四日目(5)
少年の言い方を真似した、
「おねいさんは何でもできるのよ」
という──出まかせで言った私のあの台詞を、少年はいたく、お気に召したらしく、以降彼は、私に対して過剰なほど、重過ぎる期待を寄せるようになってしまっていた。
「おねいさん、英語喋れる?」
「喋れるとも」
「おねいさん、中国語喋れる?」
いくつか単語を知ってるだけだったが、私は思わず強がりを言った。「し、喋れるとも」
「おねいさん、サンスクリット語(インドの古典語)喋れる?」
「し──」
喋れるか!
とは、思うものの……、少年の、純粋極まる、綺麗すぎるほど綺麗な目を見たら、「できない」と簡単に一蹴することは、とてもじゃないけれど、私にはできなかった。
私は少年の言い方を真似して言った。「……喋れるわ。おねいさんは何でもできるのよ」
「すっごーーーーい!」
少年は大層喜んでいた。
私はと言えば苦しんでいた。
嘘をつくことが苦しかったし、嘘そのものも苦しかった。
期待に応えたい一心ではあるのだが、こうも何度も嘘を重ねると、一つ一つは微々たるものでも、山と積まれれば心理的にキツかった。
少年は変わらず純朴で良い子だが。
まっすぐすぎる目はある意味で毒だった。
だが、何事にも終わりは来るものである──八月十五日の昼、私は母親に詰問されていた。
「どこに行くの?」
自分の靴を取り出して、玄関から発とうとしたその瞬間、背中に冷水をぶち撒けるかの如き、底冷えの効いた恐ろしい声で母はそう聞いた。
私は言う。
「……ちょっと息抜きに」
「ちょっと息抜きに?」母はわざとらしく私の台詞を復唱して、「ひょっとしてあなたの常識では、四、五時間のサボタージュを指してそう言うの?」と言った。「一度や二度なら見逃したけどね、今週だけでももう五回目よ? 流石に多すぎでしょう。今日を限りにして、しばらく公園でサボるのは禁止にしますから」
「いや、でもその……」私は言った。「私と会うのを楽しみにしてくれてる子がいるんだけど……」
母は取りつく島もなく絶叫した。「だったらその子に断っときなさい! 明日からは会いに行けないって!」
命令を退けることは私には出来なかった──いくら余裕があるとはいえ、この頃サボり過ぎなのは事実だったからだ。
今日を限りに、という約束だったので、少年がいることを願いつつ、私はいつもの公園へと向かった。
公園のゲートをくぐると、その先に、少年の姿が認められた。
「──と、いうことなのよ」私は少年に、この公園にはしばらく来れない旨を説明した。
少年はショックを受けている風だった。
どうすればいいかわからないのだろう、しばらくおろおろと周りを見回したあと、ややあって上目遣いで私を覗き込み、
「なんとかできないの?」
と尋ねてきた。
私は大人の真似をして「ちょっとしたらまた遊びに来れるから、その時に遊びましょう?」と言った。「二度と会えない訳じゃあないのよ?」
少年は縋るようにして食い下がった。「いいでしょ? ちょっと遊ぶくらい、きっと怒られないよ」
「かもしれないけど……」私は訥々と言った。「今無理しなくたって、ずっと会えない訳じゃないのよ……? 時間に余裕がある時でもいいんじゃないかしら」
「でも、でもでもでも……」少年は言った。「できない訳じゃあ、ないんでしょう? だっておねいさんは、何でも──」
あの台詞を言おうとしていた。
少年は、じわじわと、私の首を自縄自縛の真綿で絞めてきた、あの忌まわしい台詞を言いそうだったのだ。
だから──私は。
母親の命令と、自分自身の意思に従って、
「──できないのよっ!」
と言下に否定した。
「……できないのよ、何でもは──私は人間なんだから」
しばらくは沈痛な静寂が場を支配したが、程なくして少年はぱっ、と明るい顔を見せ、
「そうだよねっ、ごめんなさい」
と笑顔でそう言った。
じゃあ、と言って私たちは解散した。
いたたまれない思いはありつつも──私はどこか、肩の荷が降りたかのような、仄暗い開放感をも覚えていた。
※
一年経って、私は第一志望の高校に入学した。
季節は流転して──二度目の夏。
私はあの少年を思い出した。
「今はどうしているだろう」
そう口に出した時には、あの時以来寄り付きもしなかった、思い出の公園に足を向けていた。
家からそう距離もないのですぐに到着した。
私はなんとなしにベンチに座ってみた──蝉の鳴き声がのべつまくなしに聞こえてきた。
強い日差しが肌を深く刺す。
私は公園が好きだが、別に暑いのは好きじゃないので辟易した。
顔の前に手を翳して、影を作る。
陽光の明るさに比例して、顔に特別濃い影がべったりと張り付いた。
「おねいさん」
独特な呼び方の声の主を探ると、見知った少年──ではなくて。少しだけとうのたった、三十代中盤くらいの、見知らぬ女性がそこに立っていた。
彼女は言う。
「昨年、息子がお世話になりました。咲田の母の、瑠璃川と申します」
瑠璃川咲田。
……私は今更になって少年の名を知った。
※
その節はお世話になりました、と反射的に返したあと、どうして私だと分かったのか? という疑問が浮上した。
「咲田がよく言ってたんですよ。最近仲良くなったおねいさんは、この辺りで有名な進学校を受けるらしいことを」
