26話 夜明け
「今日も様子を見に行って大丈夫か?」
授業が終わり、ルナが莉子に話しかけた。
「うん、大丈夫だよ。ルナちゃんが来てくれたら、ミィちゃんも喜ぶから是非来てほしい」
莉子が笑顔で迎えてくれるが、ルナの笑顔には少し陰りがあるように見える。気になった俺は、こっそりルナのそばに近付き耳打ちしてみた。
「なにか気になることでもあるのか?」
「……たぶん、彼女はもう長くない」
彼女というのは、莉子が飼ってる猫のことだろう。
「なんでそう思うんだよ」
「昨日も言ったが、弱っていると外敵からのリスクがあるから隠れるようになる。つまり、彼女は危ない状態だからクローゼットに隠れたんだ」
なるほど。猫が見つかったことは安心だけど、その実、結構危ない状況なんだな。だからルナは心配だから様子を見に行きたいと。
三人で莉子の家に向かってる最中、なにが楽しいのか、スキップでもしかねない勢いで歩く、心躍る莉子が印象的だった。
「最近隆史君がよく遊んでくれるから嬉しいな。昔は全然遊んでくれなかったのに」
「そうなのか」
知り合って間もないルナが少し意外そうに答える。
「うん、ルナちゃんが来てくれてからだよ。こんなに話すようになったの」
「隆史はあまり友達付き合いが得意ではないんだな」
なんか、そんな風に言われるのは癪だな。まあ、実際そんなに積極的にコミュニケーションは取ってなかったから、言い訳できないけど。
「隆史はもっと人付き合いを覚えた方がいいぞ」
「……善処します」
たしかにその通りなんだけど、こうお説教されるのは居心地が悪い。早く莉子の家に向かってしまおう。
俺の昔の話で盛り上がる二人を置いて、逃げるように先を歩いた。
※ ※ ※
莉子の家に着き、彼女の自室に入る。そこには莉子の服と思わしき衣服に包まれた猫がぐったりと寝ていた。
「ただいま、ミィちゃん」
しかし、莉子の呼びかけにもピクリとも反応しない。
「あれ、ミィちゃん?」
不審に思い、莉子がそっと猫に駆け寄る。そして、息を飲んだ。彼女が抱きかかえても一切反応しない、まるで抜け殻のようになってしまっている。抱きかかえられてもぐったりとし、目はずっと瞑ったまま。そんな様子に慌てた莉子が、なんども猫を揺すった。
「ミィちゃん、ミィちゃん!!」
「……にゃぁ」
微かな呟き。まだ息があることに安堵しつつも、その風前の灯火の状態に、莉子は涙を流した。
「ミィちゃん、いやだよ……置いていかないでよ……」
彼女の涙が、ぽとぽと猫の頬に落ちる。その涙が、まるで猫に命を吹き込んだかのように、ゆっくりと瞼を開かせた。
「……にゃぁ」
弱々しい鳴き声。身体を動かすのも重労働なのに、それでも猫は莉子の顔に近付き、その濡れた頬を舐めてあげる。
「……なんて言ってるんだ?」
通訳してもらうために、猫がなにを呟いたのかルナに聞いてみる。
「……また泣いてる。私がいないとすぐに泣くんだから、莉子が不安で隠れることもできない。私が守ってあげるから、そばにいるんだよ」
ルナの通訳を聞いていたのか。莉子がその言葉を聞いて、抱きしめる腕に優しく力を加え、猫の顔に頬をすり寄せる。
「……うん、そうだよ。ミィちゃんがいないと、すぐに泣いちゃうの……だから、どこにもいかないでよ……」
その後も、莉子が泣くたびに猫はなんども頬を舐めてあげていた。
しばらく経った後、今は莉子も落ち着き、膝の上に猫を寝かせ、その体を労わるように優しくその身体を撫でてあげている。
「隆史、今日は莉子の家に泊まりたいのだが」
猫の状況から察するに、たぶん今日か明日には峠だろうことがうかがえた。
ルナは片時でも離れたくなかったのだろう、莉子の家に泊まりたいと言ってきた。
莉子に視線を送り、泊まっていいかどうか目で訴えた。
「……うん、私の家は大丈夫だよ。ルナちゃんもこの子のそばにいてあげてほしいな」
「ありがとう」
「じゃあ、希さんに連絡しておく」
莉子の家から出て、スマホを取り出し希さんに通話をかける。まだ仕事中だろうから繋がらないかもしれないと思ったが、すぐに通話に出てくれた。
「隆史君どうしたの? なにかあった?」
