7 天界《師匠》
誰かの手が頭に触れる感触で目が覚めた。
目を開けるがぼんやりとしてよく見えない。
意識もはっきりとせずにそのまままどろんでいると、さっきまで頭に触れていた手は今度は頬を優しく撫でた。
(……し、しょう)
声は出なかったが、変わりに涙がこぼれた。
目に見えなくても、これが師匠の手であることはなんとなくわかった。
ただ、いつもは温かい師匠の手が、今は心まで冷えるほど冷たい。いつもの明るい師匠らしくない手。
そしてそうさせてしまったのは他でもない俺だ。そんな自分が情けなく、悔しかった。
生きていた喜びや剣鬼に対する怒りなど頭にない。そんなことがどうでもよく感じるほどに、師匠に対して申し訳なく思った。
月の光しかない薄暗い部屋に、噛みしめるように泣く音だけが響いた。
部屋にランタンの火が灯る。
泣いて落ち着きを取り戻した俺は、改めて辺りを見渡した。物が少なく殺風景だが、ここは師匠の部屋だ。
「あきらめなかったのね。よく頑張ったわ。バランがね、連れてきてくれたのよ」
それから師匠はどんな状況だったかを教えてくれた。
師匠の家に俺を背中に乗せたバランがやってきたらしい。傷口からの血は止まっていたが、浅い息の合間に血を吐き、いつ心臓が止まってもおかしくない状況だったとも言われた。
今は師匠の治療で落ち着いているが、数日間は安静にしておかなければならないとも言われた。やはり今までの修行で負った傷とは比べ物にならないほどの致命傷だったようだ。
ベッドから見える窓の外では、バランが心配そうにこちらを見つめている。一緒に稽古に行ったわけじゃないのに駆けつけてきてくれたのか。
「不思議でしょ? きっとバランにはアルの死の気配がわかったのよ。神獣は地脈とは違う特別な気の流れを持っているから、他者の魂を感じとれたのかもしれないわ」
バランとはまだ浅い付き合いだし、餌をあげているとはいえ神獣は遥か格上の存在だ。
本来は俺が死ぬことなど気にも留めないだろう。
だが師匠とバランはまるで友達のように親しかった。だからバランは俺を助けてくれたのかもしれない。きっと俺が死ねば師匠が悲しむと思ったのだろう。
その心に、バランに対して親近感が湧いた。
窓の外にいるバランの目を見て少しだけ首を縦に振った。
『ありがとう』と『もう大丈夫』の意味を込めて。
バランも『わかった』と言わんばかりに目をつむり、ゆっくりと窓から離れていく。
言葉は発していないが、確かにお互いの思いは伝わった。
バランを見送ったあと、横になったまま師匠を見上げる。
明るい部屋で見た師匠の目は薄っすらと赤くなっていた。それを見ただけで心配をかけてしまった事がわかる。
「師匠、すみません、でした」
俺の声は自分が思っているよりも小さかった。ちゃんと謝らなければならないのに、なぜこうなったか自分でわかっていないからだ。
「なにがあったか、話せる?」
師匠に促されて今日の出来事を話した。
最初はいつも通り稽古をしていた事。
剣鬼の剣筋が相変わらず見えなかった事。
最近覚え始めた気配を読みとる方法を試す為に距離をとった事。
そして、自分で話すうちに気がついた。
「俺は、剣鬼を侮ってしまったんですね? 剣鬼の剣を恐れないなどと、そんな傲慢な考えであの場に立ってしまった。だから、剣鬼を怒らせた。悪いのは、こうなってしまったのは……俺のせいなんです」
五年間、剣鬼に稽古をつけてもらって、彼の剣の道に対する想いの強さを知っているはずだった。
なのに俺は、それを踏みにじった。
戦いで心を落ち着かせることは大事なことだ。それは師匠もよく言っている。無駄に恐怖を抱けば体が支配され、本来の動きができなくなると。
しかし戦いから恐れを取り除くなど、余程の実力差がなければしてはならない。まして相手は武器を持っているのだ。
だから、格下の者に武器を持ちながら侮られた剣鬼が現実を見せつけてきたのは当然のことだ。
その場で息の根を止められなかっただけマシだったのかもしれない。
「間違いに気づいたならそれでいいのよ。失敗するのは悪いことじゃない。むしろ意識せずに正しいことをするくらいなら、失敗して心に刻む方がよっぽどいいわ。ただ、それを繰り返してはいけない。だから今日のことをしっかりと糧にしなさい」
師匠の言葉は優しかったが、そこには強い意志が込められていた。
俺は運良く助かったのだ。
もしかしたらやり直しなど出来ずに力尽きていたのかもしれない。
そのことを、決して忘れてはいけない。
俺の様子を見届けた師匠は布団を肩までかけ直し、ランタンの火を消した。
「もうひと眠りしなさい」
師匠は俺の頭に手を添える。
その手はいつもの温かい手だった。
俺はその温かさに深い安堵を感じる。
「師匠」
「なに?」
「いつも……ありがとう、ございます」
師匠には普段から散々振り回されている。だからなにかあれば反論ばかりしている俺は、こんな時でないと素直にお礼も言えないと思った。
「ふふ。でもね、お礼を言うのはこっちよ。いつもありがとうね」
