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恋が、はじまらない。

恋が、はじまらない。

作者: あさな

 美しいと思った。


 フィリップス公爵家のラドルフ様は蜂蜜のような蕩ける金色の目が印象的な、それはそれは美しい容姿をしていた。

 はじめて会ったのは、彼が七歳、私が五歳のとき。

 私は母の体調がすぐれないので養生のため王都を離れて領地でのんびりと過ごしていた。

 母はフィリップス公爵夫人と学生の頃から親しくしていて、お見舞いを兼ねてこちらに避暑に来たいという申し出があり、ラドルフ様も一緒に来訪されたのがきっかけだ。

 その当時、私はあまりにも素直で率直で愚かな子どもだったので、彼に見惚れて、そして、その後を付いて回った。綺麗なものが好きだった。たった、それだけの理由で。

 私はそれから毎日彼を見つけると付き纏った。

 楽しくて、嬉しくて、うきうきしていた。

 だけど、ラドルフ様にとって私の存在は鬱陶しいものだった。

 それでもしばらくは我慢してくれていたらしい。その気遣いに私はまったく気づくことなく、やがて彼の我慢は限界を超え、烈火のごとく怒りをぶつけられた。

 その姿は、怖いとか恐ろしいというよりも可哀想だった。目に涙をいっぱいためて、いい加減にしろと怒鳴りつけられているのに、全部私のせいなのに、私は彼が可哀想に思えた。


「ごめんなさい」


 謝って許されるものでもないだろうけれど、悪気や悪意はなかった。ただ、無神経で、自分の気持ちだけで突っ走ってしまっていた。他人との距離の取り方を知らず、鬱陶しがられているとか考えることもなく、舞い上がって引っ付いていった。それがこんなにも彼を傷つけていたなんて夢にも思わなかった。

 その時を最後に私は付き纏いをやめた。

 翌日、彼が王都に戻る日まで、なるべく彼の前に姿を見せないようにもした。それが私にできるせめてもの償いだった。



 ◇



 も、もうやめてよー!!


 叫びたい。本当に、叫びだしたい。

 胸が痛い。辛い。


 私は十五歳になっていた。

 十五歳になると国が指定した教育施設に通う必要がある。その中でも王都にあるルーブル学院は有力貴族が通う名門として有名だ。私は領地の近くにあるところへ通うつもりだったが、母の体調はすっかりよくなったし、これでも一応は侯爵家の娘なので、王都に戻りルーブルで将来のための人脈づくりをしなさいと命じられた。

 王都での暮らしは順調だった。

 母と一緒にお茶会を開いたり、また招かれたりして、年の近い令嬢たちとも知り合っていろいろと教えてもらえ、大いに助けられた。学院生活も勉強は少し大変だけれど楽しい。領地での長閑な暮らしもよかったが、やることがたくさんあり忙しくしていると充実感がある。一日が終わり、よーし今日も頑張った! と眠りにつくと生きているという実感が湧いた。

 このまま、順調に恙なく毎日を過ごすのだろうと思っていた。


 ところが、学院がはじまり、半年と少し経過した頃、一人の令嬢が編入してきたことで私の日々は一変する。


 ルビア・クラッセル男爵令嬢。クラッセル男爵の隠し子で、長らく市井で暮らしていたが、去年に正妻が病死し、彼女の母と一緒に男爵家の籍に入ったという。

 このルビア様が……なんというかすごい。

 見目麗しく高貴な身分の男性に対し相手に婚約者がいようがお構いなしでアピールをしまくる。令嬢としてどうなのだ? と顰蹙を買ってもなんのその、猪突猛進である。

 

 その様が、かつての、私に、重なって見えて、死ぬ。


 いやいや、あのとき、私はまだ幼かった。それに私はラドルフ様にしかしなかった。――と、言い訳を並べてみても心が叫んでしまう。自分が一番葬りたい記憶を再現されているようで、ひぃぃぃっと頭を抱えてしまう。

 しかも、何の因果か、私は彼女と同じクラスなので嫌でもその言動を毎日見なければならない。

 

 おお、神よ。

 これは罰なのでしょうか。

 きっと、罰なのでしょう。


 えへへへへ。もう、消えてしまいたい。

 

 しかし、そのような私の胸中などルビア様は知るよしもなく、否、知っていたとしても邁進するのだろう。

 今日も今日とて、放課後、鞄を置いたまま、どこへ向かうのか。

 昨日は鍛錬場で騎士団長子息の応援、その前は乗馬クラブで宰相子息に馬術を教えてほしいとお願いしていたと聞いた。言い寄られている彼らは、あまりの強引さに押され気味だというからルビア様の態度が改まることはない。誰かは絆されるのではないかなんて話まである。

 いやはやすごい。

 すごいが、関わりたくはない。

 ないけれど、そういうわけにもいかない。


「リリーのクラスにとても愉快なご令嬢がいるようね。どのような方なのかしら?」


 そう言って私をお茶会に誘ってきたのはエリザベス・パトリシア公爵令嬢だ。

 一つ年上の彼女は第一王子のユーリ殿下と婚約している。彼女の友人には先に出た宰相子息や騎士団長子息の婚約者の令嬢がいるので、相談を受けているのだろう。敵を知るにはまずは情報収集が大事だ。そこで、ルビア嬢のクラスメイトの私に白羽の矢が立ったと。

