悪女アリアドネ・ベルネット
あれは長らくいがみ合ってきた隣国との戦争の勝利を祝う戦勝祝賀会の数日後のことだった。
何の前触れもなく我が伯爵家が属している貴族派と敵対していた皇帝派の皇族や主要貴族の人々が謎の死を遂げたのである。
それも全員がまるで眠っているかのように穏やかな表情で亡くなっていたという。
時間帯は明け方。遺体には赤い斑点が心臓に近い皮膚の一部にまばらに浮かび上がっていたらしい。
そして同時に頭を過るのは隠し部屋で研究していた毒物が事件前に減っていたこと。
話を皇室騎士団の騎士に押さえつけられながら聞かされた私は、なんで? どうして? と呆然とするしかなかった。
だって、その症状が出るのは私がずっと一人で研究していたある毒物を服用したときに起こるものだったから。
お父様以外に誰にも隠し部屋の場所は分からないように細心の注意を払っていたし、そもそも私はただ一人だけを目的として研究していたというのに。
けれどこうして被害が出ているということは、第三者が隠し部屋から毒を持ち出して使用したということに他ならない。
また、持ち出せる人は一人しか思い当たらず、私はその人物に視線を向けた。
隠し部屋の存在を知っていた唯一の人物であるお父様に。
私と同じように拘束された彼はオドオドとした様子で冷や汗をかきながら下を向いている。態度だけで持ち出したのはお父様だということを確信した。
「アリアドネ・ベルネット」
何の感情も籠もってない抑揚のない声に私はすぐさま我に返った。
お父様に向けていた視線をそちらに移す。
そこにはこの世で私が一番恨み憎んでいる男が何かに耐えるかのような表情を浮かべていた。
「クロード……」
先ほどまでは呆然としていたものの、隠し部屋の毒物が減っていたことと亡くなった人の状態を聞いた後だったから皇室騎士団が私を取り押さえた理由ももう察している。
「……姉上」
「その口で姉だなんて呼ばれたくもないわ」
「不快に思われても、例え半分しか血が繋がってなかろうと俺にとってはたった一人の姉です。それに貴女が痕跡を残すようなミスをするはずがありません。……今回の件に姉上は関わってはいないのでしょう?」
「……」
クロードの問いに私は何も答えなかった。
答えられなかった。
実行には移していないが、使用された毒物を作ったのは紛れもなく私。
私が作らなければ事件は起きなかったし、誰も死ぬことはなかったのだから。
大体、皇室騎士団が私のところに来たということは貴族派のリーダーであるヘリング侯爵から切られたということ。
すでに私が犯人であるという証拠もでっち上げられているだろうし、やっていないという証明もできない。
それに心配していることもある。貴族派に属しているお父様のことだ。
隠し部屋から毒物を持ち出したのはお父様で間違いない。
きっとヘリング侯爵に命令されて仕方なく実行したのだろう。なんせ一番の信奉者だもの。
役に立ちたいという一心で動いたことは容易に想像ができるし、それが家門のためだという思いもあったのだろう。
だからこそ、ここでお父様まで連れて行かれるわけにはいかない。
「……答えてください」
「連れて行くのは私だけにしてちょうだい。お父様は関係ないわ」
「そうだ! 全部アリアドネが勝手にやったことだ! 私は何も知らない! 一番の被害を受けていたクロードだから身に染みて分かっているだろう? あの子はお前を殺してベルネット伯爵家の跡継ぎの座を取り戻そうとしていたのだから」
罪を全て私に押しつけるお父様の言葉に私は絶句する。
跡継ぎのクロードを大事にしていたとはいえ、実の娘に対する愛情はあると思っていた。
多少は罪が軽くなるようにと庇ってくれるかもしれないと淡い期待を抱いていたが、自分の保身に走るとは想像もしていなかった。
お父様の言葉が信じられなくて呆然としていると、クロードが静かに口を開く。
「ええ。俺を憎んでいるのは分かっていますよ。だからこそおかしいんです。姉上の標的は俺一人だけ。俺を陥れるのに他人を利用することは確かにありましたが、どんなときでも周りの人間に被害が及ばないようにしていました。それが例え平民であったとしても、です」
「追い詰められて考えを変えただけだ! あの子のお前を憎む気持ちは軽いものじゃない。私の妻であり、あの子の母親が病死したのは婚外子のお前が家に来て心労がたたったから、だからな。母親を殺された恨みだって持っているに違いない」
違う……私はお母様が病死したのはクロードが原因だとは思っていない。
確かにストレスは感じていたし体を弱くした要因のひとつではあると思うが、クロードが家に来る前から体は弱かった。
加えて、肺病になり治療法もなく死は避けられないものでどうしようもなかったことである。
さすがに、それをクロードだけのせいにするほど私はバカではない。
「私はあの子がやろうとしていることを止めようとしていたんだ! 証拠だってある! 上着のポケットに毒の症状が書かれた紙と今回使用された毒の解毒剤が入っている。取って確認してくれ!」
一人の騎士がお父様に近寄り、上着のポケットから四角く折られた紙と小瓶を取り出すと小瓶をクロードに手渡して騎士は紙を広げた。
紙に書かれた内容を確認した騎士は「今回の症状と一致しています」と答える。
