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第1幕 第4話

この子の散歩中だったというしらぬいさんは、昨日のことなんてまるで何事もなかったかのような態度だった。逆に俺はいつ怒られるものかとびくびくしていたのだけれど。

なんとなく流れでその散歩に同行することになってしまい、並んで波打ち際を歩いている。少しだけ水平線が赤みを帯びてきたのを横目に、得意げに先を行くりぃの後ろを追いかけた。

何気なく隣を歩くしらぬいさんを伺えば、視線に気付いた彼がちらりとこちらを見て目があった。反射的に逸らそうとすると、それを遮るようにしらぬいさんが口を開いた。


「この間のことなんだけど、」


きた。

ついに、きた。

だらだらだらと背筋に汗が伝うような錯覚を覚えつつ、俺は覚悟を決めて勢いよく振り返り頭を下げた。


「すみませんでしたっ!」

「うん?」

「え、」

「あ、あーいや、そうじゃなくて」


驚いたように目を瞬かせたしらぬいさんと俺の大声に反応したのかどうしたの?と言わんばかりに慌てて戻ってきたりぃの表情がシンクロしていることに思わずにやけそうにながら、何故か動揺しているしらぬいさんを見つめる。すると彼は困ったように苦笑いを浮かべて続ける。


「あの時は急に声かけて悪かったなぁと思って。謝りたかったんだけれど」


今度は俺が驚かされる番だった。

まぁ言われてみれば急だったけれど、どちらかといえばこちらの方が失礼だったのでは。

そんな思考が顔に出ていたのか、彼はくすりと笑った。


「それなら、君が良ければだけれど、お互い様ということにしないか?」

「……はい。そうして貰えると嬉しいです」


ここで謝られると立つ瀬がなくなるので本当に勘弁して欲しい。その一心でうなづくと、心配そうにやりとりを見ていたりぃがしらぬいさんのシャツに頭をこすりつけた。話に混ぜろという意思表示に見えなくもない。そんなりぃを宥めるように、しゃがみ込んで顎下を撫でてやっているしらぬいさんの頭頂部をぼんやりと見下ろす。やがて訪れた静寂に耐えきれず、俺は話し出した。


「今いる施設を出て住むところを探しているんですが、市内じゃあなかなか安いところがなくて苛ついていて、やつあたりしたようなものなんです。だから別に、誘われたことに怒った訳では、」

「——ふぅん?」


なら、まだ希望は残ってるんだな。


潮騒に搔き消えるような小さな声で、けれど確かに呟かれた言葉に俺は目を丸くする。静かに立ち上がったしらぬいさんは、そんな俺を真正面から見据えて言った。


「あの時言ったことは嘘でも勢いだけのものでもないよ。俺は、君と音楽がしたい。あの日の君の音を聞いた瞬間そう思ったし、今でも思ってる」

「っ、俺は……もう」


咄嗟に俯いて目を逸らし、袖口を握り締める。昨夜の夢が脳裏に蘇って余計に気分が悪くなった。聞きたくなくて、考えたくなくてここに来たのに。これじゃあ意味がない。

逃げてしまおうかと考えて、すぐにそれを却下した。そうした結果がこの状況を産んだのだから、逃げるだけでは駄目なのだ。ここでちゃんと、終わらせなければ。

息を吸って、少しの迷いと一緒に吐き出した。俺の答えを何も言わずに待っていたしらぬいさんの真剣な目をまっすぐ見て、言う。


「俺はもう、音楽なんて演りません」

「——どうして?」


それは穏やかで、優しい声だった。


「俺には才能が無いんです。10年くらいかけて、ようやく自覚しました。俺は特別ではなくて、選ばれた何かじゃない。生まれ持つはずの素質が決定的に欠けている」

「才能、か。それはピアニストとしての?」

「はい。……どれだけ努力したって天才には届かないし、欲しかったものは手に入らなかった。あんな思いはもうしたくない。自分が凡人だってことを突きつけられても戦い続けられるほど強くないんです。だから俺は、もう音楽なんてものと関わるのは……ごめんだ」


