37. 乳母のミナ
※ 今回は公爵領本邸の従事者の話です。
※ 2025/5/2 修正済
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『あ~、駄目だわ。やっぱり上手く出ないわ!』
エリザベスは赤子のリリーを胸に抱いてお乳を与えていた。
どうやらエリザベスは、母乳が出にくいようでとても苦しんでいた。
産まれた直後の初乳はけっこう出たのだが、その後がどうも安定しない。
『奥様、どうか無理なさらずに…お医者様も産褥期の間は注意してくださいとおっしゃってました。ほれ、リリー様をお渡しください』
とサマンサはエリザベスからリリアンヌを抱き上げる。
エリザベスの顔色は確かに青白い。
産後は食欲も戻らずに体重も減ってしまった。
まだまだ身体の調子が良くないのだ。
『う~う~! う~う~!』
サマンサの胸の中でリリアンヌが、お乳が飲みたいよ~と欲してる合図だ。
リリアンヌはミルクを所望したいと、口を『う~う~』と唸るようになった。
『ミナ、ちょっと来て頂戴──!』
『はい、サマンサ様!』
はつらつとした良い返事をしたメイドが入ってきた。
『は~い、リリアンヌ様、これからお食事の時間ですからね~!』
サマンサからリリアンヌを渡されて、メイドは元気いっぱい赤子に話しかけた。
彼女は手慣れた手つきで、テキパキと胸をはだけだして、リリアンヌにお乳を飲ませる。
ごくごくと美味しそうにお乳を飲むリリアンヌ。
とても満足げで愛らしい。
メイドの名はミリアナ・オリエンスといった。
愛称はミナだ。
下位貴族の子爵夫人だ。年は25歳。
髪はダークブラウン。
瞳は青みがかった灰色で、小太りだが中々の美人である。
ミナの夫はドナルド・オリエンス子爵。30歳。
夫妻には7歳と5歳の息子と、1年前に生まれたばかりの娘がいた。
夫のドナルドは実家は伯爵だが、次男なので分家の子爵の称号を継いだ。
爵位はあっても領地がない為、ドナルドは成人前から公爵領本邸の護衛騎士として仕えた。
現在は団長に昇進している。
ミナも地元の新興男爵家の次女で、王都の貴族女子の中等学院を卒業すると、公爵本邸のメイドとして雇われた。
8年前に縁あってドナルドの嫁となる。
ちなみに、公爵本邸は他の貴族邸と違って、侍従とメイド(侍女)の結婚が意外と多い。
ルービンシュタイン家も、昔は男女仲を厳しく管理していた。
恋愛も禁じてはいたが、先代のジョージ公が侍従たちを家族の一員としてみなしてから、徐々に変化していった。
むろん仕える者と、そうで無い者の身分の区別は厳粛にある。
その上でジョージ公は、同じ屋敷に在住する家令たちのプライベートは自由にさせた。
時にはジョージ公は多忙の合間でも、本邸の従者たちとの懇親を含めて、ピクニックなども定期的に行った。
そうこうするうち従者と、メイドの恋愛も増えていく。
時にジョージ公は2人の仲を取り持つことまでした。
実はミナとドナルドが結婚する仲介役をしたのも、他ならぬジョージ公であった。
そのせいかジョージ公が亡くなった時は、2人とも相当ショックであった。
特にミナはジョージ公が大好きだったので、娘がお腹に出来て、ようやく本来の明るさを取り戻せたのだ。
※ ※
エリザベスはミナがリリアンヌにお乳を上げてる様を見ながら
『あ~、わたくしって母親失格なのかしら?』
『──なぜですか?奥様』
サマンサが訊ねた。
『……だって母親って赤ちゃんに母乳を飲ませるのが役目なんじゃないの? これまで、わたくしにできないことは何もないと自信あったけど、お乳飲ませるのはミナの方がとっても上手だわ』
と何故か拗ねだすエリザベス。
『……奥様、それは致し方ございませんよ。奥様は公爵夫人でございますから』