まさかその紙と解毒剤まで持って行っていたとは思わなかった。
もしかしたら、最初から私を主犯に仕立て上げるために仕組まれていたことだとでも言うのだろうか。
「言った通りだろう? 私は止めようとしたんだ! 被害を食い止めようとしていたんだ!」
「では、どうして戦勝祝賀会のときに助けようとしなかったんですか?」
「国内の貴族が一堂に会する場でそんな大それたことをするなんて思うわけがないだろう! 初動が遅れたのは申し訳ないが、それでも助けようという気持ちに嘘偽りはない! ……あ、あとアレだ! アリアドネに指示されて飲み物に毒を入れた侍女も見つけて拘束してある。今頃、王城でヘリオス殿下が動いていらっしゃるはずだ」
「ハハッ……」
自嘲するような乾いた笑いを私は抑えることができない。
貴族派がたとえ瓦解しようと相打ち覚悟で皇族や皇帝派の貴族の毒殺を優先させた。
その後の帝国を牛耳るために、私が暴走して引き起こしたことだと罪をなすりつけて自分達は助かろうという魂胆だろう。
ベルネット伯爵家はアラヴェラ帝国一の毒の専門家で毒に耐性がある。また、知識が豊富で新たな毒薬を研究している私は罪をなすりつけるのにちょうど良い人物だったに違いない。
盲目的にお父様とヘリング侯爵を信頼して、後継者の座に執着して周りを見ることすら出来なかった。
これは私の落ち度だ。利用されて捨てられる駒にすぎないちっぽけな存在。
「……本当に、貴方方は今日のために用意周到に準備されてきたのですね。汚すぎて反吐がでる」
打ちひしがれている私とは反対にクロードは苛立ちを隠すことなく吐き捨てた。
これまで散々、彼の命を狙って罠にはめようとしていたというのにどうして私を庇うような言動を取るのだろうか。
「本当に……ご自分のことしか考えていないのですね。さすが娼婦に子供を産ませて男だったからと婚外子を跡継ぎにすると連れてくる人間なだけありますよ。自分のことしか考えていないただのクズ野郎の血が俺にも半分流れているなんて考えただけでもゾッとしますね」
「ち、父親に対してなんて口の利き方だ! 誰が貧民街にいたお前を引き取って良い暮らしをさせてやったと思っているんだ!」
「頼んでませんよ。俺は貧しくても母さんと一緒に居られればそれで良かったんです。貴方に感謝したことは一度もない。ですが、姉上に会わせてもらった点だけは良かったと思っていますよ」
「お前……!」
「ああ、もう結構。続けても同じ話の繰り返しにしかならないでしょう。これ以上、姉上の耳に汚れた言葉を聞かせたくありません。さっさと連れて行ってください」
なおもわめき散らかして文句を言っているお父様を無理やり引きずる形で騎士達は出て行った。
ところで、なぜクロードは私に配慮するようなことを言うのだろう。
好かれるようなことは一切していないというのに。
だとしたら考えられることはただひとつ。
「お父様から捨てられた私を憐れんでいるのかしら? ならばその配慮は不要だわ」
「憐れんでなんていませんし、その感情を抱くのは姉上に対して失礼です。姉上がどれだけ努力を重ねて勉強して跡継ぎになろうとしていたのかを俺はずっと見てきました。ただ、跡継ぎに執着する姉上の気持ちを利用していたあの男が許せなかったんです」
「利用……そうね。口では私を信頼していると言っておきながら、最初から愛されてなんていなかったのね」
本当に、私のしてきたことは一体なんだったというのか。
ただ認めて欲しくて……。政略結婚の道具じゃなく、一人の人間として認めて欲しかった。私の能力を家のために使って欲しかった……。
たとえ男子がいたとしても、能力が高ければきっと私を見てくれると信じていた。
愛してくれると思っていた。愛して欲しかった。
でも、それは大きな間違い。
これまでの価値観が足下からガラガラと崩れ去っていくような感覚を覚えながら、私の頭は逆に不思議なほど冷静になっていた。
私が十歳のときにクロードが来て跡継ぎから外されて、なんとかその地位を取り戻そうと彼を排除することに躍起になって執着して、こうして道を踏み外してしまった。
望んでもいない毒殺の手助けまでして、全てが手遅れでどうしようもない。
結局は私もお父様と同じだ。自分のことしか考えていなかった。
どれだけの人を傷つけてしまったのだろうか。今更後悔してもとうに遅い。
許されないことを私はしたのだ。その責任は取らなければいけない。
「今回の主犯は姉上ではありません。ただ毒を作り、それが利用されただけです。俺が姉上の潔白を証明して助けますから」
「……たとえ理由があったとしても私がやったことが正当化されるわけではないわ。勝手に持ち出されたとはいえ、毒を作らなければ起こらなかったことだもの」
「まさか……全ての責任を背負うつもりですか?」
「そうしないと他の貴族は納得しないでしょう? でも、私一人に押しつけられて終わりだなんて冗談じゃないわ」
「姉上らしい言葉ですね」
ここにきてクロードは初めて表情を崩した。
どこか困ったような、しょうがない人だとでも言うような顔をして口元を緩めている。
今までこんな姉弟みたいな柔らかい空気になったことなど一度も無い。
でもなぜか嫌な気持ちにはならなかった。
もしかしたら、私が歩み寄ればクロードとは普通の姉弟のような関係になれていたのだろうか?
