89. 蠢(うごめ)く魔女とロットバルトの会話
※ 2025/5/19 修正済み
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夕方にはグリーン村付近も雨が上がった。
山あいには薄っすらとサーモンレッド色の夕日が沈もうとしている。
対して王都の市街地の方向には、七色の虹の輪が空にかかった。
それなのに、村付近はまだ霧が低くたちこめてるので、霧と虹と夕暮れ時の景観はなんとも摩訶不思議であった。
ネロを御者に馬車が、薬草農園の山荘の前に留まっている。
どうやら車輪交換も無事に終わり、すぐにでも出発できる体制だ。
だがマルコはそのまま体調が優れずに、ロットバルトの山荘に泊まることとなった。
エリザベスは
『ロットバルト伯爵、いろいろと助かったわ。お手数だけど、マルコの世話お願いね。明日帰宅できそうなら知らせて頂戴。すぐに迎えをよこすから』と心配そうにいった。
『ああ、肩の打撲で少し熱が出たのだろう。薬を飲ませればすぐ良くなると思うよ、なかなか筋骨たくましい青年だし、すぐに回復するさ』
『ロットバルト伯爵様、弟をどうかよろしくお願いします』
とネロも深々と一礼した。
この兄弟は、いつも一緒にいてとても仲が良い。弟思いの兄なのだ。
『任せたまえ、ネロ君。一応、僕はこれでも医者のはしくれだからね』
『ネロ、大丈夫よ。おまえも馬車の修理お疲れ様。あと手伝ってくれた従者さんもありがとう』
とエリザベスは金貨1枚を従者の彼に渡して労った。
『奥方様、ダメです、受け取れません。私はロットバルト様の指示に従っただけでさ』
と慌てて断る従者。
『いいよトマス、夫人のご厚意だ。素直に受け取れ』
傍にいるロットバルトがいった。
『……へい、そんじゃあ、ありがたく頂戴いたします』
『いいのよ本当に助かったわ。伯爵も今日は助けてくれてありがとう。このお礼はまた後で、使いの者に持たせますわ』
『いや、それには及ばない。大したことはしてないしね』
『そうは入っても、何もしないわけにはいかないわ』
『う~ん、ならば、また遊びに来て欲しいな。今日はあいにくの雨だったけど、今度はハーブ園や珍しい薬草が生息する場所を案内したいから』
『貴方はここから王都大学まで通ってるの?』
王都大学とは、ロットバルトが留学している王宮に近い大学である。
『いや、普段はアドリア姉さまの離れを借りてる。週末だけこっちに寝泊まりしているんだ』
『そう、分かったわ、気が向いたら来てもいいわよ。でも夏の間は無理ね、来週からはセルリアン領地へ帰省するから』
『ああ、公爵領地か。そこの丘陵地帯は有名で祖国でも聞き及んでいる。見事な景観らしいね。8月には、サマーフェスティバルとやらの、お祭りも姉さまから聞いてるよ。──僕も夏休みは大学ないし、避暑地の王室の城にやっかいになるよ。その時に、ぜひまた会おう!』
とロットバルトは紫水晶の瞳をきらきらと輝かせた。
ロットバルトは、セルリアン地方の夏の休暇を、楽しみにしているようだ。
『え……ええ分かったわ。ではまた、ごきげんよう』
と馬車に乗りこむエリザベス。
内心、エリザベスはエドワードの領地に、ロットバルトが来ると聞いて一抹の不安を覚えた。
なんとなく嫌な予感がしたのだ。
そのままロットバルトの山荘を後にして、王都のタウンハウスへとネロは馬車を走らせた。
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馬車の中でエリザベスは、窓から走る景観を眺めながら一日を振り返っていた。
雨と霧の中、突然黒馬に騎乗したロットバルトが現れて、お姫様抱っこされて一緒に馬に乗り、ロットバルトの胸の中で転寝をした。
彼のくったくのない美しい笑顔は、世の女性なら誰もがときめくだろう。
──ロットってアドリア妃にベッタリなのね。ちょっと焼けるくらい。
話をして見たら、意外と可愛い貴公子じゃないの。
