五日目(6)・六日目
俺は夏目坂といろ。
逆落賭ひよりに恋情を募らせている男。
年上の男が好みと聞き、ひょっとして行けるんじゃないかと、最近、浮き足立っている。
その情報源は何かって、逆落賭さんが誰かと電話で会話しているらしいのを、盗み聞きしてしまったものなのだが、別段、扉に耳をそばだてていただとか、その手の類の、不審の産物ってわけじゃあない。
たまたま聞いてしまっただけなのだ。
作業をしながらの通話だったらしく、逆落賭は電話をスピーカーモードにして、誰かと会話を交わしていた。
その時に聞いてしまったのだ。
たまたま通りがかっていた俺に、「年上が好み」という情報が降って湧いたのは、天の恵みかとも一瞬考えた。
恵まれようが恵まれまいが、天だろうが地だろうがいずれにせよ、少なくともその情報の獲得に関してだけ、ことによっては土下座も辞さないってレベルで、心の底の感謝を感じていた。
……いや、流石にそれは言い過ぎだとしても。
「……ん?」
施設のどこからか、誰かの言い合う声が聞こえてきた。
否──言い合いというよりかは、一方的に誰かが誰かに、言い募っているという印象だ……片方は言葉少なである。
やけに気になって、俺は声のする方向へと──急ぐでもなく──、歩を進めた。
近づいていくとほどなくして、それらは男女の声と判明した。
たぶん、あの二人の声だと俺は直感した。
「……………………」
なんだろう、と胸がざわつく感じがした。
俺は歩みを止め、一度立ち止まり、声の方へと地を蹴り、駆け出した。
ここで走らなきゃ、あとあと後悔しそう、と思ったのだ。
いよいよ二人の姿が見えてきた。
内容は聞き取れないけれど、直感の通り果たしてその声は、逆落賭と劈のものだと判明した。
そのとき、俺は思い出した。
劈は逆落賭に告白して、返答を保留にされた旨のことを、この俺に自ら、あけすけに明かしていたという事実を(正確には、自分で明かす前に俺が言い当ててしまったのだが……)。
これは、まずい。
たぶん彼は、保留にされた返答をハッキリ言うように、逆落賭に迫っているところだろう。
ここで逆落賭がOKを出したら、それこそ俺のこの恋は終わるのだ──なんとかしてそれだけは防がねば。
「ま──待ってくれッ」
俺は絶叫した。
「俺も──俺もアンタが、逆落賭ひよりが好きだッ」
「は、はぁ!?」劈が目を剥いて驚いた。「な、なんだよ夏目坂!? お前も好きだったの!?」
「ああ、スマン。実はそうなんだ! 相談役を受けておいて悪い!」
本当に悪いじゃん……、と劈がうめき声をあげた。
「夏目坂さん……その話は本当?」
逆落賭が夏目坂を見て確認した。
「はい。俺は貴女に懸想している……端的に言えば大好きです」
「そう──だったのね」逆落賭は若干困惑したようにそういった。
劈は俺に正対した。「……僕はお前を信じていたんだぜ?」
「言葉もない」俺はいった。「言い訳の余地なく、俺は裏切り者のクソ野郎だ」
「別にそこまでは……言わないけどさぁ」
彼のその表情には、俺が裏切ったことから来る、不信の感情がたたえられていた。
「とにかく、俺はアンタのことを好いている! だから選ぶなら、俺が劈の、どちらか片方を選んで欲しい!」
「……………………」
逆落賭はしばらく沈黙を守っていた。
「か……、勝手に話をっ、進めるなよ」
劈はいった。
「僕が先に好きになったんだぞ? お前よりも……っ、もっと、ずっと、先に、彼女を!」
俺は劈から顔を背けて、「好きになってしまったのものは、仕方がない」
「勝手なことを──ッ!」
「やめて」冷静な口調で、逆落賭。「決めるのは私よ、貴方たちじゃない」
「それは──!」劈はいった「さすがにその通り……、なんだけどさ……」
劈は竜頭蛇尾に語調を弱くした。
冷静さを欠いた彼からの視点でも、彼女の言っていることは正しいと分かるらしい──劈は血を焼く怒りをぐっと堪えると、俺の方を見て、きっ、と睨みつけた。
「……教えてくれよ、逆落賭。アンタは、どちらを選ぶんだ?」救いを求めるように、劈。