などと思ったところで今更意味のないことだ。
「クロード、こちらに来なさい」
私の言葉を受け、クロードが少しばかり距離を詰めてきた。
「もっとよ。耳を貸しなさい」
「首をかっきられるのはごめんなんですが」
「拘束されているのにできるはずがないでしょう。元よりやるつもりもないわよ。……いいからさっさと来なさい」
やれやれといった風に肩をすくめた後でクロードは私の前に跪き、顔を寄せてくる。
拘束している騎士にも聞かれないように私は彼の耳元に向かってそっと呟く。
「書斎の東の壁。ドアから二つ目の棚の四段目。右から十三冊目の本を押し込めば隠し部屋に入れるわ。部屋にあるものは燃やして処分してちょうだい。あと、ヘリング侯爵からお父様に宛てた指示の手紙もあるわ。好きに使いなさい。解毒薬も使用できる人がいれば使用して成分を調べさせないで。いなければそれもすぐに処分なさい」
「分かりました」
皆まで言わなくてもクロードならこれだけで分かってくれる。
無味無臭で銀食器に反応もせず水分に溶ければ毒は検出されない、遅延性で緩やかに眠るように死を迎えるあの毒はこの世にあってはならない。
摂取した際の症状は残してあったが作り方を書き記したものはなく、私の頭の中だけにしか存在しない。
毒の入った小瓶が少なくなっているのに気付いてから、すぐに在庫は処分してある。
ただ、材料は残っているから作り方を導き出されたら少しばかり厄介だ。
であれば、隠し部屋にあるものを全て処分してしまえばよほどのことが無い限り同じ物を作ることはできない。
「最後まで面倒を押しつけてしまうけれど頼むわ。自分の尻拭いも人任せなんて……やはり私は跡継ぎの器ではなかったということね。人の顔色を窺って媚びて生きてきた私が勝てるはずがないのは当たり前だわ……」
「それは違います。姉上は負けてなんていません。俺は貴女に勝ったと思ったことは一度もありません」
「あら、勝者の余裕かしら? ……まあいいわ。どのみち処刑されるのだから、ここで話していても時間の無駄でしょう。早く城の地下牢に案内してちょうだい」
まだ何か言いたそうなクロードを無視して私は彼から視線を外した。
弱音という名の本音を口走ってしまったことを後悔したのもあるし、別に和解して普通の姉弟のような関係になりたいわけでもない。
だから、最後まで嫌な女で毅然とした姿を彼に見せたいという単純な意地。
それにそういう姿を見せた方が、私が死んだときに残された人達の気も少しは晴れるだろうから。
同情されるような余地を残しておくべきではない。私にできることなんてもうこれしかないのだから。
ああ、でもその前にやることがあった。
「クロード。貴方は屋敷に残って後始末なさい」
「……それは」
「今更逃げようなんて欠片も思っていないし、そもそも逃げたところでどこぞの貴族が雇った暗殺者に殺されるだけだわ。覚悟ならもうしているし、処刑までの期間が短いことを願うだけよ」
だから、すぐに隠し部屋の中の物を処分して欲しいと含ませる。
意図は正しく伝わったのか、クロードは悔しそうな表情を浮かべながらゆっくりと頷いた。
お父様が屋敷にいない以上、私とクロードまで留守にしたら確実にその隙にヘリング侯爵の手が屋敷に延びる。
証拠を消されては困るのだ。
「では行きましょうか。暴れないからそろそろ力を緩めてもらえるかしら?」
押さえつけられていた力は緩められたものの、近寄ってきたもう一人の騎士とともに両脇をしっかりと固定されてしまう。
当たり前だが皇族を毒殺した女の言うことなど素直に聞くことはできないらしい。
最後にチラリとクロードを見ると、彼はただ無表情で私を見つめていた。
心の中で『後は頼んだわよ』と呟いて私は玄関を出る。
玄関から外に出ると、すでに皇室の馬車が待機していた。
待っていた騎士の一人が馬車の扉を開けてくれる。
罪人とはいえ貴族令嬢だからか、最低限の礼儀は守ってくれるらしい。
先に別の騎士が乗り込み、次いで私に乗れと背中を押される。
言われなくても大人しく乗るのに……とため息を吐きながら私は乗り込もうと手を差し出した瞬間、背中にドンッという衝撃を受けた。
「……え?」
すぐに胸の辺りを猛烈な痛みが襲う。
何が起こったのか理解できないまま、全身が何かにぶつかった。
目の前に地面が見えたので、ああ……倒れたのか……と理解した頃には、もう私の意識は途切れて視界は真っ暗になっていた。
こうして私はアリアドネ・ベルネットとして二十年の短い生を終えた、はずだった。