど!!!

 てか、俺のこの尋常じゃない発汗とようすから我慢の限界って察することができんだろ! それを我慢しろだ!? お前は正気の沙汰じゃねえよ!


「……ふ、ふ……くふぅ……」


 いや、もしかしてこれは屁じゃないんじゃないか? だってこんなに腹が痛いっておかしくない? 実は屁に見せかけてう○この方なんじゃないか?

 ちょっと、屁をこいてみる……?

 少しだけ、少しだけ……先っちょだけ屁を腸から逃がしてあげるか?

 そしたらこの腹痛がマシになるかもしれない。けど、運悪く屁が盛大に音を立てたらまずい。なるべくすかしっ屁であるように、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ肛門を緩めてみよう。

 でも万が一、億が一の可能性ですかしっ屁にならないことを考慮して、なにか音で誤魔化さないと。

 そうだ、咳をするフリをして屁の音を誤魔化そう。そうすれば音が鳴っても誤魔化せるはず。

 そっと腰を浮かせて、半分だけお尻を空気に触れさせる。

 ……いくぞ。


「ごほごほっ!(ぶぅー)」


 ……あっぶなー! 今普通に音出てたよね!? 普通にぶぅーって言ってたよね!! 咳で誤魔化さなかったら絶対バレてた!

 慌てて周りを見渡す。俺のようすに勘ぐった生徒はおらず、相変わらず板書に勤しんでいた。

 よかったー……バレてない……。

 少し屁を逃がしたから腹痛が治まって……ない!!


「くふぅ……はぁー、はぁー……ぬぅ……」


 痛い痛い痛い痛い! お腹がめっちゃ痛い!!

 屁を少し逃がしたのが逆効果だった。取り残された屁たちが我も我もと肛門に押し寄せてくる。

 やばい、やばい……で、でそう……も、もう一回……さっきの咳作戦をやってみるか……。


「ごほごほっ!(ぶ、ぶぅー!)」


 二発も出てんじゃねえよ! 俺が許したの一屁だけ! しかもちょっとだけ長かったから、咳の時間から少しこぼれて屁が鳴っちまったじゃねえか!

 ば、バレてないよな……?


「…………」


 隣に座るルナがオッドアイの瞳を訝しげに細め見てきていた。


「……えへ」


 俺が気持ち悪い笑顔を送ると、視線を黒板に戻した。

 よし、バレてない! たぶんバレてない!!


「宇上、うるさいぞ。少しくらい咳を我慢しないか」

「あ、はい……」


 ナッパに注意されてしまった。

 まずい……これ以上は咳で誤魔化す作戦は使えない……別の作戦を考えないと……。


「ひ、ひ、ふぅー……」


 またもや訪れる腹痛の波。それを和らげようとラマーズ法で誤魔化す。しかし、そんなことでは一切誤魔化されてはくれない腹痛。

 次の作戦をひらめいた。それは椅子をずらすフリをして、わざと椅子を床に擦らせ音を立て、その間に屁をこいてしまおう作戦。しかしこの作戦、致命的な欠陥がある。それはあまり長く音を立てられないこと。なので、あくまで屁の音は短く、刻むようにこかないといけない。

 よし、行くぞ……っ!

 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ(ぶぅ、ぶぅ、ぶふっ!)


「…………」


 や、やばい……っ! 最後の音だけ明らかに音が大きかった! これはバレてしまったかも……!?

 さらに訪れるピンチ。群衆となった屁が肛門を突き破ろうとしてきている。これは早急に誤魔化さなければ!

 秘儀、声に出しながら伸びをし、さらに椅子を引きずる作戦。


「ん、ん、んぐ、んぐぶるー!」


 ガタッ、ガタッ、ガタッ、ガタタッ!(ぶぶぶ、ぶぶ、ピッ、ぶぶっぶー!)


 伸びをしながら身体を左右に振り、椅子を引きずるどころか揺らしてしまった。傍から見たら、エクソシストに取り憑かれたやばい人に映っているかもしれない。

 現に周りの生徒が引いた目で俺のことを見ているんだから。

 むしろそっちのほうがいい。屁コキマンなんて不名誉なあだ名を付けられるくらいなら変人になってやろうじゃないか。


「宇上、さっきからうるさいぞ」

「すいま屁ん……」


 お前がトイレに行かせてくれてたらこんなことしないですんだんじゃぁぁぁあああ!!

 さっきから俺の作戦の邪魔ばっかりしやがって……。

 でも大分屁をこいたからか、大分腹痛がマシになったぞ。これなら授業終わりまで我慢できるかもしれない。

 勝った、勝ったぞ……俺は勝ったぞ!!

 心の中でガッツポーズをする。腸にいる屁たちも喜んでくれているのか、勝鬨をあげる!

 ぶぅ、ぶぅ、ぶぶーーー!!

 教室中に広がる屁の音。その音を聞いた生徒たち、果てにはナッパまでもが水を打ったように静まり返った。


「…………」


 しまったー……勢いあまって屁をこいてしまったー……は、恥ずかしいー……。

 ……諦めるにはまだ早い。これをネタにしてしまえばいいんだ。ここでナッパが「宇上ー、授業中に屁なんてするんじゃないー」なんて言ってくれたら、俺が「いやー、休み時間を待ち切れなかった屁が、教室じゃなくて肛門から出てしまいました」なんてボケれる。そしたらこれが笑い話に昇華するはず!


「…………」


 屁の音を聞いて石のように固まってしまったナッパが、背中を向けたまま立ち尽くしている。

 さ、ナッパ! さっきのように俺を注意するんだ! そしたら俺の渾身のボケで、この気まずい空気を誤魔化してやるから!


「……それでここなんだが」


 何事もなかったかのように授業を始めるナッパ。

 このクソハゲぇぇぇええええ!! なんでもいいんだよ、なにか一言なきゃ俺が気まずくなるだろうが!!

 周りの生徒が俺を見てクスクスと笑う。あまりの恥ずかしさに、赤くなった顔を隠すために俯いてやり過ごした。

 は、恥ずかしいー……。

 ルナ、そうだルナに助けてもらおう! 今こそ恩返ししてもらうときじゃないか!

 助けを求めるように隣にいるルナに視線を送った。


「…………」


 彼女は鼻を指で摘まみ、睨むように俺を凝視したあと、鼻を摘まみながら黒板に視線を戻した。

 ル、ルナー!!

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