86. ロットバルトの薬草農園(1)
※ 2025/5/19 修正済み
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王都に続く林道の太い一本道を、黒馬に騎乗したエリザベスとロットバルト。
後に続く一頭に騎乗したマルコと、その後ろを少し離れて走るネロ。
初めは足の速いマルコが走っていたが、さすがに馬車から落ちて肩が痛くて、兄のネロと騎乗を変わってもらっていた。
一本道の林道からの途中、右の脇道を曲がると間もなく薬草農園が見えてきた。
ここは王都近郊のプレーズ市グリーン村。
クリソプレーズの王都近郊は、森林や農場や畑、湖や川があり、自然に囲まれたのどかな土地である。
よく“王都民”と呼ばれる民は、主にクリソ市街地区に住む人々である。
王都の市街地区と近郊全ては王族の所有地でもある。
市街地区に住む貴族や平民でも、王族から土地を借りたり、購入もできる。
エリザベスが住む王都の公爵別邸は王族から購入して、既に公爵家の土地となっていた。
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一行は、“アドリア薬草農園”と、看板のある道に出て農園の入口に到着した。
エリザベスの馬車が止まった時から、ほんの15分くらい経った頃だろうか。
エリザベスは、ロットバルトの身体から伝わる体温が温かくて、つい気持ちよく眠気が起きて何度も意識を失いかけた。
ロットバルトはその都度その様子に気が付き、エリザベスの細いウエストをぎゅっと抱きしめた。
そのおかげで、エリザベスは黒馬のハデスから、振り落とされないで済んだのだ。
ロットバルトのマントの匂いは、嵐の晩と同じうっすらと煙草と珈琲の入り混じった香りがした。
あと、薬草とハッカの香りも……。
今日のエリザベスは、それらの香りに不思議と嫌悪感は感じなかった。
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『エリザベス夫人、着いたよ』
ロットバルトの心地よい声で、エリザベスは我に返った。
『あ⋯⋯着いたのね』
『騎乗しながら眠るなんて大した淑女だ』
と呆れた顔でロットバルトがいいながら『どう、どう、』といってハデスを止めた。
──嫌だ、私ったらロットの胸の中が、とても居心地よくて⋯⋯つい寝てしまったわ。
エリザベスは恥ずかしかったが、昨日の大叔父の家に泊った晩、なかなか寝付けなかったせいだと、自分に言い聞かせた。
少し遅れて黒馬を追いかけてきた、ネロとマルコの兄弟もようやく追いついた。
ネロはぜーぜーと息が荒くとても疲れた表情だ。
『ちょっとネロ、大丈夫?』
『大丈夫かい、ネロ君たち』
『はい、はあはあ⋯⋯伯爵、奥方様。たいしたことないですよ』
とてもそうは見えない──。
『う⋯⋯ん、でもマルコ君は肩の手当てをして、ネロ君もお茶でも飲んで一息いれてから修理にいったほうがいいな』
『はあ、はあ、それは有り難いです。さすがに走ると喉が渇きましたね。まずは水を頂きたい!』
とネロが嬉しそうにいった。
──あら、ロットバルトは意外と気遣いが出来る男だわね、
と内心、エリザベスは感心した。
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農場の白い柵の間の門から入ると、目の前には畑と花畑が連なった農場があった。
とても広いが、いかにも田舎の見慣れた農園風景だ。
馬小屋と納屋がある隣には、新築したばかりの二階建ての山荘があった。
セルリアン地方、避暑地の貴族が使用するコテージに造りがよく似ていた。
『ロットバルト様、おかえりなさいませ』
『旦那様、おかえりなさいまし。途中大雨が降ってきたので心配しました』
山荘のベランダから、従者らしき男たちが何人か出迎た。
農園で働いている農夫らしき男たちも、遠くからも声をかける。
『皆、ただいま。御客人だよ。途中道で出会ったんだが、馬車が故障して怪我をしている。至急、居間へ案内してやってくれ、あとお茶も頼む。私は寝室へいって着替えてからすぐに居間へいく』
『かしこまりました、ではご婦人を降ろすのを手伝いましょう』
と一人の中年の従者がエリザベスの下馬を助けた。
その後、ロットバルトが降りて、ハデスの首を撫でながら
『ハデス、よしよしご苦労だったな』
といって、ポケットから角砂糖を出して食べさせた。
ポリポリと美味しそうに食べるハデス。
マルコも肩の痛みが悪化したのか、一人で下馬できずネロが手伝った。
従者が室内へ3人を案内した。
『どうもありがとう、少し休ませてもらいます』
とエリザベスが従者にいった。
『いえいえ、どういたしまして。お疲れでしょう、さあどうぞこちらへ』
山荘内に入ると、すぐ居間で大きなテーブルが置いてあった。二階に上がる階段があり、天井が二階までふき抜けになっていた。
まだ建てたばかりなのか、新しい木材の匂いがした。
『さあ、こちらで一先ず休んでください。コートを脱いだら脇にかけて。今、手拭とお水を持ってきます』
と従者はいって下がっていった。
木材の大きな角ばった机と、椅子はふかふかのクッションがついており、3人はようやくホッと一息ついた。
エリザベスは肩を痛めたマルコに
『マルコ、相当痛そうだから、少し休みなさい。修理はお金を払って、ここの人に頼んでも良いのよ』
『奥方様、大丈夫ですよ。たいしたことない』
ネロが『いいよ、マルコ、俺がひと休みしたらすぐ行くから。でも、伯爵様が来てくれて良かったですよ』
『まあそうね──』
と渋々エリザベスも認めた。
そうこうしてる内に従者とメイドが、お水とぬるま湯が入った桶とタオルを持ってきてくれた。
エリザベスも汗をかいた顔や襟足、そして手首を拭いた。
『あ、痛っ……!』
エリザベスが手を拭いた時に突然、激痛が走った。
ネロが『奥方様、どうなされました?』
『あ、ちょっと手首が……馬車内で打った時かも……』
見るとエリザベスの左手首が赤く腫れていた。
『ああ、これは酷い!』ネロが顔をしかめた。
メイドが『いかがいたしました?』と聞いた。
『奥方様もケガをしてるんです、ここにはお医者さんはいませんか?』
マルコがいう。
『大げさね、たいしたことないわよ、湿布だったっけ? さっきマルコがもらってたのそれ貰えばいいわ』
『ええでも……』とマルコの顔が曇った。
『あの〜』とメイドが恐る恐るいう。
『お医者様なら旦那様が手当てしてくれますけど⋯⋯』
『えっ、ロットバルト伯爵は、医者の資格も持っているの?』
とエリザベスは驚いた。
『はは、そうだよ、私はこれでも一応、医者なんだよね』
エリザベスが振り向くと、着替えを済ませたロットバルトが、階段から降りてきた。
白シャツに黄緑色のベストとお揃いのスラックス姿だ。
髭はそっており貴公子然としてて、とうてい雨の中で見た悪魔には見えない。
エリザベスはロットバルトの姿を見て思った。
──確かグレースの店に出入りしてる年増夫人達が
『ロットバルトを自分のツバメにしたい』
といっていた。
彼女らの噂によると、この男は25歳以上といってたわ。
いや、なんだかこうして改めて見るともっと若く見えるわ。
もしかしたら私と同じ年かも。
手首の痛みを感じながら、エリザベスはこの不可思議な美しき若者を、じっと見つめていた。