はたして俺は師匠にお礼を言われるようなことをしたのだろうか。
俺にはわからない。
だがそれ以上の思考は許されず、俺の意識は深い眠りについた。
◇◇◇◇
「どうしてあそこまでやったの?」
月が照らす夜空の下、鞘から抜かれた二人の剣が対象的に光っている。
男の手にある剣は細い刀身を鈍く光らせ、女の持つ短剣は澄んだ輝きを反射させていた。
「あれに期待するだけ無駄だ。お前が珍しく弟子をとったから手伝いはしたが、やはり才能がない」
男は悪気もなく答える。
その声は弟子を思いやるものではなく、すでにアルに対して興味がなさそうだった。おそらく生きていようと死んでいようとどちらでもよかったのだ。
彼にとって才能なき者など価値のない石と同じなのだろう。
「違う。才能なんて出発地点が特別なだけで、強さにとって必ず必要なものじゃない。そんなものよりもっと大事なものをあの子はもっている」
「それが努力か? 笑わせるな。努力が報われる前に大抵の者は死ぬ。そして実際にあいつは死にかけた。なのになぜお前はそれを指摘しなかった」
男と女の意見は対立し、空気はさらに重々しいものになる。
「間違いを指摘するのは簡単よ。でも間違いに自分で気づかせてあげることはもっと大事。あんたは自分の意思を通すばかりで、弟子の声をちゃんと聞いたの?」
「俺に弟子入りしたのなら俺に従うのが道理だ。才能だけでなく、精神も未熟だったようだな」
男は女の反論など意に返さない。
「だからこの前も、弟子を捨てたの? 導いてあげることもせず」
「強さとは己を磨くものだ。決して誰かの為に奮うものではない。それを復讐などとつまらぬことに現をぬかすようなやつに用はない」
男は己の強さと道は絶対のものだと確信している。女も男との付き合いは長い。その考えも信念も知っている。
だが、それでも認められないこともある。
「じゃあ、あんたはなんの為にここにいるの。導くためでしょ。もう一度聞く。なぜ、アルを斬った?」
アマラは鋭い視線を剣鬼に向けた。
その身からは普段の様子からは想像できないほどの重い殺気が溢れている。
剣鬼にとって他者からこれ程の殺気を向けられることは久しかった。
長い戦いの末、残された今は退屈なものだった。弟子をとっても自分を満足させる程までは成長しない。
だが今は己が危機を感じるほどの殺気を向けられている。指先は殺気に反応するようにひくつき、重圧が肩に重くのしかかる。
(なんとも懐かしい感覚だ)
剣鬼は戦いの場においてらしくないことを考えた。そして殺気を放つアマラを見て、思わず本音を口にしてしまう。
「殺しておけば、もっと面白いことになったな」
その瞬間アマラは神速の踏み込みで斬りかかった。オーラは纏っていないのに、音を置き去りにするほど速い。
しかし剣鬼はそれを笑いながら剣で受け止める。
両者の剣が交わった瞬間、轟音と共に衝撃が天界を襲った。
それは天界において久方ぶりとなる戦争の幕開けだった。
◇◇◇◇
轟音と部屋が揺れる衝撃で俺は慌てて目を覚ました。雷が落ちたとかそんな程度ではない。しかもその轟音と衝撃は、幾度と続いている。
(師匠がいない)
さっきまで師匠が座っていた場所はもちろん家の中に人の気配がない。
あたりを見渡すが部屋はまだ薄暗く、夜は明けていないようだ。
痛む傷口を抑えながらベッドから出る。状況もわからずにこのままここで寝ているわけにはいかない。体はまだ痛むが、師匠のおかげでなんとか歩くことだけはできそうだ。
自分がいつも身に着けている服は見当たらず、変わりに部屋着を着せられている。本当は身を護る武器を持ちたいがそれも見当たらない。
俺は壁に手をつきながら、そのままゆっくりと部屋を出た。
玄関の扉を開けると目の前にはバランが立ちはだかっている。
その瞳には強い意思が感じられた。
(そうか。師匠は剣鬼のとこに行ったのか)
バランは何も言わない。
だが師匠から俺を護るように言われているのだろう。
バランは動かないが家に入れと無言で威圧をかけてくる。
普段の俺なら迫力に負けて大人しく従ったかもしれない。
でも師匠がそこにいるのならば行かなければならない。
俺は痛みを堪えてゆっくりとバランに歩み寄つた。
「バラン。昼間は俺を助けてくれてありがとう。だから、師匠のところに行くのは君の助けを無駄にしてしまうことかもしれない。だけど、俺は師匠のもとに行かなければならない。あの人が戦うなら、俺はその姿を……その意味を学ばなければならない」
俺が目を覚ました時、いつも温かかった師匠の手はとても冷たくなっていた。
師匠はあの時、何を思ったのだろうか?
手が冷たかったのは俺の怪我を心配したからだろうか?
わからない。
わからないがそれは意味のあることに感じた。
そしてその意味はここにいてもわからない。だから、行かなければならない。
「バラン。俺は行くよ。だって俺は、アマラの弟子なのだから。だから尊敬する師匠のもとに行かせてくれ」
俺の訴えにバランは瞳を閉じてしばらく何かを考えたあと、背中に乗るように促した。