 パトリシア公爵夫人と母も旧友で、私がこちらに戻ってからはじめて招かれたお茶会でエリザベス様を紹介していただき、以降何かと目をかけてくださっている。だから、私でお役に立てるなら協力したい気持ちはあるが……ルビア嬢に関しては気が重い。気が重いが断ることもできず、お茶会の招待を受けた。

 

 学院内にはいくつものお茶会用の場所がある。社交の練習にと用意されているのだ。その一つで、一番人気の薔薇園のテラスに足を運ぶ。

 

 挨拶を交わし、薔薇の絵柄のカップに注がれた紅茶とスコーン、それから私が手土産に持参したクッキーがテーブルに並ぶ。エリザベス様が紅茶とスコーンをひと口召し上がって、私も持参したクッキーを食べる。毒見だ。未だにお茶会ではこうして毒見をしあうのがマナーとされる。


「それでね、例の令嬢について、リリーはどう思っているのかしら? クラスメイトとして意見を聞きたいと思って」


 単刀直入だった。

 貴族の中にはまわりくどい言い方をする方も多くいるし、そうすることで自分を守ることにもつながる。エリザベス様は公爵家の令嬢だし王族の婚約者だからそのような振る舞いは当然にできるだろうに、このように話を振ってくださるというのは、私を気楽な間柄と認識してくれているからである。母親同士が親しいからといって、子供同士も親しくなれるとは限らないのに、私を可愛がってくださっていることを改めて感じる。


「長く市井で暮らしていたと聞いていますので、貴族社会に馴染まない部分もあるのだと思いますけれど……少し幼い印象を受けます」

「殿方に積極的のようですけれど」 

「殿方に興味があるという意味では年相応なのかもしれませんが、彼女の言動は子どもが無邪気に好き勝手に気持ちを伝えているという風に思えます。そこに駆け引きのようなものは感じられません」

「そうね、確かにそのような見方をすればそうかもしれないわね。計算高さのようなものを感じられない。でも、それこそが計算なのかもしれないわ」


 あの行動が全部計算……あんな振る舞いを自覚しながらできるものなのだろうか?


「毒婦・サンドラ」


 エリザベス様はきっぱりとした口調でおっしゃった。

 毒婦・サンドラ……それはかつてこの国に混乱をもたらした女性の名前だ。


 我が国、ルトリアは来年で建国八百年を迎える。

 その間に大きな戦争が三度あった。

 うち一度は内乱。

 当時の皇太子は公爵令嬢と婚約関係にありながら別の女性を愛した。それがサンドラだ。彼女は皇太子だけではなく、その側近である宰相子息、騎士団長子息、大商人の息子という有力者の跡取りと次々に関係を結び、貢がせて贅の限りを尽くした。公爵令嬢は幾度も皇太子に苦言を呈したが聞き入れられることはなく、それどころか公爵令嬢の悪評を流し、婚約破棄を企て、公爵家までも潰そうとした。その傍若無人ぶりに公爵家は反旗を翻した。以降、三年に渡り王家と公爵家は戦争を続ける……。

 内乱は最終的に公爵家が勝つ。

 今の王家は公爵家の血である。元々公爵家も王家の血が入っているので王家は存続されていると見なす者と、このときルトリアは新王朝が立ったと見なす者で見解は割れるが、歴史の古さは対外的にも大事な要素なので前者の見方が公式見解とされている。

 それにしても、たった一人の女性のせいでそのような戦争になるなんて、ありえるのかしら? ……実際にあったからこうして歴史に刻まれているのだろうけれど、あまり信じられないというのが正直なところだ。


「ルビア様が、サンドラのようになると思っていらっしゃるのですか?」

「可能性があるなら、その芽は摘んでおくべきでしょう?」


 その通りではある。もし万が一、ルビア様がサンドラのように殿方を籠絡していけば被害は甚大だ。単なる恋愛事件ではすまない。何事にも真剣に対処していく――身分が高く、権力を有するということは、それだけ己を律する必要もあるのだ。その姿勢に私は感動を覚えた。

 

「だから、リリーも何かおかしいと思ったら小さなことでも知らせてくださると嬉しいわ」


 私はこくりと頷いた。


「それはそうと、リリーは近頃元気がないと聞きましたわ。わたくしも気になって……力になれることがあるならとお茶会に誘いましたのよ」


 本来の目的はこちらなのだとエリザベス様はおっしゃる。

 聞いた? 誰から? ……そういえば、三日ほど前に母がパトリシア公爵夫人とお茶会をしたと言っていた。屋敷では気が抜けて何度も溜息をついてしまい、それを母に見とがめられたりもしていた。それを母がパトリシア公爵夫人に話し、そこからエリザベス様に伝わり心配してくださったということか。


「わたくしには話せないことかしら?」


 言葉を返せないでいるとエリザベス様はにっこりと微笑まれた。その笑みには、わたくしがこうしてわざわざ聞いてさしあげているのだから答えてくれますわよね? という有無をいわせぬ迫力がある。ふんわりしていても、こういうところは公爵家のご令嬢という感じだ。


「いえ、話せないことではないですけれど……その、」


 言い淀んでしまうのは、エリザベス様がラドルフ様の従妹だから。

 ただでさえ知られたくない記憶を、ラドルフ様のことをよくご存じの血縁者の方に話すというのはなかなか難易度が高い。とはいえ、下手な誤魔化しは見破られるにちがいない。ある意味では、これは一つの機会なのかもしれない。

