9.夢だと歩いていた(蛍朱視点)
目の前は真っ暗だった。目を開けた先に居たのは血塗れの誰かたちと、血塗れの私。
……誰か?
違う。鉄臭い臭いと共に鼻に漂ってきた匂い。母がつけていた甘い香水の匂い、父の好きな酒の匂い、姉が育てていた花の匂い、伯父さんの飼っていた鳥の匂い、お婆ちゃんのよく食べていた飴の匂い。
気付いた。皆私に優しくしてくれた大切な人が、血塗れになって目の前に転がってる。その血溜まりの先に、私が、居た。
視界がゆらゆら揺れていた。冷えた涙が頬を伝って落ちていく。何、何で血塗れなの。すでに死んでるって、確かめたわけでもないのに、頭の中では目の前に転がる大切な人たちが、もう動かないことを理解していた。
「なに、が、起きたの……?」
「殺したんだよ、お前が」
頭の後ろから、声が聞こえた。振り返る前に、その声の主は私の前にふわりと降り立つ。
私。
だった。
血に濡れて冷たく震えている私の手の前に、私が屈んだ。
「お前が殺したんだよ。ナァ?」
目の前に居る私は、にんまりと口の端を裂いたような笑顔を浮かべている。その私も、よく見れば同じく血に濡れていた。
「ち、がう、私は、何も」
「何も? してないってェ言うのか? 覚えてねぇの?」
上手く息が吸えない。上手く空気が喉を通らない。冷えて冷たくなった涙が、肌を凍らせるみたいに頬に貼り付いている。
「なにも、覚えてないもの」
そうだ。何も、覚えていない。何、も?
何も?
私は、誰だっけ。
何でこの人たちが大切な人だと分かるのに、何で私は私の名前を、知らない?
ここは、どこだっけ。家? 誰、の?
「あ〜ららァ、可哀想なケイスちゃん。優しい私が教えてやるよォ。いいかァ?」
目の前の私が人差し指を立て、私の額に当てた。
「お前の名前はヤツイケイス。そして私はお前、お前は私。同じヤツイケイスだ」
「や、つい」
「そんで、この惨状は私がやった」
けらけらと、やけに楽しそうに笑う私。
「でも私はお前。つーことは、お前がやったのと同じ」
意味が分からない。何を言っているの。でも、私がやったのなら、私が、やった、ことになるの?
……分からない。
何か深く考えようとしても、頭のそこらじゅうに穴が空いてるみたいに、すっと消えていってしまって。
分からない。
「まぁ世で言うドッ…………あれだ、二重人格? ってぇの? あれと同じ。お前が居なきゃ私は作られなかったし、私を作らなければここに転がってるみーんな死なずに済んだ。言っとくが、お前が殺せって言ったんだからな」
くるくると宙に渦を巻いていた指先を、私へと向ける。その言葉に、酷く動揺したのが分かった。違う、そんなことしてない。その言葉を否定しようと、焦ったように言葉を吐いた。
「わ、私は殺せなんて言ってない」
「言った」
「死んでほしいなんて思わない……!」
「心の奥底で思ってた」
「皆大好きだったはず……!!」
「んでもって大嫌いだった」
「こんな、こんなこと望んでな───」
「あのなあッ!!!」
バンッ!! と、目の前の私が強く真っ黒な床を叩いた。その音に、気迫に、押し黙る私の服の襟を掴んで引っ張る。
「うだうだうだうだ言ってんじゃねぇよ!! 食事中だろうが何だろうがずっと甘ったるい香水つけてた母親! 酔うとすぐ暴言吐きまくる父親! 草ばっかで少しも構ってくれなかった姉! 自分の鳥がお前に怪我させたって一言も謝ったことのない伯父も、お前の名前も呼んでくれないあの婆ちゃんだって本当は失せろって思ってただろうがッ!」
脳まで響くような大声でそう言った。
…………そう、だったっけ。
どこか他人事みたいに考える私がいた。
耳の近くで叫ばれる言葉に、声に、尚更思考なんてものが出来なくて。何も覚えていない私にとってその言葉は、全部全部嘘だなんて言えなくて。本当のことかもしれないと、思い始めてる自分がいて。何も覚えていない自分、血の匂い、動かない誰かたち、もう一人の私、責め立てる声。正常な思考を鈍らせるには十分で。
「…………まぁいいや」
何も考えられなくなってしまった私を、どうでもよくなったと言うように突き飛ばした。べちゃ、という水音と共に背中を床にぶつける。血が服に染みて貼り付いた。
「殺す」
「…………え?」
混乱し、定まらなかった思考が、全て真っ白になったのが分かった。
「誰、を」
「お前の他に残ってる親戚、友達、クラスメイト、近所の人、お前の親しかった奴全員と……」
震えて細くなった声で問う私の顔に、ぐっと同じ顔が寄せられる。口の端の吊り上げられた笑みと、大きく開いたその目を、今でもよく覚えている。
「お、前」
ーーー
「ねぇ、お嬢さん。こんなところで何してるの?」
暗い。夜だろうか。真っ白な思考とよく分からない疲労感。
顔を上げた、その先。三人、誰か居るのが分かった。警察官みたいな服を着ている。
「っ!」
来るな、寄るな。捕まったら殺される。
「あっ、ちょっと!」
いつの間にか片手に握られていた鎌を、しっかりと握り締めて背中を向けて走り出す。もう、これで殺したくない…………殺したく、ない?
