悪役令嬢の覇気が強すぎて、断罪できない!!!!
学園の夜は、静寂に包まれていた。
月光が石畳の上に淡く降り注ぎ、中庭のバラたちが冷たい銀の光をまとって揺れている。
その美しい景色を楽しむ余裕もなく、私は会議室の重たい扉を閉めた。鍵をかけて振り返ると、彼女はもう座っていた。
「リリアン、準備はいいか?」
そう声をかけると、ヒロイン――いや、自称・正義の乙女、リリアン・ブランシュは小さく頷いた。
金色の巻き髪がわずかに揺れる。だがその表情は、まるで処刑台に向かう羊のように青白く震えていた。
「せ、セリサス殿下……あの、本当にやるんですか? あのクラリッサ様に……“断罪”を……」
その言葉に、少しだけ喉が詰まった。が、男である私は咳払い一つで気合いを入れ直す。
「……やる。やらねばならんのだ、リリアン。これが、この学園と王国の未来のためなのだからな!」
気合いだけは十分だった。気合いだけは、である。
机の上には、私が三週間かけて集めた“証拠リスト”が並んでいた。ひとつひとつ手書きで書かれたリストには、クラリッサ・ディ=ロズベルグ嬢の“悪行”が詳細に記されている。
証拠リストの中身には「リリアンのドレスと被った」「笑ったときに怖かった」「目が合っただけで威圧された」など、かなり主観的な項目も混じっているが……それでも、彼女の“悪役令嬢ポジション”を断罪するには、十分な数があった。
――はずだった。
「でも……でも殿下……彼女、目を合わせただけでリスを気絶させたって噂、ありますけど……」
リリアンが恐る恐る口にしたその言葉に、私の背筋が一瞬凍る。
その噂は私も知っている。学園中の伝説だ。
彼女の“覇気”は常軌を逸している。物理的な魔力ではない。恐怖でもない。ただ“存在の圧”だけで、貴族も平民も関係なく沈黙させてしまう、あの独特の威圧感。
実際に私も、一度ランチの席で隣になっただけでスプーンを落としたことがある。
――だが、怯んではならない。
「リリアン、私たちは彼女に屈してはならない。これは、物語で言うところの最終章、断罪イベントだ!」
私は拳を握った。何度この瞬間を夢見てきたことか。悪役令嬢に制裁を下し、民の喝采を受け、ヒロインと共に未来を歩む……そんな正義のヒーロー像に、胸を焦がしてきたのだ。
「正義は我らにある!」
「せ、正義は……われらに……!」
リリアンも震えながら拳を握る。声が震えているのは、もちろん寒さのせいではない。
しかし、私は分かっていた。明日、私たちは“怪物”に立ち向かわなければならない。
クラリッサ・ディ=ロズベルグ。ロズベルグ家の令嬢。高慢で優雅で完璧で、どこからどう見ても“悪役令嬢”であるその存在は、しかし物語の設定を超えた“なにか”を持っていた。
「……明日、失敗したら?」
リリアンの不安げな声が、空気を切るように囁かれる。私は少し黙って、答えを探すように天井を仰いだ。
「失敗は……ない。だがもし、もしもだ、彼女の覇気に飲まれ、我々が屈するようなことがあれば――」
そこで一拍置いて、私は慎重に言葉を選んだ。
「……“引き分け”ということで手打ちにしよう」
「ええ!? な、なんかもう降参の空気出てません!?」
「いや、これは戦略的撤退だ。いいかリリアン、断罪とは、戦争なのだ。戦わずして勝つこともまた、王の器よ……!」
自分でも何を言っているか分からなくなりながら、私はリストの山を抱えて立ち上がった。
震える手で扉を開け、冷たい夜風に顔を晒す。
「……明日は勝つぞ、リリアン」
「……か、勝ちましょう……!」
心細いヒロインの声を背中に受けながら、私は決戦の日の夜を、勇気(と胃薬)で乗り切る覚悟を決めた。
――断罪イベントは、明日だ。
***
舞踏会の会場は、すでに華やかな空気で満ちていた。
壁を彩る緋色のカーテンと、金糸の刺繍が施された王家の紋章。床は磨き抜かれた黒大理石。頭上に輝く巨大なシャンデリアには、無数のクリスタルが煌めき、魔法灯の光を受けて虹のような輝きを放っていた。
音楽はまだない。ダンスも始まっていない。
だがそれは、誰もがこの日が“特別な舞踏会”であることを理解していたからだ。
そう。今宵、断罪イベントが執り行われるのだと。
「おい、あれが……」
「そうだよ、セリサス殿下だ」
「リリアン嬢もいる……ということは」
ざわり、と会場の空気が一段と波立つ。
私は壇上に立ち、まっすぐに視線を前方へ向けた。胸の中で緊張が渦を巻いている。膝がわずかに震えるのを意識で押さえ込みながら、私は王子としての威厳を崩さぬよう努めた。
隣にはヒロインのリリアンが立っている……はずだったが、彼女の姿勢はすでに心ここにあらずといった風情である。
顔は蒼白、視線は泳ぎ、手はわなわなと震えている。ちょっとした風でも倒れそうだった。
(……がんばれ、リリアン。お前がいないと、断罪フラグが成立しないんだ……!)