 私は告解をするような気持ちで、エリザベス様に心の内を打ち明けることにした。

 かつてラドルフ様に付き纏い、ついには怒らせてしまったこと。無邪気で愚かで好き勝手振る舞った頃のこと。そして、それを件のルビア様を見て思い出してしまい辛くなっていること。

 誰にも言ったことのなかった後悔を話しているうちに、胸に痛みが走り抜けた。もう何年も昔のことだけれど、私の中では消化しきれずに膿んでしまっているのだろう。


「まぁ、まぁ、まぁ、それではリリーはずっとラドルフ様に申し訳ないと思っていたの?」


 話し終えると、エリザベス様は何故か楽しそうにおっしゃった。

 嫌悪されなかったのは幸いだが、私としては真剣な懺悔だったのに……。


「あら、ごめんなさい。わたくし、てっきりリリーはラドルフ様を嫌っていると思っていたものだから」

「わたくしがですか?」

「ええ、ほら、あなたがここへ入学してきてすぐの頃、ラドルフ様も招いてお茶会をしましょうと提案したとき沈んだ顔をしたでしょう?」


 そういえば、そんなことがあった。

 ラドルフ様もルーブル学院に通っているが学年が違うので普通にしていれば接点を持つことはない。だから、私は安心していたがエリザベス様は何を思ったか――いや、これもまた公爵夫人経由で私とラドルフ様が面識があることを知り気を利かせて会わせようとしてくださったのだろう――ラドルフ様と三人でお茶会をしようと提案されたのだ。

 咄嗟のことで、私は取り繕うことができずに微妙な反応になってしまった。それを見たからだろうか、お茶会が実現することはなかったし、エリザベス様からラドルフ様の話が出てくることも二度となかった。


「だから嫌っているのだと思ったのよ。嫌われているから会いたくないというのが正しかったのね」

「はい……関わらない方がいいと思いました」

「そう」


 エリザベス様はティーカップを持ち上げて優雅に口をつけた。私もつられて飲む。薔薇の香りのする紅茶。ここが薔薇園だから合わせたのだろうか。


「……でもね、その男爵令嬢とリリーは違いますわよ」


 エリザベス様はゆったりとお茶を堪能したあとおっしゃった。


「そうでしょうか……嫌がられているのに気づかずに付き纏う。同じなのだと思います」

「違うわ。リリーはラドルフ様が意思表示されたらすぐにやめたではありませんか。相手の気持ちを察するというのは難しいもの。ましてその頃リリーは幼子だったのですもの。ラドルフ様のお気持ちを理解できなかったとしても責められるものではありません。大事なのは現実を知ったあとにどのような行動をとるかでしょう? 悪意も悪気もなかったことを責められたら辛いもの。だから、誤解だ、そんなつもりはなかった、と言い募る方もいらっしゃいます。それはときに必要なことですけれど、でも、リリーは気づいてお側に寄らなくなったのでしょう? 幼いながらに自分の気持ちよりラドルフ様の気持ちを優先した。とても立派なことだと思いますわ。だから、このことでいつまでも自分を責めるのはよくないわ」


 ラドルフ様の気持ちを優先した……あれはただ、他にどうして良いかわからずに距離を取るしかなかっただけだけれど、そんな風に言ってもらえるとは思っていなかった。私はそのことが嬉しかった。





 油断していた。


 エリザベス様と話した翌日の放課後、私は図書室を訪れた。

 毒婦サンドラについて、ざっくりとした知識しかなかったので、これを機に調べてみようと思ったのだ。

 平民から皇太子の寵愛を受けるまでになった彼女は戯曲の題材としては興味深いもので、歴史学とは別に物語としていくつもの書籍になっている。その中でも一番人気だと司書の先生に教えてもらった本を探す。


 目当ての本がある棚は、図書室の一番奥まったところにある。

 図書室の利用は試験前の自習室代わりが多く、中間試験が終わった今は人が少ない。静寂の中、年季の入った床を進むとコツコツと音が鳴る。


「稀代の悪女……これか」


 すんなりと見つけて、そのまま近くのテーブルに座り読み進める。


 サンドラはカッサーノ男爵が侍女をお手付きにして生まれた子だった。カッサーノ男爵夫人は怒り、侍女を首にしたが、その後、病死。それを機に侍女とサンドラは屋敷に呼び戻される。

 カッサーノ男爵にはドラコという息子が一人いた。

 ドラコは二人をまったく歓迎しなかったが、サンドラは持ち前の明るさと器量であっという間にドラコを籠絡する。ドラコはサンドラのはじめての相手である。


「う、ぇ? え? 半分は血のつながった兄妹だよね?」


 ここが図書室なのも忘れて思わず声が出た。

 貞操を許したことにもだが、それが近親者であるなんて道徳的にどうなのか……スキャンダラスにもほどがある。

 これは事実? それとも創作?