「君! 待って!」
「嫌!!」
次々と手が伸ばされ、腕を、肩を、背中を押さえつけてくる。やめて、やめて。来ないで。殺される。
「おい、どうするよこの子」
「知らんよ!」
「嫌ッ! 離して! 私は何もやってない!」
「と、とりあえず縋さんに連絡を───」
……あれ、何
してるん だっけ。
ーーー
あれ、何してるんだっけ。
ここ、どこだっけ。
暗い。
狭い。
どこだっけ、ここ。知らない、けど。ここに居たら、逃げられないな。簡単に、殺されそう。それは、嫌。嫌? なんだっけ。
ーーー
暗い、けど、街の明かりがあるから、そこまで暗いとは感じなかった。どこかのビルの屋上から周囲を眺めていた。今日の夜風は冷たい。今日、の……? いつから、ここに居るんだっけ。あぁ、考えてる時間無い。私に殺される。私が殺しに来るから。早くしないと。私も、殺さ……
「───はい、分かりました」
……人の声。その声の元へとふらふらと歩き、ビルの屋上の縁へ足を掛ける。
「見掛けたら追い───」
カタン
暗い暗い路地裏の道。居た、誰か。反射的にビルから飛び降りる。ふわりと地に降り立ち、相手を見据えた。
ガンッ!
相手が動く前に、私は鎌の柄の部分で、目の前の相手の手を打った。連絡手段を持ってられると、困る。捕まる前に捕まえなきゃ。逃げ出す背中を追い掛けた。
捕まえないと。
早く。
夜道よりも暗く、狭い路地裏を駆ける。普段動かない空気が風となって頬にぶつかる。夜の闇で視界がほぼ真っ黒に塗り潰されているというのに、背中を向けて逃げ続ける相手の姿はよく見えた。ここの路地裏の、次の曲がり角は右、左、右、右。左に追い込んで次も左に。捕まえなきゃ。でも、あれ、私は逃げていたんじゃなかったの。誰から? 私、から……?
逃げるんだっけ、捕まえるんだっけ。殺す、んだっけ。
少しぼーっとしていた。追い込んだと思っていた、相手が上に逃げた。
上に逃げた相手を必死に追い掛けた。まずい。予想外のことに焦り、思考が麻痺していく。早く、早く捕まえて言わなきゃ。このままじゃ、何もしないまんまで殺される……!
「にゃーお」
ガンッ!
相手が作り出した剣と、私の鎌が勢いよくぶつかる音。反撃、してきた。どうしよう、どうしよう。そんなことを考えていた、
「フラッシュ」
瞬間、暗闇だった目の前が真っ白に染まった。眼球に走る痛みに、思わず腕で目を塞いだ。目が痛い。そんなことを考えている暇もなく……体当りをされ、後ろに大きく転んだ。
「……捕、まえ……た」
転んだ痛み、目の痛み。それは、ずっと混濁としていた真っ白な思考の中に沈み込んで消えていく。ぼんやりと見上げた空が、綺麗だなって呑気に思った。そして、
「っ!!」
思い出した。
「助けてください……!」
強引に起き上がり、私を抱きしめるようにして捕まえる目の前の人を押し倒した。私の意識が明確に戻る感覚。その意識が絞り出した言葉がそれだった。そうだ、今、今! 誰かに助けてって言わなきゃ。
「私は、何もしてないの……ッ」
もう、一人で逃げ続けるのは限界だった。知らない私に殺される、その前に、誰かに助けを求めなきゃってずっとずっと考えていた。目の前の誰かに助けを求めた。そして、思い出した。
『私はお前、お前は私』
「私は、何もしてないんです……誰も、殺し、て…………?」
『殺したんだよ』
本当に、私は、何もしてないの?