私は無言で彼女に頷き、そして――視線を向けた。
その視線の先にいたのは、本日の主役。
クラリッサ・ディ=ロズベルグ嬢。
深紅のドレスを身にまとい、完璧に結い上げられた銀の髪。その美貌は“氷の花”と称されるにふさわしく、口元にはほとんど笑みを浮かべていない。
その瞳は鋭く、目を合わせただけで視線がこちらの思考を穿つような、恐るべき“威圧”があった。
クラリッサはゆっくりと一歩、前に出る。
――コツン。
ヒールの音が床を打っただけで、私は反射的に肩をすくめた。それほどまでに、その一歩には“迫力”があったのだ。
彼女は壇上の私たちを見上げると、微笑み――そして、言った。
「……殿下。ご説明、どうぞ」
その瞬間だった。
空気が、変わった。
冗談でも比喩でもない。魔法も使われていないはずなのに、会場全体の“気”が、音を立てて凍ったようだった。
観衆はざわめきを止め、ざり……と音を立てるように静まり返る。
誰もが息を潜め、誰もが目を伏せた。
ヒロインのリリアンはその場にしゃがみこみ、ドレスの裾を握りしめてガタガタと震え始める。
「ひ、ひぃ……目が……目があった……死ぬ……っ」
その様子に、私は慌てて声をかける暇もなく――
(あ、やばい)
自分の手が、ぶるっと震えているのを見て、ようやく悟った。
――クラリッサの“覇気”が、発動している。
彼女は動いていない。ただ立って、こちらを見ているだけだ。
それだけで観衆は凍りつき、王子である私でさえ、喉の奥がきゅっと閉じて声が出せない。
(こ、これが……伝説に聞く“目が合っただけでリスが倒れた”覇気……!)
かろうじて視線を外さずにいられるのは、王家の威厳があるからか、それとも意地なのか。
だが正直、心臓が口から飛び出しそうだ。
観衆はもう完全に静寂。誰一人として、囁きすらない。
“断罪イベント”としては最悪の状態だった。盛り上がりゼロ、緊張感マックス。
それでも私は、王子として、台詞を言わねばならない。
「ク……クラリッサ・ディ=ロズベルグ嬢……き、貴様には……っ、数々の非道が……! リリアン嬢に対する……し、執拗な……こ、攻撃が――」
なんとか台詞を言い切ろうとするも、語尾が震え、声が裏返る。
クラリッサは目を細め、ゆっくりと一言。
「私が、リリアン嬢に何かを?」
その“問いかけ”が場に放たれたとたん、地鳴りのような緊張が走った。
声量は普通。表情も穏やか。
だが――圧が違う。
私は、答えられなかった。いや、答える以前に、言葉が頭からすべて吹き飛んだ。
(な、なんで!? 俺、昨夜あんなに練習したのに!?)
台詞を忘れるどころか、存在ごと封じられている感覚。
これは断罪ではない。尋問ですらない。ただの“目の圧迫”による精神的拷問である。
「……殿下?」
クラリッサの声が優しく響く。だがその優しさが恐ろしい。観衆の一部はすでに顔を伏せ、リリアンは気絶寸前。
断罪イベントは、開始3分にして、進行不能状態に突入した。
私は自分の手の中の証拠リストを見つめる。
震える手で握りしめたそれは、もはや使い道を見失った紙束にすぎない。
(……これ、本当に“勝てる”流れだったか?)
