四日目(3)
「早く……、早くしなきゃ……!」
平等院さんを病院に送ったあと、車のタイヤを道路に走らせて、とにもかくにもかくかくしかじか、私は治験会場へと急いで戻ってきた。
山道の途中にある駐車場に車を停め、私は敷地の周囲に巡らされた、高さ五メートルほどの凹凸のない塀に──建物の中に入らんとして──駆け寄って、インターホン近くにある、顔認証用のカメラにずい、とほとんどゼロ距離まで顔を押し寄せた──のだが、扉が開くことはなかった。
ここに至り、私はようやっと自分のミスに気づく。
少し距離を取って、改めてカメラで顔認証を終わらせた。
あらかじめ設定した顔以外は通さない優れものではあるっちゃああるのだが、私は今に限り、セキュリティに拘ったことを少しだけ……、本当に少しだけ後悔した。
ともあれ、扉は開いたのだ。
急いで机まで向かわなくては。
「あ、逆落賭さん。平等院さんはどうでした?」
机に至るまでの道程で、私は劈と、厄介なエンカウントを果たした──今お前に構っている暇は無い。
「退いて!」
劈を壁に手で押しやって、とにかく机へと、私はまた、向かおうと思ったのだが──
「待てよ逆落賭。止まれ」
と、腕を掴まれた。
私は叫んだ。「やめてよ!」
「やめない。逆落賭お前、ちょっとばかし様子が怪しいぞ」
「何がよ!」
「瞳孔が開いている。それに充血も甚だしい。単に帰ったにしては急ぎ過ぎだ──その上、君は最近復調したばっかりだろ」
心配もするさ、と結んで、劈要は私の顔を見た。
「……ちょっと用があるのよ」
「用?」素っ頓狂な声を出して、劈。「それならもう済んだだろう? 平等院さんを送り届けたんじゃないのか?」
「色々あるのよ」私は言った。「さあ、手を離して。大丈夫よ。なんていうかその……倒れたりしないし」
「君が焦っているのは君に取り憑いているという霊と決して無関係じゃあないな?」
「……………………………………どうして」
そう思うの。
という言葉を、遅まきながら私は飲み込んだ──ほとんど図星を告白したようなものだったからだ。
まず第一声で、「霊? 何の話よ」と返せなかったのは大いに失策だったし、そこを知られている点について触れることもなく、霊と私の行動の関係を、いきなり誤魔化すターンに入ったのも不味かった。
「そうなんだな?」劈は改めてそう聞いた。
「さ、さぁ……。その、どうかしらね」
畳み掛けるように彼は言った。「前に君が倒れた時、顔色はいつもより悪く、足取りがやや不安定で、目の下にクマが張り付いていた……あまり眠っていなかった証拠だ」
「それが一体、どうしたのよ」
「その時の行動を、いま、繰り返そうとしているんだ」
「……貴方が何が言いたいのか、分からないわ」
逃げられる可能性に一縷の望みを賭けて私はそう言った。
「これは推測だが」劈は言った。「君はおそらく、霊とやらが原因なのだろう、ほとんど脅迫的に、何かをしなくてはいけないという気になっている。
だから、夜もすがらその何かをし続けて、君は体調を崩した。
そして、今回も前回の時と同様に、何かをし続けて、同じ道を──結末を辿ろうとしている。何らかの作業に、再び没頭せんとしている……違うか?」
「う──」
図星──だった。
顔に出たのだろう、劈はその隙を逃さずに、
「話してくれ」
と、続けた。
「力になれないかもしれない──それでもやっぱり、心配になるんだよ……」
そう言う彼の目は真剣にしか見えなかった。
純粋な善意で──純粋な心配だ。
「……わかった」私は言った。「心配をかけたようだし……、あんまり気は進まないけれど、仕方ない。話すわ」
「ありがとうございます」劈は丁寧語に戻っていた。さっきは熱くなっていたらしい。
私は押し黙る。「…………………………」