私は今、その進学校の制服に身を包んでいた。「なるほど。では、私がよく公園にいることも、少年から──ではなく、咲田くんから?」
「はい。貴女のことを話す息子は嬉しそうでしたから、印象に残っていて……」少年の母親は笑って、「その進学校の制服を着た女の子が公園にいたら、息子の言っていた娘だろうとアタリをつけたのです」
「そうでしたか……」私は言った。「息子さんはお元気ですか?」
「昨年九月、夭逝しました」
「?」私は胡乱な顔をして、「どういうことですか」
「若くして死んだ、ということです」
「え──」
音が消えた。
無限とも思える時間──実際には十秒、いや五秒……、ともすれば一秒だったかもしれないが、とにかくその間、私は世界から、どうやら追放されていたらしかった。
「……どういう、ことですか?」私は同じことを聞いた。
「とある病気にかかりまして、昨年九月、夏が終わるとほぼ同時期に、息子は苦しみながら息を引き取りました。それで、肝心要である、その病名は──
──ノンブレス症候群。
というそうで……、何でも、一千万人に一人の人がかかる、いわゆる難病なのだそうです」
「ノンブレス──症候群」私は復唱した。
「はい」瑠璃川さんは言った。「免疫の低下が嚆矢となって、ウイルスに感染し、返す刀で次第に衰弱して、果ては呼吸困難に陥り──死に至る」
そういう病気です、と瑠璃川さんは結んだ。
苦しそうな彼女を傍目に私は言う。
「次遊べばいい──なんて」
彼にはその次もなかったのに。
私は全身の力が抜けていく感覚を知覚した。
「症状は、実は一度落ち着いていたんです」瑠璃川さんは言った。「夏休みに入ってすぐくらいですね。ノンブレス症候群にかかった人に見られることらしいのですが、死の少し前、一時的に症状が回復することがあるそうです」
「そう──なんですか?」
「ええ。と言っても、一時的というのは本当に一時的で、二日、三日したら、大体は容態が急変するそうなのです。その日のうちに死ぬこともままあるそうで……私はそれを気の毒に思って、咲田をどこかへ連れ出そうとしました。ですが……、咲田はどうしてか、いつもの公園に、一人だけで行きたいと言い出して……」
説明を求めるまでもなく、少年は死ぬ前に、いじめに決着をつけたかったのだろう。
その結果を、木の上にかけられた彼の服を見て、瑠璃川さんより先んじて知っている──少年の流していた涙を、知っている。
「その公園で、貴女に会ったと咲田は言いました。曰く、『おねいさんは何でもできる』そうで──その言葉をお守りのようにして、おねいさんなら僕の病気も治しちゃうよ! なんて言って、だいぶん救われていた様子でした」
私は目を剥いて、「え……?」と驚いた。「あの出まかせの戯言を──救いに思っていた?」
私は虚をつかれた気持ちになった。
「ええ」瑠璃川さんは言った。「そのおかげもあったのでしょうね。一時的と言われた体調の回復も、三、四日に留まらず、多少は続いてくれましたし……、それに、見るからに、明るくなったようでした。
以前はけっこう、衰弱してしましたから、貴女の言った『何でもできる』と言う言葉に、自分が助かる未来を見たのだと思います。ですが──」
ですが。
私は嫌な予感がした。
背中に怖気がぞくりと走り、次に言われるであろう情報を、聞きたくないと心で叫んでいた。
「……ですが、咲田の容態は、八月中旬に急変しました」
「────っ!」
瑠璃川さんの言葉は、この時点でもう聞こえなくなっていた。
八月中旬、つまり、八月十五日。
その日、私は少年が救いに思っていた、《おねいさんは何でもできるのよ》という出まかせを。
彼が最後まで言い切る前に、
否定してしまったのではなかったか。
何でもはできないと──
少年が助かる未来を、希望に思っていた台詞を、否定してしまったのではなかったか。
「………………っ!」私は言い知れぬ嘔吐感を覚えた。
今から思い返してみれば。
そういえば少年は、『〇〇ができるか?』と問うだけで、実践までは求めてこなかった。
例えば『おねいさん、英語喋れる?』と聞いた時も、『おねいさん、中国語喋れる?』と聞いた時も、『おねいさん、サンスクリット語(インドの古典語)喋れる?』と聞いた時だって。
あくまでも少年は聞くだけで、
それの証明までもは求めてこなかった。
むろん、例外はある。
ミレニアム懸賞問題を解けだの解けないだののやりとりは、確かにした覚えこそあるものの、アレは私が、最初に『おねいさんは何でもできるのよ』と言った時点から、ほんの少し、前の出来事だった筈である
要するに、少年が欲しかったのは『言葉』だけだった。
たったそれだけでも良かったのに──
私はそれをすることすら怠った。
救えたはずだった少年を、
私は簡単に見殺しにした。
しばらくして意識が外に向き、瑠璃川さんの声が聞こえてきた。
「……とにかく、ありがとうございました。貴女がいたおかげで、咲田は──」
「殺しました」
「え?」
困惑顔の少年の母親を、しかし無視して私はこう言った。
「私が息子さんを殺しました」
良かったら評価・感想等、よろしくお願いします!