そんな疑念が、とうとう頭をよぎった瞬間。
私の中で、何かがポキンと折れる音がした。
***
静寂が続いていた。
いや、正確には沈黙という名の圧力が、この広大な舞踏会場を丸ごと覆っていた。
空気は重く、まるで湖底に沈んだかのようだ。
息を吸うことすらはばかられる空気の中、誰一人として言葉を発する者はいない。
私自身でさえ、いまだに喉が動かないのだ。
目の前に立つ令嬢――クラリッサ・ディ=ロズベルグの微笑一つが、ここまで場を制圧しているというのか……!
「殿下。証拠があるのでしょう?」
再び、彼女の声が響いた。
それは、まるで優しい家庭教師が、答えを求めるように促す口調だった。
しかし、教室とは違って、ここには逃げ道も黒板もない。あるのは――断罪という名の崖の端と、その断罪対象が“断罪してくれ”とこちらを見上げる地獄絵図だ。
私は、手に握った証拠リストを見つめた。
(だめだ……今さらこれを読み上げたところで……!)
脳裏に浮かぶ証拠のひとつ。
『第七項:クラリッサ嬢がリリアン嬢のドレスと同じ色を着ていたことについて』
――いや、これ、罪か? ただの偶然じゃないのか?
というか“罪”っていうより“女子同士の気まずいやつ”では?
『第十二項:挨拶時にこちらを真顔で見てきて怖かった』
――いやそれ、ただの顔面力。顔が良すぎる人って得てして真顔が怖いんだよ。
『第二十一項:目が合った瞬間、リスが倒れた(未確認)』
――もう証拠ですらない。怪談か? それとも伝説か?
私はとうとう、ふらりとその場に膝をつきそうになりながら、証拠リストをクラリッサに差し出した。
「……ご覧になりますか?」
すると彼女は一瞬、眉を上げた。
「まあ、よろしいのですか?」
「はい……どうぞ……」
私は負けではない。これは情報の開示であり、対話の第一歩だ。
そう自分に言い聞かせながら、クラリッサに紙束を手渡す。
彼女はそれを受け取り、目を通した。
……そして。
「…………ふふ」
ふっと笑った。
その一瞬の笑みに、会場の空気がまた凍りついた。
まるで、氷の女神が微笑んだかのような緊張。
だがクラリッサはそれ以上、何も言わず――証拠リストの内容を壇上で音読し始めた。
「“第十一項:リリアン嬢が渡そうとした花束を、クラリッサ嬢が“睨んで”枯らした疑惑”――あら、それは私ではなく、たぶん日照不足のせいでは?」
「“第十三項:言葉にしない圧を感じる”――それは“言葉にしていない”時点で、“圧”なのかしら?」
「“第二十項:お辞儀が深すぎて逆に威圧”――礼儀に対する悪意、でしょうか?」
観衆の一部が、笑いを堪え始めた。
笑ってはならない。これは断罪イベントだ。断罪というのはもっとこう、シリアスで、シェイクスピア的な悲劇的演出のもとに行われるはずだ。
だが現実には、そこには“悪役令嬢が淡々とボケを読み上げるシュール劇場”が広がっていた。
クラリッサは静かに証拠リストを閉じ、こちらを見た。
目が合う。
息が詰まりそうだった。
「殿下。もしかしてこれ、リリアン嬢の感想文ではありませんの?」
「…………ッ」
ぐぅの音も出なかった。
いや、ぐぅどころか“ぬ”も“へ”も出なかった。
「断罪というものは、罪状の明確性、被害の実態、そして証言の裏付けがあって初めて成立するものです。こういった……印象論や噂話では、むしろ“名誉毀損”になる可能性がございますわ」
観衆が、またどよめいた。
“名誉毀損”という単語の威力に、私の心が折れる音が聞こえた。
いや、違う。まだ……まだ終わってはいない。
私は、王子としての最後の意地を振り絞った。
「で、でも! 君は……リリアンに冷たく接していた! それは皆、見ていたはずだ!」
クラリッサはほんのわずかに首を傾げた。
「冷たい、とは?」
「言葉のトーンが、鋭かったとか!」
「……それは、感情の受け取り方によるのでは?」
「いつも目が合うと怖いって言ってた!」
「それは、私の顔が怖いということでしょうか?」
「いや……いや、そういうわけでは……!」
追い詰められる。論理で、マナーで、そして静かな語彙力で。
私は、クラリッサが本当に“悪役”なのかどうか、分からなくなってきた。
「殿下」
クラリッサは、今度は一歩、壇上へ近づいてきた。
(やめろ、こっちに来るな、それ以上は!)