言葉尻は萎んで、やけに情け無く響いた。

何をしているんだろう。

こんなところで、会ったばかりの人に何を話しているのか。俺の身の上話なんか聞いたところでこの人だって困るだろうに。

あぁ、嫌だ。嫌いだ。そんなことを考えながら、俺はまた俯いてひたすら沈黙に耐えた。しばらくして、しらぬいさんが「そっか」と呟いた。思わず肩が跳ねる。幻滅された?呆れられたかもしれない。くだらないことをぐちぐちと、と。いやそれでいいのだけれど、それでいいはずなのに、何故か心臓の奥が軋む。あの夕焼け色の瞳に失望が浮かぶ瞬間を、見たくなかった。

けれどしらぬいさんは、立ち去ることもため息を零すこともなく、俺の腕を引いた。反射的に顔を上げれば、変わらず真剣な表情で彼は俺を見ていた。それから、ふわりと笑う。そこに予想していたような失望の色は無い。


「柊」

「え、あ」


な、まえ。

あぁそういえば、あの時名乗ってたんだっけ——


「才能の有る無しは、俺が決めることじゃない。そもそもそんなものがどこにあるのかなんて、誰にも証明出来ない」

「……はい」

「だけど。今まで懸けてきた時間と想いを、"ただ無駄だった"ことにするのは勿体無いと思うよ」


ひゅ、と。喉が鳴る。

けれどしらぬいさんは続けた。


「届かなかったことや手に入れられなかったことをずっと悔やむくらい、努力してきたんだよな。しんどい経験をしてもうごめんだって思っているのに、それでも捨てられないくらい——好きだったんだろう?ならそれを無意味なものにしちゃ駄目だ。少なくとも俺は、あの時聴いたお前の音が無駄なもので出来てるなんてことにはしたくない。努力は報われるべきだし、想いは伝わっていくべきだと思う」


目を離すことはできなかった。

静かな、淡々とした言葉だったのに。頭をガツンと殴られたような気分で。道行く人たちが不審な目を向けて立ち去っていくのも、空が真っ赤に染まっていくことも気にならないくらい、俺はただ彼の言葉に聞き入っていた。

無意味じゃなかったと、彼は言った。

無駄にするなと、言ったのだ。

才能の伴わない努力が、空回りしただけの感情が。

言葉を失った俺の腕を離して、しらぬいさんは悪戯っぽく笑った。


「ひとつ取り引きしないか、柊」

「取り、引き」

「実は俺の住んでるアパート、他に住人がいないんだ。ついでに管理者の名義は俺になってる。つまり市内で敷金も礼金も無しに完全無償で貸し出せる1LDKがあるんだけれど、」

「え、えぇ!?無償!?」

「そ、無償。それを期間無制限で貸し出す代わりに、一度だけライブで俺の伴奏をやってくれないか?もしそれ限りになったとしても約束は撤回しない。どうせ空室だし、好きに使ってくれ。でももし、もう一度音楽をやる気になったなら——その時は一緒に音楽演ろう」


どうだ?と笑う彼に、俺は戸惑いながらも反射的にうなづいた。好条件にも程がある。もしも本当に約束が果たされるなら、俺の悩みはここですっきり解消することになる。促されるままに連絡先を交換し、そろそろ日が暮れるし家まで送ろうかとの申し出を丁重にお断りして。自分のスマホに"不知火伊織"という項目が追加されている事実を受け止めきれない頭が思考停止しかけている。しらぬいってこう書くんだなぁ。かっこいい名字だ。

——じゃなくて。

それじゃあまた後で連絡するな、と軽く手を振って広場を出ていく彼と嬉しそうに歩き出したりぃの後ろ姿をぼんやりと見つめていた俺は、正気に戻った途端に慌てて声を上げた。


「あの、!」

「ん?」

「——なんで、俺なんかのためにそこまでするんですか」


それは俺がずっと気になっていたことで、ずっと聞きたかった疑問だった。すると彼は立ち止まり、楽しそうに答える。


「言ったろ、俺は、お前と音楽演りたいんだ」

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