「捕まえたぞケイス!」
ーーー
暗闇。最初からずっと真っ黒。何も見えない。暗闇から何か聞こえても、それすら闇に溶けて無くなる。私が何なのか分からないままずっとずっと。なら、いっそ、自分の手足すら、体すら、このまま闇に溶けていってしまえばいいと思った。何も覚えてない私が、暗闇に溶けたって、何も残らないだろうから。眠って、消してしまおう。
「もう一人のケイスが、待っ、てるって」
闇の中から声が聞こえた。
…………もう一人の、ケイス? もう一人の、私、そう、だ。私、が、
「殺、さなきゃ」
湯が沸騰するみたいに、また私の感情が沸いてきて頭が熱くなってきて。まるでバネを弾いたように、考えるよりも先に体が動いた。目の前の、誰。に、掴みかかる。
「私が!! 殺さなきゃ、私が、殺される!!」
そうだそうだ早く早く、早く見つけて殺さなきゃ早く見つけないと殺される殺さなきゃ殺さなきゃでももう何で殺さなきゃいけないと思ったんだっけそうだ思い出した殺されるからだ殺さなきゃ殺さなきゃ殺らなきゃ私が死ぬんだあれでも何で生きなきゃいけないんだっけねぇ何で私こんなに必死に殺されるって殺さなきゃって何で殺さなきゃ皆を殺した私を早くしないとねぇねぇ私───
耳も目も正常に働いていないと、頭のどこかで理解していた。聞こえる音はノイズが混じっていて、何か言ってるのが見えても音は耳に届かなくて。自分の視界は暗くて、ぼんやりしてて、目の前にいるのが誰かなのか、私なのかも分からなくて。本当に溶けてしまえばいいと思った。このまま壊れてしまえばいいと思った。
でも、本当は、助けてほしかった。
そう、思った瞬間だった。
「私が殺させないからッ!!」
───頭に渦巻いていた霧が、さっと晴れるような感覚がした。目を隠していた暗闇も、耳を塞いでいた靄も、一斉に消え去るような。まるで、今までが夢だったような、そんな感覚だった。
目の前に、警察官みたいな服を着た、誰かがいた。薄茶色の短い髪と、濃いピンク色の目。その頭には、人間の耳以外に、ピンと立った三角の獣の耳があった。
「私が、殺させないから」
「…………私、が……?」
吸い込まれるような綺麗な目。真っ直ぐ私の目を貫くようなその目に、ゆっくりと体から力が抜けていく。
「大丈夫、だよ。落ち着いて」
女の子、にしては、少し低い声。ちょっと癖のある喋り方。その子が、私の腕を掴んだ。その手は、あぁ少女だなって、分かる手だったけど、爪の先が湾曲していて、鉤爪みたいになっていて。あぁ、でも、少し震えたあったかい手。
「あのね、聞いて」
もう眠くないみたいに、よく聞こえる、鮮明に聞こえる。顔を上げて、再びその子の顔を見た。
なぁ、に。
「もう一人のケイスを、探そうと思う……の。だから、ケイスに手伝ってほしい」
ケイス、ケイス……蛍、朱、蛍朱。私の名前。沈みかけていた記憶の中から思い出した、私である証。
「私はここの看守だから、囚人の……うぅん、蛍朱のことは、守るから」
守る? 守る、何を……?
「それ、に、蛍朱はこんなとこに居るべきじゃ、ないんだ」
ここ……そうだ、ここは、どこなんだろう。ここ以外に、私が居るべき所が、あるの?
ここ以外って、何だろう。どこに行くんだろう。私は何をすればいいんだろう。
その子が、小さく息を吸った。どこか緊張したような声だった。
「外に出よう、蛍朱」
そ、と。ここじゃない、場所に? もう暗い所じゃない場所に? あなたが、守ってくれるの……?