距離が縮まっただけで、観衆の大半が椅子の背に背中を押し付けていた。
威圧ではない。ただ、彼女の放つ“場の支配力”が強すぎるのだ。
「……これ以上、空回りなさる前に、ご自分の心に問うてみては?」
彼女の声は低く、優しかった。
それが、逆に痛い。王子のメンツがボロ雑巾である。
もはや私は、断罪を宣言しに来たはずが、逆に“口撃”によって叱られている王子の図に成り果てていた。
――断罪イベント、進行不能状態。
現在、逆に“被断罪者候補:セリサス王子”である。
私は、崩れ落ちそうになる膝を堪えながら、思った。
(……このままいくと、僕が悪役になるのでは?)
***
壇上に立つ私は、もはや“王子”という立場を辛うじて保っているだけの存在だった。
前にはクラリッサ・ディ=ロズベルグ。
冷静で、理知的で、完璧な作法と切り返しで、すべての“告発”を正面から受け止めて粉砕してみせた。
もはや彼女に“罪”を着せることはできない。
――いや、“罪”など、そもそもなかったのかもしれない。
私が信じていた正義は、ただの思い込みだったのではないか。
リリアン嬢を守りたかった。その想いは本物だ。
だがその感情が高ぶるあまり、事実の裏付けも曖昧なまま、断罪という一大イベントを組み上げてしまったのでは――
「…………」
私はもう、何も言えなかった。
観衆もすでに気づき始めていた。
ヒロインは壇上の隅で項垂れ、先ほどから完全に沈黙している。
「かわいそう」という視線が向けられているのは、私たちではない。
――クラリッサ嬢のほうだ。
まるで悪意を一方的にぶつけられた被害者のように、彼女は完璧な態度で、王族の断罪すら真正面から受け止めていた。
その気高い姿勢に、貴族たちも、教師たちも、そして……観衆である生徒たちすら、畏怖と敬意を抱き始めていた。
私は、唇をかみしめた。
もう、これ以上続けるのは――負けだ。
だが。
負けを認めることも、また王族としての責任であるのならば。
私はその覚悟で、口を開いた。
「クラリッサ嬢……いや、クラリッサ」
呼び捨てにした瞬間、観衆が一斉に息を呑んだ。
当然だ。王子が公の場で貴族の令嬢を呼び捨てにするなど、礼儀知らずの極みである。
しかし、クラリッサは眉一つ動かさなかった。
ただ、私の言葉を待つように、静かに立ち尽くしていた。
「……私は、君を“悪役”だと思い込んでいた」
会場が、再び静まり返る。
「君の強さ、態度、視線、言葉の切れ味……それらが、私には“攻撃”に見えた。だが――」
私は拳を握った。胃のあたりが痛む。今さらながら、顔が熱い。
「もしかすると、君はただ……“自分を守っていただけ”だったのかもしれない」
観衆の中から、微かにどよめきが起きた。
「私が恐れていたのは、君の強さじゃない。君が見せる“正しさ”だったんだ。誰よりも筋が通っていて、誰よりも揺るがなくて……まるで、“王族以上に王族らしい存在”に、私は……」
そこで言葉が途切れた。
クラリッサが、ほんのわずかに瞳を見開いたのを、私は見逃さなかった。
静寂の中、彼女がゆっくりと口を開いた。
「……殿下」
その声は、これまでとは違っていた。
柔らかく、まるで氷の中に灯った、ほんの微かな焔のような声だった。
「私を“正しい”と見るのは、貴方だけです」
「そんなことない」
私は首を振る。
「この場の全員が、君の強さを見て、気圧されたんだ。でもそれは、恐怖ではない。尊敬だ。だから、私は……君を“敵”と決めつけていたことを、謝りたい」
そう言った瞬間――クラリッサの目元が、ふっと緩んだ。
笑った。
今までの微笑とは違う。
ほんの少しだけ、心の奥を見せるような……そんな、優しい笑みだった。
「……まさか、殿下から謝罪される日が来るとは思いませんでしたわ」
「まさか、“王子が逆に断罪されそうになる”日が来るとも思ってなかったからな」
思わず、自嘲気味に笑った。
それに、クラリッサも苦笑を返す。
空気が、ふっと軽くなる。
観衆の緊張が解け、誰かがそっと拍手を始めた。
やがてその拍手は、波のように広がり、会場全体を包み込んだ。
この場で“断罪”は行われなかった。
正義も悪も、勝者も敗者も、明確には決まらなかった。
――だが、それでよかったのかもしれない。
クラリッサが言った。