逆落賭は答えない。「…………」
「年上が好みなんだろう!?」俺は絶叫した。
「……」逆落賭は肯定しなかった。しかし同時に、否定もしなかった。「どうかしらね」
我慢できずに、俺は叫んだ。
「なあ、どっちを選ぶんだ! 俺か、劈か!」
逆落賭はさも、わかっているんでしょう? とでも言いたげに、
「君たちの中で、年上はどっち?」
と、答えた。
質問を質問で返すことによって、明言を避けて回答したわけだ。
彼女は年上が好みだった。
《君たちの中で、年上はどっち?》。
……そういうことだった。
「そ──、それじゃあ!」
しっ、と人差し指を立てて、逆落賭ひより。
目を細めて言う。
「話の続きは、私のお部屋で」
〜三人称視点〜
翌朝、宿舎の敷地で、死体が見つかった。
宿舎の壁に背中が寄りかかるようにして、ぐったりと血溜まりに体躯を添えていた。
残酷極まりないその光景に、被験者、職員、ともに驚いたが、しかしそのことが、霞みかねない異常な光景が、同時に、そこに、死体と共存した。
宿舎は、低いところで八メートルの高さがあり、屋上はなく、後方から前方にかけて下降するだけの、斜めの屋根があるだけの建物だ……、要するに単なる斜面が屋根になっている。
高いところは屋根が上がっている方向で、ざっくりと九メートルほどもあるだろうか。
意匠的にはかなり退屈で、窓すらひとつもなく、あまつさえ壁に凹凸もない。
要するに登ることが難しい構造というわけだが……、そんな宿舎にだ。
斜めに傾いた、屋根の上にはだ。
花のように──べっちゃりと飛び散った血液が、実に穢らわしく、綺麗に四方に咲き誇っていた。
時ならぬ狂い咲き、というよりは。
真実狂って咲いているようだった。
こんなことは到底あり得ない。
この施設の中ではこの宿舎の背を超える、八、九メートル以上の梯子はない……、つまりどうやった所で、そんなところに血液はつかないのだ。
いや、それ自体は正直、不可能とは言いがたい。
バケツでもなんでも、そこに血を入れて、屋根に向けて空中にぶちまけば、まったくできない話ではない。
つまり──問題はそこじゃないのだ。
問題は、屋根についた血液が尾を引いて、それが線になり、下に落ちてって、壁に伝ったあと、死体の転がる地面に落ちている──という点だ。
まるでそれじゃあ、登れるはずのない屋根で被害者が殺されて、そこから壁伝いに落下したみたいじゃあないか。
バケツじゃあこうはいかない……、どれだけ器用にやったところでだ、屋根から壁伝いに、地面に垂れゆく血液を描くならば──液体が壁にぶつかったら爆発したように散ることを思えば──、綺麗な一本線など絶対にありえない。
もっとも、普通に屋根にぶちまけた血液が、時間と共に垂れたという線もある。
しかしそれもありえない。
なぜならば──屋根から垂れただけならありえない、落下とともに血まみれの身体を壁に引きずったかのような、不規則なかすれが、そこに見れるからだ。
それも地面に近いところじゃない、七メートル、八メートルくらいの高さに、割とはっきりとかすれた跡がある。
かすれだけは、バケツでも作れない──それも『難しい』ではなく、『無理』というのが真実に近そうだ。
適当なトリックでは、この不可能な現場は再演できかねる。
恐らく犯人は、いかにもな不可能犯罪を演出することで、容疑者候補から外れようとしているのだ。
登れるはずもないところから被害者を殺害して、その死体が地面に落っこちる犯罪なんてのは、人間には到底できっこない。
そう思わせるためのトリックに違いない──と、ここまでの事実を併せれば、そう思う。
しかし案外、それすらも重要じゃあ、全然ないのかもしれない。
死体の首が斬られていることを思えば。
逆落賭が着ていた服を着用する、この首斬り死体の意味について考えれば。
老爺の噂を──今一度思い出せ。
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