9話 ミィちゃん
それから歩いて十分ほど、とある一軒家の前で立ち止まる。どうやらここが莉子の家らしい。
小学校から付き合いにもかかわらず、彼女の家に立ち寄ったこともないし、見たこともない。
これといって特徴のないごく普通の家は、周りの住居とさほどかわらず、自然に溶け込んでいるように思えた。
「入って入って」
莉子に連れられて家に入ると、まず俺たちを招いてくれたのは真っ黒とした動物。黒猫だった。チリンチリンと、猫についた首輪の鈴が鳴り、訝しむように玄関で立ち尽くす俺たちを、まるで睨むようにじっと凝視している。
「む、お前は……」
何かに気付いたように、ルナがその黒猫に近付いた。それを慌てて莉子が止める。
「あ、待ってルナちゃん。この子老描で、触られると全身が痛いみたいだから、撫でたりとかはやめてあげて」
「そ、うか……」
ルナが少し悲しそうに瞳を伏せる。
「その猫がどうかしたのか?」
「昔、たまに会っていた旧友だな。そうか、もうそんなに時が経っていたのか。あの時はこの子はまだ子供だったのだが、いつの間にか私よりも大きくなったんだな」
その言葉はまるで自分は年を取らないように思えた。一体ルナとはどういう存在なのか、なぜ人間になれるのか。改めて考えるとルナという存在は謎ばかり。
「彼女も私と同じように親に捨てられていたんだ。会わなくなったと思ったが、莉子が拾ってくれたんだな」
莉子の方に向き直り、ルナは彼女に向かって頭を下げた。
「ありがとう、莉子。彼女を拾ってくれて、お礼を言わせてくれ」
「そんなお礼を言われることなんて」
「それにしても……」
ルナが黒猫に視線を戻す。身体中が痛いのか、猫はプルプルと震え、足取りもどこか覚束ない。
「……死期が近いのか」
「ばっ……!」
あまりに無遠慮な発言に、思わず口を塞いだ。例えそれが本当のことだとしても、そんなことを飼い主である莉子の前で言うのは失礼すぎる。
「はは、大丈夫だよ隆史君。獣医さんからも言われたことだし、私たち家族も覚悟はしてるから。だからなるべくそばにいてあげたいの」
そういって笑うが、莉子の目の端は濡れているように見える。すると、黒猫がよろよろと近付いてきた。
「ん、どうしたのミィちゃん?」
莉子が黒猫の前で屈み、なるべく痛くならないように優しく抱き上げる。震える身体を感じさせないその動きは、慣れたように莉子の頬に顔を近付け、何度も頬を舐めた。
「あはは、ありがとうミィちゃん」
「そうか。いつもそうやって莉子を慰めてあげているんだな」
「うん、私が辛い時や悲しい時はいつもそばに来てくれて、こうやって慰めてくれるの」
頬を何度も舐められ、顔中が涎でベタベタになろうが、莉子は嬉しそうには笑顔をこぼした。
「この子もそう言ってるぞ」
「ルナちゃんは猫の言葉がわかるの?」
「ああ、私は猫だからな」
「なんて言ってるの?」
「また泣いて。私がいないとだめだなって言ってる」
「あはは、そんなこと言ってるんだ。うん、そうだね。私はミィちゃんがいないとだめなんだよ」
しかし、それももうできなくなる。死期が近いという言葉が本当なら、この猫は近々亡くなってしまうのだから。その時、莉子は耐えられるのだろうか。こんなにも可愛がっている猫が亡くなって、彼女は立ち直れることができるのだろうか。
ぴょんと黒猫が跳ね、莉子の手から離れた。
「どうやら触られると痛みが激しいらしい」
名残惜しそうに自分の腕を眺める莉子だが、気を取り直すように俺たちに笑顔を向けた。
「ルナちゃんが会っていたときの、ミィちゃんがどんな子だったか知りたいな」
「別に大丈夫だが、そんな楽しい話ではないぞ」
「うん、それでも聞いてみたい」
「わかった」
昔を思い出すようにルナは天井に視線を這わせ、ポツポツと黒猫と会っていた時のことを語ってくれた。
お互いに親に捨てられたこと。しかし、それは別段珍しいことでもないこと。たまたま会った黒猫はその時は子供で、特段優しくしたわけではないが、彼女はルナの後を追うように着いてくるようになったらしい。餌はルナが食べきれない時、食べ残りを黒猫が勝手に餌にしたりなど。その時は今とは違い、とても甘えん坊で、良くルナに甘えてきていたようだ。しかし、ある時を境にバッタリ会わなくなり、ルナは亡くなったんだなと勘違いしていたこと。
「莉子は信じられないだろうが、とても甘えん坊だったんだぞ」
「そうなんだ、私が知ってるミィちゃんはいつも私を励ましてくれてる印象だから」
「強くなったんだな……」
それからも莉子は色々と自分の飼っている猫を色々と楽しく聞いていた。