と、エリザベスは自分でも気付かずに、ロットバルトを“ロット”愛称呼ばわりしている。
それにしてもわたくしの前で、泣き崩れて祈っていた乳母にはびっくりしたわ。
あの姿はどうみても相当な老婆だ。
ゆうに90歳以上に見えたわ。
ロットには悪いが、あのお婆さんは既にもうろくしてて、私の眼が緑だから『緑の女神』と錯覚したのね。
ガーネット王国も、緑の女神の信者は多いと聞く。
元々、ガーネット王国はクリソプレーズ王国の領内だった、という伝えがあるとエリザベスは思い出した。
だが、なぜ別々の国に分かれたのかはエリザベスにも理由は知らなかった。
エリザベスは仮面舞踏会の嵐の晩に、ロットバルトに襲われたことは、今回の滞在で大分影を潜めてしまった。
元々、誰かを恨み続けるのは、エリザベスの性には合わない。
自分を差し置いて、婚約した妹のマーガレットに対しても、ただ依怙地を張っていただけで内心はとっくに怒りも忘れているのだ。
その内エリザベスは、馬車の心地よい揺れの中でぐっすりと眠りに入っていった。
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夜中の誰もが寝静まった静寂な薬草農園──。
付近の林には梟の鳴き声と、チチチチッと蝙蝠の鳴き声も聞こえる。
どこかに、蝙蝠が潜む洞窟があるようだ。
2階のロットバルトの寝室兼書斎──。
薄明りのランプに、照らされた部屋。
壁には魔法陣のような、模様のタペストリーや、クリソプレーズ王国を、中心とした大陸地図などが貼付してる壁。
本が所狭しと床に散らばっている。
椅子にも無造作に積まれている、分厚い古書や歴史書で足の踏み場もないくらいだ。
寝室兼書斎というよりは、本に埋もれた部屋に見える。
ロットバルトは従者を部屋に入れないのか、掃除が行き届いていない。
床や机や窓のサンにも埃の粉が目立ていた。
その一角に、心地よさそうな木製の膝掛椅子に、腰をかけた寝間着姿のロットバルト。
顔に本を拡げたまま、長い両足を開き机上に乗せて寝そべっていた。
机上には赤ワインのボトルと飲みかけのグラス。
灰皿には、煙草の吸殻が何本か積まれてる。
気怠い雰囲気のある部屋だ。
コンコンとノックの音。
『ロット坊っちゃま、私でございます』と嗄れ声の老婆の声がした。
『うう~ん、ゲーテルか……入って良いよ』
ロットはううっと、背筋を伸ばして椅子から顔をあげた。
杖をついてヨタヨタと、足の踏み場もない床なのに、上手に本を通り避けるゲーテル。
『ロット坊っちゃま、あのお方なのですね』
『あ~お前もやっぱり気がついていたか?』
ニヤッと笑ったロットバルト。
『はい、左様です。あの方の何やら纏わる妖精たちの光を、婆にははっきりとこの眼には見えました、びっくりしすぎて、思わず涙が溢れました。この年でお恥ずかしい様を見せて申し訳ありませんでした』
『ああ、焦ったぞ! まさかお前が泣くとはな。バレたら不味いと焦ったよ』
ロットバルトはゲーテルを見てにやりと笑った。
『だが流石はゲーテルだな。僕はまだエリザベス嬢と接してもよく見えない。時々、薄っすらと微妙な光が見える時もあるんだが…。多分、僕の魔力が微弱なせいだろう』
『それも有りますが、あのお方御自身が気付いてないのが一番の理由でしょう、あの御方の力は無意識に制御されています』
『そうなのか。うん、彼女は気が強い普通のレディにしか見えないからな、見た目はとても美しいが──』
『あの見目では致し方ございません。婆は、そこをとても心配しております。ロットお坊ちゃまは、気が急いてしまう癖があるから、あの方と慎重に相対してくださりませな。せっかく見つけた“緑の宝玉”がすり抜けてしまいますでな〜』
『はは、ゲーテルはさすが魔女だな。もう既に手酷く引っ叩かれたよ!』
と頬を触るロットバルト。
『おやおや、これだから若い者は〜クワバラクワバラ〜!』
と2人の会話は、何やらエリザベスのことを指してるのか、とても不可思議な会話であった。




