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第1幕 第1話

鉄の街、室蘭。

高校生活最後の夏を迎えた俺は、職員室前の掲示板に張り出されている今期卒業生向けの新居案内の前で唸っていた。

就職したての学生に勧めるような物件だから、そこまで家賃や敷金は高くない。とはいえ、決して安いという訳でもなく。


「……んー、」


まだ就職先も決まっていない俺が何故こうも焦って物件探しをしているのか。

というのも、現在お世話になっている児童養護施設が原則18歳で退去という仕組みになっているからだった。つまりは、進路がどうなろうと卒業したら今の施設をでなければならない。皆にとっては「将来は一人暮らししたいよね」という世間話の話題程度にしか興味を惹かれないだろう新居案内を俺が熱心に眺めているのは、そんな理由だった。

——いや。多分状況次第で施設の入所期間を延長してもらうことは可能なのだろうが。しかしあまり職員さん達に迷惑はかけられないし、かといって親類と実質絶縁状態にある俺に金銭面の当てなどある筈もなく。バイトの貯金も多少はあるけれど、先々のことも考えて出費は最低限に。


「……頭痛くなってきた」


長い間細かい文字を追っていたせいだろう。頭の奥の方が重いような感覚を覚えて、思わずこめかみに手をやった。こういう時に物事を考えてもろくな答えは出ないものだ。

また次の機会にしよう、と俺は掲示板に背を向ける。どうしてこう人生ってやつは上手くいかないのだろうか。すぱっと問題が解決して、ついでにその答え合わせまでしてもらえればこんなに悩まずに済むというのに。為すがまま、成るがままに生きるのはなかなかどうして難しい。

あぁなんだかもやもやしてきたなぁ、と俺は鞄を担ぎ直して。それから、ふと思い当たった。


そうだ、今日もあそこに行こう。




この学校に、吹奏楽部の類は存在しない。

音楽室を使うような委員会も無い、とくれば、放課後の音楽室周辺には人の気配すらしない隔絶された空間になる。

いつも通り教室内に人がいないのを確認して中に入った俺は、その辺の机に鞄を置いて窓際のピアノに近寄った。ヤマハ製の、少し古ぼけたグランドピアノ。その蓋を開けて、椅子に腰掛ける。右の人差し指で鍵盤の1つを押し込めば、腹の底に響くような重厚な音が響いた。

さて、と意気込んで、学生服の上着を脱ぐ。Yシャツの袖を捲り、細く長く息を吐いて、吐いて——鍵盤の上に両手を置いた。

最初に鳴った一音から連想したのは、『幻想即興曲』。それを好きなように、記憶を辿りながら弾いていく。観客はいない。審査員もいない。誰に点数をつけられることもない、自由な音。

途中のフレーズから勝手に転調して、次の曲へ。気の済むまま好きな旋律を弾いたら、また次へ。格調高いクラシックから最近CMでよく聞くアイドルソングへと移り、指がつりそうなほど激しく素早いロックからしっとりとしたバラードへ繋ぐ。そういえば最近この曲をよく聴くなぁ。アーティストが浮気だか不倫だかでニュースに鳴っていたからかな。今日の世界史はドイツの話だった。ドイツ出身の作曲家って誰がいたっけ。ビートルズはイギリスだよな?

そうやって、思いついた順に並べ立てる。脈絡も節操もない選曲だ。だから良い。

憂さ晴らしに少し遊ぶだけだった筈なのに、気づけばつい夢中になっていた。いつもよりもなんとなく指がよく動いたからだろうか。それとも、窓から飛び込んでくる喧騒が遠く聴こえるから?

なんにせよ俺は止め時を見失って、音楽室のドアが開いたことにも、そこから知らない誰かがこちらを見ていることにも気がつかずに弾き続けた。気の済むまま、一心不乱に。

さてどのくらい時間が経ったのか。何番目かもわからないポップスに移行して、そのサビの一音を弾き間違えたところでようやく俺は手を止めた。


あー、折角良い感じだったのに。

ファの音だと思ったんだけどなぁ。

もしかしてここで半音下げるのか?


そんなことをひとりごちながら黒鍵を押し込んで、やっぱりこっちだとうなづいて。集中も切れたし帰ろうと鍵盤の蓋を下ろし上着を掴んだ途端、


「なんだ、もう終わったのか?」


——その声に、俺はびしりと固まった。

聞き覚えのない声だ。知り合いじゃない。けれど、でも。

もっと早く来れば良かったなぁなんて呑気なことを言いながら何故か拍手をしている人影の方を、見て。

俺は思わず後ずさる。

脳内は完全にパニックで、言葉も出てきやしない。

ただ、この人に見られていたことと聞かれていたこととが事実としてわかってしまう。もうニ度と、人前では弾かないと決めていた筈なのに——!

羞恥なのか怒りなのか、恐怖なのか。自分でもよくわからない感情がぐるぐる回って動けない俺に、"彼"は何を思ったのか一直線に近づいてくる。

陽を反射して柔く輝く色素の薄い髪が、目の前で揺れている。こういう人をイケメンっていうんだろうなぁ、と現実逃避し始めた俺の手を取って、彼はこう言った。


「なぁ、俺と音楽やらないか?」



絶対嫌だ。

っていうかあんた誰だよ。


と、そんな思いは言葉にならず。

ぱくぱくと意味もなく口を開閉させている俺を見て、彼は何かに気がついたのか静かに手を離した。

それからはにかむように笑って、そういえば名乗ってなかったよな、と。


「俺は不知火伊織。Mr.Musicって音楽事務所の、歌手をやってる。君は?」

「あ、えっと……一ノ瀬、柊……です」


だめだ、流されている。

しっかりしろ。

そう自分に言い聞かせつつ、俺は彼——しらぬいさん?から距離を取った。どう見たって失礼なその態度を気にした様子もなく、しらぬいさんは人の良い笑みを浮かべて続けた。


「それで、さっきの話なんだけれど」

「さ、っき」

「うん。一緒に音楽やらないかって。具体的には、伴奏者に興味はないかなぁと」


音楽。

伴奏。

その言葉を改めて他人の口から聞いた途端、すうっと頭が冷えていくのを感じた。聞きたくなかった言葉だし言われたくなかった言葉だ。できれば、一生。

上着を掴む手に力がこもる。それを見たしらぬいさんがこちらに手を伸ばして、どこか他人事のように冷めきった思考を裏切った体が勝手に動く。

気がつけば、俺は差し出されたその手を乱暴に払い除けていた。

ぱしんと乾いた音が教室に響く。

目を丸くした彼が何かを言うより先に、叫んだ。


「俺はもうニ度と音楽なんか演らないっ!」


そのまま放置してあった鞄をひっ掴み、逃げるように教室を飛び出す。無心で階段を駆け下りて校門を潜り、息を切らせながら俺は思う。


あぁ、最悪だ。



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