 創作だとしたらあまりにひどすぎない? サンドラは国家を脅かした悪女ではあるけれど、ここまで貶める必要はないのでは? カッサーノ男爵家にとっても名誉毀損だろう。いや、カッサーノ男爵家はとっくに取り潰されているのか……貴族系譜があったはず。調べてみよう。

 そう思って席を立とうとしたら、斜め前にいつの間にか人が座っていることに気づいた。

 

――え。


 今度は、かろうじて声を出さずにいられた。


 俯き加減で本を読むその人には、見覚えがあった。

 見覚えがあるというか、はっきり誰かわかった。生徒会役員だから、入学式やその他行事などで壇上にいるし、そうでなくても公爵家の子息で第一王子のユーリ殿下と一緒にいることが多く、目立つ存在だ。

 柔らかそうな薄い茶色の髪と、淡い蜂蜜色の目、すっと通った鼻筋に、黙っているのにどこか微笑んでいるような唇の形は彼のひんやりとした雰囲気を緩めている。

 ラドルフ・フィリップス公爵子息。

 私が、この世で最も会いたくない相手。


――なぜ?


 なぜもなにも、彼だってこの学院の学生なのだから図書室を使っていてもおかしくはない。

 そう、だから、これまで、いつ、どんな偶然があるかわからないと注意を払い、彼の気配(目立つので令嬢たちがざわつく)を感じたら一目散で逃げられるよう周囲に気を配っていた。放課後もなるべく早く屋敷に帰るようにもしていた。

 だけど、一年生と三年生は使っている校舎がそもそも離れているし、早々出会う状況にはならなかった。

 それほど気にすることもないのかな?

 入学して半年以上が立ち、そのような思いが膨らんできたところへ、エリザベス様と話をしたことで気持ちが楽になり、なんだかんだいっても学院内は広いし、この時期なら図書室の利用者はほとんどいないと聞いていたので大丈夫とやってきたのだ。


 なのに、まさか、その張本人がいつの間にか傍に座っているなんて!


 そんなことある?

 というか、ラドルフ様もどうして私と同じテーブルに座るの?

 ……ああ、そうか、私の顔など見ていないということか。そうだ。相席した相手の顔をじっくり見たりはしない。或いは顔を見ても私とわからないということもある。なにせ、私たちが出会ったのはずいぶん昔だ。あれから、私の容姿はそれなりに変わっている。わからなかったとしても不思議ではない。


 このまま、彼が本に集中しているうちに帰ろう。


 バレていない今なら、惨事にはならない。

 音を出さないよう荷物と本を手にして、こそこそと立ち去った。




 

 油断大敵、油断大敵。

 学校では気を抜くべからず。


 思いがけないラドルフ様とのニアミス(アレは完全に接触しているともいえる気がするがニアミスということにしておこう)以降、私は改めて対ラドルフ様への感度を上げるよう、人が通るような場所では常に気を張って過ごしていた。

 彼が卒業するまであと半年。それまで凌げればいい。

 これまで半年無事に過ごしてきたのだから、あと半年、慎重になればなんとかなるだろう。


 そう思っていたのにあれから何度となくラドルフ様を見かけるようになった。


 あるときは登下校時に、あるときは食堂で、あるときは移動教室へ向かう途中で……これまで出会わなかったのが嘘のような頻度で目撃する。

 見かけたら大慌てで回避しているので、おそらく気づかれてはいないと思うが、それでも心臓に悪い。じわじわと、私の心労は蓄積されていた。


 そして、今日もまた。

 

「ラドルフ様! 是非食べてください。ラドルフ様のために作ってきたんですよ!」


 昼休みの終り、中庭の側を通り過ぎようとしたら明るい声がして、思わず足を止めてしまった。

 

「遠慮なさらずどうぞ」


 ルビア様がラドルフ様にぐいぐいと小さな袋を押し付けている。

 クッキーとかカップケーキとか菓子類だろうとは想像がつく。

 一方のラドルフ様は両手を後ろに回して拒否の姿勢だ。


「申し訳ないが、頂く謂れがない」

「まぁ、照れていらっしゃるのね。……では、なおさら、こちらをお食べになってください。お近づきのしるしですよ。これでわたしたちは仲良しです。えへへ」


 おお、おおお、おおおお。

 

 私は動揺していた。

 動揺し、思い出したくない記憶が、蘇る。

 

「ラドルフ様。これはわたくしの気に入りのクッキーです。とてもおいしいから、ぜひ食べてください!!」


 幼い私は無遠慮に皿を差し出す。

 ラドルフ様は困惑した顔をしている。


 まんま、あのときの、再現ではないか。


 血の気が引いていく。

 眩暈と悪寒がして、私は倒れそうになっていた。

 いけない。逃げなければ。この場を去らなければ。このまま見続けたら、致命的な傷をまた負ってしまう。その前にここを去る。大丈夫、いつものように回避できる。

 そろそろと、引きずるようにして後退し、それからくるりと踵を返し走り去ろうとしたまさにその時だった。


――困っている彼を置いて逃げていいの?


 私を引き留める「良心」の声が頭に響いた。


 ()()()()()私を止めることはもうできないけれど、今目の前で行われていることをやめさせることはできる。少なくとも、見て見ぬふりをして、自分の心を守るより必要なことではないのか。あの件で嫌な思いをしたのは私ではなくラドルフ様なのだから、ここで再び困っているラドルフ様を見捨てることは、人として最低の行為ではないか。


 そのような思考が脳内を席巻した。


 罪は償われなければならない。

 これは贖罪の機会。

 いつまでも、逃げ続けていては何も変わらない。


 いや、でも、私に助けられるのはそれはそれで迷惑では?

 ラドルフ様にとって私と関りを持つことも忌憚すべきなのでは?