希さんに通話をかけるなんて片手で数えるくらいしかしたことない。そんな珍しいことに緊急事態なのかと思ったのか、希さんの声には不安と焦りが混じっているように聞こえる。
「あ、なにかあったとかじゃないんですけど、今日は友達の家に泊まろうかなって思って。だから、その、ご飯とか……」
「そうなんだ! なにかあったのかなって心配しちゃった。そっかそっか、友達の家に泊まるんだ。うん、私のことは気にしないで」
どこか弾んだようすの声。友達の家に泊まるという一大イベントに心から喜んでいるように聞こえた。人付き合いが薄い俺が、友達の家に泊まるなどしたことがない。それが本当に嬉しかったのか、希さんは俺のわがままをすぐに許してくれた。
こっちの状況も知らないのだから仕方がないことなのだが、希さんは最後に楽しんできてねとだけ言い通話を終えた。
莉子の自室に戻ると、彼女は部屋に出る前と変わらず猫の身体を優しく撫でていた。
※ ※ ※
「……ミィちゃん」
夜の帳が下りても、莉子は体勢を一切変えることなく膝に猫を乗せ続けている。
「ミィちゃんはずっとそばにいてくれたね。私がテストの点で悪かったり、友達に意地悪されて泣いたときはすぐに駆け寄って来てくれて、一晩中慰めてくれたね。嬉しいことがあってミィちゃんにそのことを報告したら、ずっと笑顔で聞いてくれたね」
今まで一緒に過ごした出来事を語る。それは俺が知らない、莉子と猫が過ごしてきた思い出。それをポツポツとずっと猫に語り続けた。
そして、ついにその時が来た。
膝に乗っている猫が顔を上げ、莉子を見上げる。
「……にゃぁ」
「……うん、うん……そうだね……」
「……みゃぁ、みゃぁ……」
「……うん……大丈夫だよ……」
もうルナは通訳していない。俺にはなにを言ってるかわからなかったが、莉子には猫がなにを伝えようとしているのかわかるのか、ずっと猫と会話を続けている。
「大丈夫、大丈夫だよ……なにも心配しないで……私が泣いてると、安心できないもんね……ミィちゃんが安心して旅立てるように……私、笑うから……」
そう言って、莉子は猫に笑顔を向けた。
瞳から流れる涙が頬を伝い、悲しみで心を締め付けられようとも、それでも莉子は笑った。
「…………」
それを見て安心したのか、猫の身体から力が抜けていく。魂が抜けるように、徐々に瞳に光が消え、猫は虹の橋を渡った。
「……ぅぐ、ミィちゃん……ミィちゃん……」
もう返事は聞こえない。それでも莉子はなんどもなんどもその名前を呼び、猫の顔に頬をすり寄せた。もう二度と、その頬が濡れようとも、それを舐めてくれることはない。しかし、それでも莉子はその頬をすり寄せた。
「……莉子、ありがとう」
ルナが慰めるように莉子に近付く。猫のことを労わるようにその身体を優しく撫でてあげた。
「この子を愛してくれてありがとう、私からも礼を言わせてくれ。親にも捨てられ、愛を知らなかったこの子に家族の愛を教えてくれてありがとう」
「そんなの当たり前だよ。ミィちゃんは家族なんだから、愛してあげるのは当然だよ」
「ありがとう……それと、この子を褒めてあげてくれないか」
ルナが猫の瞳に手を触れる。そっと瞼を閉じてあげ、その生涯に幕を閉ざしてあげた。
「身体が弱ってくると、怖くて恐ろしくて逃げ出したくなるんだ。でも、この子は逃げなかった。莉子のそばにいることを選んだんだ」
「……うん」
「莉子のことをずっと守っていたんだ。身体は引き裂かれるように痛み、怖かっただろう、恐ろしかっただろう。それでも莉子のそばにいて守っていたんだ。そんなこの子のことを褒めてあげてくれ」
「……うん、うん……ありがとう、ミィちゃん……ずっと、ずっと私のことを守ってくれて……ありが、と……」
それ以上言葉は続かなかった。ずっと我慢をしてきていたんだろう、猫に向けていた笑顔は崩れ、堰を切ったように涙を流し、大粒の涙が猫の頬に零れる。
「ミィちゃん……ミィちゃん……ぅう、ぐす……」
カーテンの隙間から差し込む朝日が彼女を照らす。いつの間にか夜明け迎えていた。
彼女のすすり泣く声だけが部屋を包み、ずっとそばにいた、彼女を励まし喜びを分かち合ってくれたその温もりを忘れないように、ずっとずっと抱きしめ続けていた。