……出たい。外に。暗闇は、怖い。
その子が差し出した手が、唯一の光に見えた。救い出してくれると、そう思った。夢から起きたばかりの私を、どうか。引いて。連れてって。
伸ばした手を、その子の手のひらに重ねた。
ーーー
「蛍朱、これ着けて」
目の前に居たのは、暗闇の中で見たあの子だった。服は、夜の闇に紛れるような青色のパーカーで、フードには猫耳みたいなものがついている。その子に、青色の宝石のついたネックレスを渡された。何でこれを着けなきゃいけないのか、よく分からなかったけど、拒否する必要もないと思って自分の首にネックレスを掛けた。私の記憶の中で、初めて誰かから貰った物だった。伸ばされた手に、私も同じようにして手を伸ばして握った。冷たく言葉を放つ、あのピンクの髪の人にも、もしかしたら沢山迷惑かけたのかもしれないと思うと、今更ながら申し訳ないと思った。けど、それと同時に、あんまり、あの人は信用できないなとも思った。
暗闇の外は、私が今までに見たことのないような景色が広がっていた。樹木で作られた鳥籠、氷柱のついた行灯、空さえ透かす水草の水槽。現実とは思えないような景色。どれも珍しくて、楽しくて。外の空気はこんなにも透き通っているのかと、光はこんなに色がついているのかと。でも一番は、自分の手を引いてくれる人が隣に居るのが、本当は一番嬉しかった。
広場みたいな場所に来た。久し振りに見た気のする大空は綺麗だった。
「ぁー……犬猫、です……よろしく」
けんびょう。不思議な名前。
「蛍朱です」
一瞬ポカンとした犬猫。が、優しくよろしくねと返してくれた。
ーーー
「おや? おやおやぁ? 我々の知らない方ですねぇ」
青い紳士服のような服を着た二人組が、犬猫に話しかける。
「お初にお目にかかります。私、道化師のアモと申します。こっちは」
「ネネで御座います。どうぞお見知りおきを、お嬢さん」
まるで、映画の中でしか見たことのないような振る舞い方をする二人に戸惑い、犬猫を見上げるも、犬猫もあまりこういう対応に慣れていないようだった。迷った末、
「……よろしくお願い、します」
と、だけ呟いた。優しげな口調、紳士的な所作。きちんとした服装に人懐こい笑み。どこを見ても完璧な二人に見えた。けれど。信用できないなと思った。犬猫の方を見る。
「……あの、もう一つ聞いても、いいですか……?」
「ん? なに……?」
振り返る犬猫。
「何で、助けてくれるんですか……?」
「……興味持ったからだよ」
目を逸して言った言葉。あぁ、嘘だなと思った。引いてくれる犬猫の手を、握り返す。
一緒に歩いた場所は、どこも画面の向こう側でしか見たことないような景色で、秋晴れのように澄んだ空も、頬を撫でた柔らかな風や心地よい人の喧騒も、私の暗闇を照らしてくれるようで。食べた団子も、本当に美味しかった。犬猫を振り返って手を握った時、拒絶されなかったことが嬉しかった。今まで、私の隣には誰も居なかったから。それでも、夕方。私を置いて帰ると言った犬猫が去る時は、少し寂しかったし、何より信用してない二人と一緒なのが嫌だった。でも行く場所がない。また明日会える、たった一晩、また暗闇に戻るだけ。そう自分に言い聞かせた。
ーーー
夜の闇。
月の光で目が覚めた。先程まで一緒にいた二人の姿はどこにも無く、古い家屋に居るのは私一人だけだった。
月の光が、私だけを照らしている。酷く異様な空気。
布団を退けて、窓の縁に手を当てて月を見つめ返した。
暗闇。
また、暗闇。
『お前が殺したんだよ』
『お前の親しかった奴全員と』
『お前』
…………あぁ、あ、逃げ、なきゃ。
靴を履き、近くに置いてあった鎌を握りしめる。
殺される前に。
ゆっくりと立ち上がり、そのままふらふらと玄関から外へと出た。外は暗かった。
私が。
「殺 さな きゃ 」
暗闇。また同じ暗闇。光なんて、一瞬で消える深い闇。ずっとずっと頭の中にあった。殺さなきゃっていう、焦燥感が。ずっと、ずっと。
行かなきゃ。
殺さなきゃ。
ーーー
「蛍朱ッ!! 無事……っ!?」
目の前に、私がいた。
あぁ、殺さなきゃ。
鎌に手をかけた。
視界が赤に染まった。
久し振りに、人を裂いた感触がした。
……………………あ、れ?