 二つの相反する意見が綱を引くみたいにせめぎ合う。

 

――わ、わたしは、

 

 ぎゅっと拳を握りしめると、思いのほか力が入った。

 指先が赤から白に変わり、身体中に血が巡っていって、ふわふわとしていた足元がしっかりと地に着いた。


「し、失礼いたします」


 気付けば、もう一度くるりと踵を返して二人の方に向かって声を上げていた。


 突然の闖入者に二人がこちらを見た。

 明らかに不審者を見る目のルビア様に思わず怯んでしまいそうになる。でも、ダメだ。ここは頑張って注意をしなければいけない。声を上げたからにはやりきらなければ。


「る、ルビア様。その、あなたは貴族社会のマナーをまだよくご存じないと伺っておりますが、食べ物を贈るというのは、よほどの信頼関係がなければ失礼にあたる行為になります。ましてや、お相手は公爵家の方ですから、いくら学園に爵位は関係ないとはいえこのような振る舞いは看過できません。どうか、おやめください」

「……あなた何? 関係ないでしょう?」


 ルビア様は不愉快というのを前面に押し出している。ラドルフ様の方は恐ろしくて見ることが出来なかった。

 強い感情を向けられるとそれだけで自分が悪いことをしてしまったような弱腰になり、私の喉はきゅっと締まった。

 彼女の言う通り、私には関係がないといえばないのだ。ラドルフ様が助けてほしいと言ったわけでもないのに、勝手に割って入って注意している。これだって十分不敬と言われたら反論はできない。

 でも、だけど、


「か、関係なくはありません。だってわたくしとルビア様はクラスメイトではないですか。クラスメイトが間違った行動をしていたらそれを正すのは当然です」

「はぁ?」

 

 ルビア様は気の抜けた声を出した。


「そ、それにもうすぐ昼休みが終わります。次はマナーの授業ですよ! 遅れたらルーベン先生から叱責が飛んできますよ! 行きましょう!」 

「な、ちょっと、あなた……!」


 私はルビア様の手を取ってぐいぐいと引っ張りながらラドルフ様に向けて「失礼します」とだけ言ってその場を立ち去った。


 ルビア様は小柄なのと、私の行動は予想外だったのか案外あっさりと引っ張られてくれた。だが、校舎内に入ったところで我を取り戻したらしく「いい加減にしてよ」と手を振りほどかれた。


「何なの? どうして邪魔するの!」

「……邪魔なんかじゃないですよ。これはあなたのためです。このままではあなた。大変なことになりますよ」

「どういう意味?」


 ルビア様は腕組みをしながら、ぷんすか、という擬音が飛び出してきそうな怒り顔で私を睨んだ。

 

「そのままの意味ですよ! これまで何度も忠告を受けてきたのに少しも聞き入れずに殿方に言い寄っているでしょう! それも、あなたよりも身分の高い方に。これは十分すぎる不敬ですよ」

「嫉妬するのは勝手だけど、そうやって自分ができないからって私までやめさせようとしないでちょうだい!」

「……なんでそんな話になるんですか? 頭大丈夫ですか? あなた、本当にまずい状況なんですよ? このままじゃ、おそらく退学になります」


 退学という言葉に、ルシア様は眉を顰めた。

 私は少ししゃべりすぎたかもと思ったが、彼女のことをなんとなく放っておけなかったのも事実だ。自分の思い出したくない過去を見せてくる彼女の目を覚まさせることで、あの頃の自分のことも一緒に救ってあげたかったというのが本音かもしれない。

 だから、


「毒婦サンドラ疑惑をかけられてるんですよ」

「それ誰?」


 有名な話だけれど、知らないのか。

 だからこそ、あのような振る舞いができているのかもしれない。


「私の話に耳を傾ける気があるのでしたら、放課後、お話ししましょう」


 とりあえず、今は授業が待っている。

 私はそう言って教室へと急いだ。


 そして、放課後。

 私の忠告など他の令嬢たちがしたときと同様に無視されるものだと思っていたら、意外にもルビア様から声をかけられた。

 退学と言われては無視しきれなかったのだろう。

 私たちは人目を避けて裏庭へ移動して話をすることにした。

 裏庭には楓の木が等間隔に植えられている。秋口に入っていたので青々しかった葉は黄色へと色を変えている。もう少し季節が深まれば燃えるような赤になるだろう。

 一番大きな楓の側に設置されたベンチに腰掛ける。


「それで、昼休みの話だけど、詳しく聞かせてもらえる?」


 彼女は「毒婦サンドラ」についてかなり熱心に、当時の皇太子や公爵令嬢の名前まで細かに聞いてきた。少し前に調べたところだったので自信を持って答えることができたのは幸いだ。

 私が名前を上げていくとルビア様は突然叫びだした。


「それって『恋の花咲く聖乙女』じゃないの!?」

「は? え? なんですかそれ?」

「えー……ってことはサンドラは逆ハーが失敗して断罪されたの?? 逆ハーはバッドエンドでもそんな展開なかったはずなのに……つまり、それって、私も断罪される可能性があるってこと!??」


