一日目
全身全霊で、恋愛にうつつを抜かす決意を心に秘め、僕は今、件の治験会場へと向かっていた。
大学のキャンパスがあるところからは、いくらか離れたところに会場はあり、だから僕はアルバイトで稼いだ金で購入した、中古車をキャンパスから出て数十分走らせた。
それは、山奥にあった。
敷地の周囲には高さ五メートルほどの塀がぐるりと巡らされており、ともすれば山城とも見紛いかねない、なにやら言い知れぬ威容を湛えていた。
どうやって入るのだろう、とこの建物のゲートにあたる、いかにも「自分、開閉します」と言わんばかりの何かを、キョロキョロと探していたのだが、なかなか見つからず、
「仕方がない、他の人が入ってくるのを待つとしよう」
とひとりごちて、僕は道の脇にそっと腰を下ろした。
改めて見ると殺風景な塀である。
コレといった装飾もなく、だから凹凸などはなから有り得なく(つまり凹凸を掴んで塀を登ることはできない)、この塀を作った人間の、認めた者以外入ってきて欲しくないという、拒絶的な意図が透けるかのようだった。
ややあって、人影を目の端に認める。
見るに、同じく大学生の、ラフな格好をした好男子のようだった。
自分より上の存在を関知すると、条件反射的に自分の尊厳が脅かされると察知して、咄嗟に警戒体制に入るというのは根暗な人間の常だが、しかし僕は、それが間違っていることを知っている。
相手だって人間だ。
僕と同じで、あるいは尊厳を脅かされるかもと、心中穏やかではないという線もある。
だから先んじて強くあたり、下々の階級層の人間からヘイトを買ってしまい、陰陽対立の負のスパイラルが加速してどうたらこうたら……。
なんて哀れな。
そんな迷える子羊には、せめて僕だけでも、優しく対応してあげなくては。
「うわっ! 妖怪かと思った!」
「よし殺す」
五割ほど殺害しても法律では無罪なんだっけ?
違うとしても今日からは無罪だ。
「半殺しは暴行罪だろ……、割合で言い換えたとしても」
「さきっちょだけ! さきっちょだけだから!」
「さきっちょだけの殺害ってなんだよ。ていうか、殺害には程度なんかねーよ。ゼロか百か、生か死かだ!」
「デッド・オア・太宰府」
「も、もはやどういうこと⁉︎」
韻を踏んだだけだった。
意味なんて無い。
「まあいいや……、それで、なんで地面に腰下ろしてんの? じっ、と虚空を見つめて体操座りとか、妖怪以外の何者でもねーよ」
「言われてみればメチャクチャ妖怪だな……、確かにごめん。殺害は二割にする」
どうあれ殺すんだ、と好男子は笑った。
「いやまあその、ボケずに疑問に解答するとだな。この建物の敷地に入りたいんだが、肝心のゲートが見つからなくって、それがわかる人間を待っていたんだ」
「それで妖怪に」
「誰が妖怪だ」
ようやっと真っ当なツッコミを済ませ、僕と彼──おっと、名前はなんだっけ?