サマンサは呆れた顔で言った。
『それにリリアンヌ様を産んだ後、奥様は、また次のお子様を産むご準備をするのです。そもそも格式のある家は、お乳を飲ませるのは、乳母の役目と決まっております。先ずは何よりも、今はご自身のお身体をご養生してくださいませ』
『はいはい、わかったわよ。もうサマンサったら最近お母様がいう小言に似てきたわよ』
とエリザベスはふて腐れていった。
エリザベスの勝気な性格は、乳母のミナにすら張り合おうとする。
『ええ、そうですわ奥様。奥様がリリアンナ様にお乳をあげてしまったら、私の役目が無くなってしまいます』
ミナは動じないのか、リリアンヌにお乳をあげながら、あっけらかんと言った。
彼女は使用人にキツイ態度をとるエリザベスにも、けっしてひるまず、率先してものをいう性格であった。
逆にそんなミナを、エリザベスは気に入っていた。
彼女は自分のものいいに、ストレートにびくつくメイドが苦手だったのだ。
本人は悪気がなくてもストレートに言うため、怯えてしまうメイドは多い。
『……そんなものかしらね、でも、もう二度と子供は産みたくないわ』
エリザベスは2人に諭されてつい本音を漏らした。
「え? 奥様それは……」
ミナが驚いた──。
直ぐにサマンサがミナに目配せをした。
“奥様に反論しては駄目よ──”というサマンサの意味を、ミナは瞬時に理解した。
なのでミナは、エリザベスに言いかけた言葉を止めた。
これ以上反論するとエリザベスが怒りかねないと、サマンサは主人の怒りの塩梅を知っていた。
それでも、エリザベスのお子は産みたくない、という本音はよろしくはない。
本人も重々自覚はしていた。
エドワードが、次は男の子を望んでいるのはわかる。
公爵家の嫡男を生むのは妻の勤めなのは妻の義務ともいえる。
──でも……悪いけど、赤ちゃんはこの子のみにしたいわ。
例えばリリーのお婿さんを貰うことだって可能よね。
エリザベスは産後の肥立ちが悪いせいか、2人目を思うと憂鬱になっていた。
『はい、終了いたしました。リリアンヌお嬢様はしっかりとお乳をお飲みになりました。奥様、リリアンヌ様を寝かしつけてよろしいでしょうか』
『ええお願いね、ミナ……』
『かしこまりました──』
ミナはテキパキと、そのままリリアンヌを抱いて子供部屋に移動していく。
※ ※
子供部屋はエリザベスの部屋の隣にあった。さらにその隣には乳母の休憩室兼寝室がある。
ミナの娘もまだ赤ん坊なので一緒に過ごしている。
ちなみにミナの息子たちは、父と祖母と護衛騎士団の宿舎内で暮らしている。
母親のミナと娘はリリアンヌの母乳期間の間だけ、公爵領内本邸で寝泊まりするので、その間は通いになってしまう。
とはいっても騎士団の宿舎は、同じ屋敷の敷地内にあるので歩いてもすぐそこなのだ。
『あ~何でこう身体が怠いのかしら、うんざりするわ』
エリザベスはうう~んと背伸びをして、ネグリジェの上にガウンを纏っただけで、ふと日光浴をしたくてバルコニーへ出ていく。
「おお、寒いくらい……」
夏とはいえ北の大地だ、9月に入ると吹く風も少々冷たい。
ベランダから外を見る景色も豆類やビート、ジャガイモなどの収穫時期が近づいてきた。
丘陵は緑に加え、黄色や赤色のコントラストがとても美しかった。
北に面したクィーンズ市は王都よりも、夏の季節も短く初秋の様相を見せていた。
リリアンヌを産んでから既に1カ月半が経過した。
──まさか、こんなにわたくしの体調が悪くなるなんて!
お産がこれほど難儀なものだったとはね。
これまで風邪すら滅多に引かないエリザベスにとって、産後の肥立ちの怠さは耐え難いことであった。
※ 先代のジョージ公爵が好きなタイプなので、ついつい書いてて長くなってしまった。