 恋の花咲く聖乙女? なんだろう。なんだかとても仰々しい。

 それに逆ハー? 断罪? ……サンドラはたしかに公開処刑されたはずだけれど。


「ああ、でもこれではっきりしたわ。そうね、そうよね。おかしいと思っていたのよ」

「あの……何を言っているのでしょうか?」


 一人でうんうんと納得するルビア様に声をかけていいものか迷いながら、気になるので尋ねた。


「あのね、私、転生者なの。そして、ここは乙女ゲーム『花の少女とプリンスたち』の世界だったの。だから、私は逆ハーを狙って頑張っていたんだけど、ちゃんとシナリオ通りにしているはずなのにうまくいかないなぁって思っていたわけ。でも、その毒婦サンドラの話を聞いて、それが『恋の花咲く聖乙女』のことであるってわかって、かつてこの国で別の転生者がいて、別の乙女ゲームが展開されて、でも、そのヒロインは逆ハー失敗して断罪されたわけ。ってことはよ、ここではヒロインだからって有利に働かない。乙女ゲームの世界と似ているけど別の現実。なら、私は堅実に生きなくちゃ!」


 聞いてもさっぱりわからなかった。

 だが、彼女が堅実に――これまでのような行動はとらないという決意だけは伝わってきた。


 そうならば、よかった。


 今後、彼女の言動で私の古傷が痛まなくなるのだからよかった。

 この時点で私はそう軽く考えていた。





「件の令嬢のこと、聞きましたわ」


 私は、再びエリザベス様から茶会に誘われていた。

 前と同じ薔薇の園のテラスで、優雅に紅茶を飲みながら優雅に微笑むエリザべス様を前にして私は緊張している。


 原因は、ルビア様のこと。


 あれから彼女は本当に心を入れ替えたらしく、真面目に貴族のマナーなどを学ぼうとしている。まるで憑き物が落ちたかのような変貌ぶりだ。こんな風にすぐさま行動できるのはすごいことだと思う。

 ただ、何故か、わからないことなどを私に聞いてくるのは困る。聞かれること自体はよいのだが、ルビア様を改心させたのは私ということになっているのが困るのだ。

 それは、まったく真実ではない。きっかけはもたらしたのは私かもしれないが、ルビア様が変わったのはここが乙女ゲーム? とやらの世界ではないと知ったからだ。とはいえそんなわけのわからない話をできるわけがないので「流石リリー様ですわ。ルビア様を説得なさるばかりか、その後も親切にしてさしあげるなんて、侯爵令嬢の鑑だわ」なんて言われるようになってしまった。


 その話は当然エリザベス様にも伝わっていてこの呼び出しに至るのだが……。


「いえ、あの……あれは成り行き上そうなっただけで……申し訳ありません」

「謝ることなんてないわ。わたくしが動いていればもっと大事になったでしょうし、リリーのおかげで心配事も消えたわ。ふふ、ありがとう」


 ありがとうと言われてそのまま受けとめていいのか微妙だ。

 ルビア様が不敬を働いていたのは事実で、エリザベス様は彼女を止めるため、或いは罰を与えるために情報収集をされていた。私はそれを知っていながら彼女を改心させた(ことになっている)。

 何かしらの計画を、私がとん挫させてしまった可能性。

 そのことでエリザベス様が多少なりとも怒りを抱いていらっしゃる可能性。

 貴族は体裁を重んじる。そんなつもりはなかったが結果として計画を潰すような真似をしたのだから憤るのは当然だ。私が先日の茶会で一言「私に一度話をさせてください」とでも言っていれば、それかエリザベス様から呼び出される前に報告していれば、また違ったのだろうけれど……。いろいろ抜かってしまった。

 でも言わせてほしい。私だってルビア様があんなにあっさり考えを改めるとは思わなかったのだ。――だけど、それもまた言い訳でしかない。こうなってしまった以上は素直に謝るのがいいだろう。


「あの……本当に、エリザベス様がいろいろ考えていらっしゃったのに妨害するような形になってしまったこと申し訳なく思います。ですが、けしてそのような意図があったわけではなくて、本当にたまたまこういう状況になっただけで……」

「ええ、もちろん。正直に言えばリリーがわたくしに相談なく行動したことは寂しく思ってしまったわ。けれど、詳細を聞くと結果的にそうなったというだけだとわかります。だから、わたくしは本当にリリーに感謝しているのよ」


 一度は怒りを感じたのだなとひやりとする。

 けれど、きちんと成り行きを調べてくださったことはありがたい。そして、こんな風に話してくださっているからには許されたということだろう。素直に謝ってよかった。


「だから、こうしてあなたをお茶に誘ったの。わたくしの憂いを取り除いてくれたのですもの、わたくしもリリーの憂いを取り除いてあげなくてはと思って」

「え?」


 エリザベス様はそう言うと側仕えが席を離れた。

 それからすぐに人を連れて戻る。その現れた人物に、私は言葉を失った。――ラドルフ・フィリップス公爵子息、その人だったから。


「こちらへどうぞ、ラドルフ様」


 ラドルフ様はエリザベス様に促されるままに軽やかな動作で席に着いた。

 側仕えがすかさずお茶を出す。私の分も、淹れなおしてくれる。

 白い湯気と共に、紅茶の香りが立ち上っているはずが、緊張で何の匂いもしない。


「ふふ、リリーは件の令嬢からラドルフ様を助けて差し上げたのでしょう? そのあと、ラドルフ様はお礼を言えていないとおっしゃるものだから、こうしてお呼びしたのよ。さ、どうぞ、ラドルフ様」


 私がルシア様に接触した経緯を把握しているとはおっしゃっていたが、ラドルフ様から直接お聞きになったのか。

 というか、ラドルフ様はあれが私だとわかっていたことに眩暈を覚えた。


「先日のこと、感謝する」

「あ、い、いいえ……滅相もございません……」


 お前などに助けられたくない、と罵声が飛んできてもおかしくなかったが、お礼を言われたことに内心で安堵した。ただ、あのとき声をかけたのは彼のためというよりも私の罪滅ぼしの意識が強かったので、こうして改めて礼を言われると申し訳なさでいっぱいになる。