「夏目坂といろってんだ。よろしくな」
劈要だ、と挨拶を返し、僕と彼は入口を探した。
程なくして、というか割とすぐに、それらしきものは見つかった。
「なんだよ、道の目の前にあるんじゃないか」
山道を車で上がり、そばにある駐車場に停めたあと、元の軌道の山道に乗ったのだが……、僕はその時に、目の前にあるゲートを、しかし、見つけられなかった。
「塀とゲートの境目も見えないなら、普通、気がつかないだろう……。いやまあ、その横にあるボタンに気づかなかったのは、流石にアレだとは思うけれど」
言いながら、僕はゲートの横にあるボタンを押してみた。
しばらく間があって、
「治験者のお二人ですね? 今開けます」
という台詞と伴い、はとんど境目すらなかったゲートが、敷地の内側に折れて開かれた。
現代的な装いをしているくせして、ゲートの開き方は西洋の城門だな。
そう困惑しつつ、いよいよ山城じみてきたこの施設に、僕ら二人は足を踏み入れた。
その途中夏目坂は、
「塀どころか、ゲートすら凹凸がかくも無いとなると、中にいる人に開けてもらえない限り、誰かが外から入ることは不可能だな……」
とこぼしていた。
※
「ようこそ、治験会場へ!」
麗しの他人、もとい、未来の恋人、もとい、逆落賭ひよりは僕らにそう言った。
僕ら二人の治験者は彼女のささやかな歓迎を受け、さしあたってピザ等の昼食を頂く。
ジャンクな美味さだ。
健康的とはとても言えないが、まあそんなところに文句を言っていても始まらない。
夏目坂と二人で分け合って、仲良く美味しく二枚は平らげた。
ところで、デリバリーする人はあの呼び出しボタンがわかったのだろうか……、僕は気づかなかったけれど、実際、夏目坂はすぐ気づいたようだし、存外に問題ないのかもしれなかった。
「無いわけないでしょう。普通に店で買って、自分で持ち帰りしたのよ」
「へぇー、不便ですねぇ。好きです。なんでそんなに出入り口を分かりにくくしたんですか? 結婚してください。いまいち意図がわかりかねます。将来は戸建てが良いですか?」
「意図がわかりかねるのはアンタよ。何? 会話にそれとなく好意を忍ばせるテクニックが、壊滅的な失敗を果たしてるの?」
「さあ? そもそも
壊滅的なのかい?
おかしく見えたなら、
戸惑わせて申し訳ないよ。
しかし、
すぐに指摘してくれない
君も人が悪い」
「会話にそれとなく好意を忍ばせるテクニックが、壊滅的な失敗を果たしてる……! いいわよわざわざ、実際にやったらどうなるかを見せなくても!」
「好きです。結婚してください」
「そんなことよりも治験の話よ」
そんなことよりも?
「日に二回、朝と夜とに投薬します。経過を見ますから、事前に通達した通り、施設から一週間出ることは出来ません……が、どうせ今日から大学は春休みですし、単位の面は問題ありません」
「へえー。そうなんだ。ひよりんはマンションの方がいい?」
「部屋もありますから、ご飯が終わったら案内しますね」
渾身のあだ名呼びも不発に終わり、もう既に打つ手無しといった感じだった。
……さて、これからどう口説くべきか。
「予想される副作用はありますか?」夏目坂は挙手をして聞いた。
「はい。いろいろありますが、主だったものは四つです。
一つは、聴力の低下。
一つは、視力の低下。
一つは、味覚機能の低下。
一つは、運動機能の低下。
どれも一時的で、致命的にはならないと予測されますが、あくまでも保証はできません。保証するための治験ですからね」
「流石に、ちょっと怖いですね……」
「はい。ですので、まだ引き返すことは可能です」
言って、逆落賭は紙を二枚机に置いた。
「これは……?」
「誓約書です」
僕と夏目坂は息を呑んだ。
サインすればあとは自己責任。
極端に言えば、生きるか死ぬかの分水嶺。
まあまさか、学生にそんな危険な治験をさせるとは思わないけれど、そんなものを出されたら怖くもなる──怖くもなるが、
「やるよ。僕はそのためにここに来たんだ」
そうだ。
ここで退いたら、母に報いることも、大学生活の成功も叶わない。
友達がいなくて、進退はもとより窮まっていたのだから。
それならば──どうあれ窮まっているのなら、リスクを取ってでも、その先のチャンスを掴んでやる!
「ペンを貸してくれ、ひよりん」
「……」
「あ、俺もやります」と夏目坂。
「あ、ほんとぉ? 助かるわぁ!」
ク……ッ! 所詮はツラの良い奴が勝つのか!
なんて、筋違いの恨みを発揮しつつも、僕の一週間にわたる治験は確定した。
時間はある。
つまり、チャンスはある。
弱音ばかり吐いてはいられない。
ここを越えれば、彼女とイチャイチャキャンパスライフだ!
「ねぇ、連絡先交換しない?」
「あ、いいっすよ」
心が音を立てて崩れた。
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