しばらくは沈黙を守っていたのだが、約束をしてしまった手前、私はやむなく、それを打ち破る。
そして語りだす。
少年との、けたたましく蝉の鳴く、あの夏の日の出来事を──地獄の走馬灯のように、思い出す。
「アレは……、確か九年前。私が十五回目の誕生日を迎えた年だった」
いつかの陽炎が揺らめく。
※
夏休みが始まったばかりの時分、頭が良かったのもあるだろう、私は第一志望だった大学から、この時すでに、とっくにA判定をもらっていた。
認めよう、私は調子に乗っていた。
全能感に満ち満ちており、満潮もここ極まっていた。
だからというわけでもないのだが、時折親の目を盗んでは、近所の公園に抜け出して、ガス抜きの名目で呆けていた。
もう目標には達していると言って、言い過ぎなことはないと、たかを括っていたのだった。
公園のベンチに腰を下ろした──蝉の鳴き声がのべつまくなしに聞こえてきた。
日差しが肌を刺す。
私は公園が好きだが、別に暑いのは好きじゃないので辟易した。
顔の前に手を翳して、影を作る。
陽光の明るさに比例して、顔に特別濃い影がべったりと張り付いた。
「おねいさん」
独特な呼び方の声の主を探ると、そこには見知らぬ少女がいた。
といってもそれは見間違いで、よく見ると少年だ、とあとから気がついた。
っていうか上裸だった。
どうしてだろう、と疑問を口に出す前に、
「服があそこの木に引っかかっちゃったんだ。木に登って回収したいけど、ぼくにはできなくって……」
と、あちらから事情が述べられた。
「助けて欲しいんだ」
「……………………………」私は押し黙ったまま立ち上がると、少年が指差した木の方へゆっくりと歩み寄った。
私は軽く踵を上げて、枝に引っかかっていた服を取ってやった。
少年はそれを受け取り、ぺこり、と頭を下げたあと、「ありがとうございました」とだけ言って、公園からそそくさと出て行こうとした。
「待って」
私がそう言ったのを受けて、少年は胡乱そうな顔でこっちを見た。
口をついて出たその言葉に、私は慌てて理屈をこしらえる。
「どうして、服が木の上にあったのかな?」
「…………友達に」少年は言った。「友達に……イタズラで、木の上に投げられっちゃったんだ」
「その友達は?」
「帰ったよ」
「投げたあと、回収できない君を放って?」
「…………うん」少し苦しそうにして彼は首肯した。
私は言った。
「それはイタズラとは言わないわ。イジメよ」
「ちがうよ!」少年は焦ってそう言った。「……ちがうよ、ぜんぜん。ちがう、と、思う……」
竜頭蛇尾に尻すぼみになっていく彼の語調のことを鑑みるに、いまいじめっ子の悪意に勘付いたか、それともとっくに気づいていて、気づかないふりをしていたのか。
どうあれのその二択の選択肢では、少年に迫られるものとしては果たして、けっこう酷であると言わざるを得ない。
私は言った。
「見返してやりたい?」
「……………………」少年はしばらく黙っていた。
ほどなくして、少年の目からは大粒の、滂沱の涙が滔々と溢れてきた。
「……見返してやりたい!」少年は言った。「あいつらを見返して、僕はもっと、強くなりたい!」
強くなってあいつらを見返せよ、と思わなくもなかったが、そんな些事は一旦さておきよ。
「言ったわね? 男の子が一度そう言ったんなら、君、腹ァくくりなさいよ?」
「え、いやだ……けど……ううん」若干のためらいを見せつつも、少年。「ぼく、やるよ! きっと強くなって、アイツらを見返してやるんだ!」
「よく言ったわ! おねいさんも手伝ったげる!」少年の変わった呼び方を踏襲して、私は言う。「ただし私だけじゃ無理だから、君ももちろん、頑張りなさいよね」
「うん!」少年は元気良く返事をした。
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