「まぁ、ラドルフ様。愛想のないこと。それではリリーが怯えるばかりですわ」


 にこにことするエリザベス様と、苦虫を嚙み潰したような渋面をつくるラドルフ様。

 お二人は従兄妹の関係で、第一王子を含めて幼馴染だと聞いているが、ラドルフ様に愛想がないなんて言えるのはきっとエリザベス様だけだろう。


 ラドルフ様に愛想がないのは相手が私だからだと思います。本来は顔も見たくないが、助けられた手前礼を言わないわけにはいかない。そういう感情なのでしょう。


 心の中でラドルフ様の心情を代弁してみる。

 こちらとしても、別にお礼など必要ないし、それよりも顔を合わせないでいた方がありがたいのに、ラドルフ様の律義さに涙が出そうだ。


 こほん、とラドルフ様が咳払いをする。

 恐ろしくて彼の姿を直視するのは躊躇われ、私は俯き加減でいたが、斜め前から感じる圧に冷や汗が出る。


「……あ、やまらなければならないと思っていたのだ」


 しかし、ラドルフ様が発せられたのは予想していなかった言葉だった。

 謝る? 何を? よくわからない。

 私は余程間の抜けた顔をしていたのだろう、くすくすとエリザベス様の笑う声が響いた。

 

 笑うような状況ではないですけど!?


 だけれど、頼れるのはエリザベス様しかおらず私は縋るように彼女を見た。


「わたくし、リリーはラドルフ様を嫌っていると思っていたのよ。わたくしだけではなくラドルフ様も同じだったわ。けれど、そうではないと知ってラドルフ様にお話ししたの」


 は? え? なんで? なんでそんなことをなさるの??? 


「そんな捨てられた子犬のような顔をしないでちょうだい。言ったでしょう? リリーの憂いを払ってあげるって。ラドルフ様、さぁ、どうぞ」


 さっぱり、わからない。

 ルビア様といいここしばらく謎の展開が続いているけれど、本当に何をしたいのかわからなすぎて怖い。

 怖い上に、ラドルフ様の視線が少しも揺るがず私を見つめていることだけは否応なく感じてしまう。これは……私も向き合うべき……。

 そろそろと彼の方を見たら、途端、蜂蜜色の瞳とぶつかり、懐かしさより痛みが駆け巡った。

 それは私が美しいと思い、もっと見たいと思い、追いかけたもの。


「……私は、君に謝らなければならない。初めて会ったとき、まだ幼かった君に酷いことを言った。あれは八つ当たりだった。本当にすまなかった」

 

 ラドルフ様が頭を下げるのを見て、私は慌てた。


「え、あ、いえ……あれは嫌がられていることにも気づかず追いかけまわしたわたくしが悪いんです。お恥ずかしい話ですが、あの頃、わたくしは周囲から甘やかされて、他人から嫌われるなんてことを考えたこともなかったのです。自分の気持ちばかりを優先させて、こちらこそ申し訳ございませんでした」

 

 口に出してみると、もぞもぞと座りが悪くなった。

 そう、あの頃、私は拒絶されたり嫌われたりという経験をまだしていなかった。とても愛され可愛がられていた。恵まれた子どもだった。

 けれど、相手にも相手の思いがあり、私を好きになってくれる人ばかりではないことをどこかで知らなければならない。それを教えてくださったのがラドルフ様だった。

 思い出したくない過去ではあるけれど、思い知らなければならなかった事実でもある。


「リリーは真面目ねぇ。酷いことを言われたってもっと怒ってもいいのよ? けれど、そうね。わたくしはあなたのそういうところ、好きよ。リリーはリリーのままでいてちょうだい」


 そんな私にエリザベス様は満足げにおっしゃった。

 一方でラドルフ様は渋面のままだ。

 彼の表情に、この謝罪ってエリザベス様からお願いされたものなのかな……と思っていたら、


「……わ、たしは、君を嫌っているわけではない」

「え?」

「そう誤解されても仕方がないと思うが、あれは私の勝手だった」


 それから、ラドルフ様は当時のことをぽつぽつと話し始めた。


 ラドルフ様の兄・セオドア様が乗馬大会中に落馬して昏睡状態になった。大勢が見ている前での出来事だったので隠しようがなく、嫡男セオドア様がそのような状態では、家督はラドルフ様が継ぐことになるのではないかと噂になった。

 結果からいえば、セオドア様は回復しお家騒動も収拾したのだが、彼が意識を取り戻すまでの三ヶ月間、ラドルフ様の周囲にも変化が起きた。それまで見向きもしなかった者たちが急にちやほやしてきたのだ。無論、次男とはいえ公爵家に生まれたのだから大事にはされてきたが跡目になる可能性が出てくると露骨な媚を売ってくる者たちもいる。態度の違いにラドルフ様は困惑した。だが、話はそれだけにとどまらない。セオドア様が回復すると再び掌を返されたのだ。

 そんなわかりやすい人いる? と疑ってしまうがいるのだろう。世の中には自分だけが賢いと思い、故に自身の振る舞いの真意など見抜かれるはずないと浅はかな振る舞いをしてしまうなんて者も存在する。恐ろしい話だ。