「……では、今回の件、引き分けということでいかがです?」
私は頷いた。
「それが一番穏当な、そして誠実な結論だと思う」
そして、私は静かに手を差し出した。
クラリッサが一瞬、驚いたようにそれを見て――
そして、ごく自然に、その手を取った。
気づけば、会場は拍手に包まれていた。
勝ちも、負けも、ない。
でもたしかに、“何か”が終わり、そして始まった瞬間だった。
***
拍手の音が、ようやく静まった。
まるで劇が幕を下ろしたあとのような、どこか張り詰めた、それでいて解放されたような空気が会場を満たしていた。
壇上に立つ私は、観衆の顔をゆっくりと見回した。皆、まだ戸惑っている。けれど誰も口にはしない。
今日という一日が、何かの“決着”ではなく、“決別”でもなく、“転機”だったと――それだけは全員が直感していた。
私の隣では、リリアンが小さく瞬きをしていた。
気絶寸前だったはずの彼女が、今は何とか意識を保って立っている。
けれど、その頬は涙の跡で濡れており、震える唇が、何かを言おうとしては飲み込んでいた。
私は声をかけるべきか悩んだが、やめた。
彼女の心にもきっと、私と同じような靄がかかっているのだろう。
正しいと思っていた行動が、必ずしも人を幸せにするわけではない。
守ろうとしたその背中に、知らぬうちに別の誰かの影を踏んでいたかもしれない。
壇上の中央、クラリッサは静かに立っていた。
拍手にもどこか距離を置き、誇り高い立ち姿のまま。
だが、先ほどとは違う。
その瞳には、わずかながら柔らかい色が宿っていた。
「クラリッサ嬢」
私が名前を呼ぶと、彼女はそっとこちらに視線を向けた。
先ほどまでの“圧”はなかった。ただ、静かな注意と関心だけがそこにある。
「本日の件……あなたにとっては、不快だっただろう。改めて、謝罪する」
私は一歩前へ出て、深く頭を下げた。
この場において、王子が令嬢に頭を下げるなど、ありえない行為だ。
だが、儀礼や体裁の問題ではない。間違えたことをしたのなら、たとえ誰が相手であっても謝るべきなのだと、今日という日が教えてくれた。
クラリッサは驚いたように目を見開き――すぐに、それをすっと伏せた。
「……私は怒ってなどおりませんわ。少し、驚いただけです」
「そうか」
「ただ、これから先は、もう少し“見て”いただけると、ありがたいです。私がどう在ろうとしているのかを」
「……約束しよう」
言葉はそれだけだった。
それで充分だった。
拍手が終わり、舞踏会の空気が少しずつ再開し始める。
音楽隊が、ようやく再び奏で始めた旋律。
誰かが小さな声で「ダンスを」と誘い、静かな談笑が戻り始める。
私は、もう舞踏会に残る気はなかった。
これ以上ここにいても、誰の役にも立たない。
それに、胸の中に溜まった澱をひとり静かに消化したかった。
私は壇を降りた。
その背後で、リリアンがクラリッサに何かを告げようとして、結局うまく言葉にできず、ただ頭を下げる姿が見えた。
クラリッサは彼女に対し、わずかに頷いたようだった。
それだけのことが、とても大きな一歩に思えた。
会場の扉を開けると、夜の空気が胸に沁みた。
外の空はどこまでも高く、星の光が静かに降り注いでいる。
ひとつ息を吐くと、深く深く沈んでいた心が、少しだけ軽くなった気がした。
――勝ち負けではない。
誰かを糾弾して得られる正義は、案外脆い。
でも、今日のあの時間の中で、私は彼女から何かを学んだ。
見下ろすような強さではない。睨みつけるような権力でもない。
それは、“在り方”としての強さだった。
冷たく、鋭く、それでいて誠実な姿勢。
まるで鋼の芯を内側に秘めたようなあの気高さに、私は初めて――羨望を覚えた。
だから、これは敗北ではない。
勝負ではない以上、これはただの“出会い”だったのだ。
そして、その結末が“引き分け”であることに、私はほっとしていた。
自分が誰かを傷つける人間で終わらずに済んだこと。誰かの光を、正しく認めることができたこと。
私の背後では、舞踏会が再び動き出していた。
だが、振り返らずに歩いた。
その夜の静けさが、妙に心地よく感じられたのだった。
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