 そういう人間は限られているが、限られているが故に強烈であり、ラドルフ様は心を病んだ。自分に近寄ってくる人間を疑り嫌悪するようになった。そんなラドルフ様を心配し、気分転換にとフィリップス公爵夫人は私の母の見舞いを兼ねてラドルフ様を避暑に連れ出した。それがあの出会いだった。

 

 ……話を聞いているうちに、ラドルフ様に怒鳴られた後、母から「貴方は何も悪くないのよ。大丈夫だからね」と慰められたことがぶわっと蘇ってきた。母だけではなくフィリップス公爵夫人も、息子を泣かせた私を叱ることなく、ごめんなさいね、と謝ってくださった。

 怒鳴られたことばかりを悲しんでいたが、当時も説明を受けていたことを思い出して、なんだかいたたまれない。どうして今まで忘れていたのか……。


 しかし、これが事実なら、ひどい話だ。八つ当たりとラドルフ様はおっしゃったが、確かにそれは八つ当たりといえる。あの頃の私にあったのは純粋な好意だったのだ。それなのに、本当に怒りをぶつけるべき相手にではなく、幼い私に当たり散らしたのだ。


「君に暴言を吐いたあと、次第に冷静さを取り戻して、二歳も年下の幼子になんてことを言ったのだと後悔した。だが、謝ろうにも私は王都に戻ってしまっていた。……いや、それも言い訳だ。本気で謝ろうと思えば手紙という手段もあったが、謝っても許されないことが恐ろしく、距離を言い訳にしてどうしようもないと何もしなかった。

 だが、君が王都へ戻ったと知り、同じ学院に通うようになって、そのような言い訳もできなくなった。そこで、エリザベスに謝罪の場を設けてもらえないかと頼んだのだが……君は私の名前を聞くと表情を曇らせたと聞かされた。

 正直に言えば、あれから何年も経っている。君はあの日のことを忘れてしまっているのではないか。忘れていなくとも昔話として笑って許してくれるのではないか。そのような甘い期待を抱いていた。だが、君はあの仕打ちを覚えていて私を嫌っているのだと思い知った。今日まで何もせずにきたことを悔やんだ。しかし、それこそ今更だ。今更、私が謝罪したところで、君の辛い気持ちが慰められるのか。ただの自己満足ではないのか。それならばこのまま憎まれているべきではないのか。

 君にとって一番良いことは何かを考えているうちに、エリザベスから君が私を嫌っているのではなく、私が君を嫌っているから近づかないようにしていると教えられ、必要のない負い目を抱いているのだと知って……」


 そこまで言うとラドルフ様は言葉を詰まらせて、ぐっと唇を噛んだ。

 自分の非をいつまでも覚えていて、罪悪感に苛まれることがどれだけ辛いか私はよく知っていた。

 彼の言葉と態度がポーズなどではなく本心から後悔であることが伝わってくると、私までも苦しくなった。


「何度か、声をかけようとしたがいざとなると何と言えばいいかわからずに、時間がすぎていき、だが、君は私を助けようとしてくれた。それがどれほど勇気のいることか……私は心底自分が恥ずかしくなった。本当に申し訳なかった」


 続けられた言葉に、図書室のことが思い出された。

 図書室だけではなく、ここしばらくやけにラドルフ様を見かけると思っていたが……あれは全部偶然ではなく、私に話しかけようと近寄ってきていたってこと? 


「……では、私の振る舞いが自覚ないまま嫌がらせになっていたわけではないんですか」

「違う」


 念のための確認の問いかけには間髪入れずに否定が返ってくる。


「なんだ。それなら、よかったです」

「よくは、ないだろう……君は必要のない負い目を抱いて今日まできたのだから。私を責める権利がある。何をしても許せないかもしれないが、できることはしたいと思っている」


 彼の目の色が濃くなった。

 真剣な贖罪の申し出……だけれど、私はそのようなものを求めてはいなかった。


「いえ……お話を聞いて多少動揺はしていますが、何かをしてほしいという気持ちはありません。ただ、私の言動で傷つけてしまったわけではないと知れただけで十分です」


 本心だ。

 

 自分のせいとはいえあれは嫌な記憶だった。これまでふとした瞬間にあの日のことを思い出しては、ぎゅっと心臓を絞めつけられ叫びだしたくなるような後悔の念に震えた。それが誤解であったとわかり、もう悩まなくていいのだ。

 

 まぁ、欲を言えばもっと早くに教えてくれればもっと早くに解放されていたのにという思いはあるが、実際、あの頃の私には「人から嫌がられる可能性」を考える力がなかったのは本当で、彼の状態などお構いなしに突進した。自分の気持ちだけではいけないと知れたのは大きな意味があった。頭を打つなら早い方がいい。感謝するとは素直には言い難いけれど、世界を知れたのだから悪いばかりではない。


 私も幼かったが、ラドルフ様だって子どもだった。私がそうであったように、ラドルフ様もまた自分のことばかりで、互いに未熟だった。私は彼を傷つけたわけではなく、彼は私を嫌っていたわけではなく、ただひたすらにタイミングが悪かった。そして、互いにそのことを忘れずに後悔と懺悔の気持ちを持ち続けてきた。でも、それも今日で終わらせられる。それでいいのではないか。だから、


「あのときは悲しいと思いましたが、結果として大切な学びがあったので、ラドルフ様も気になさらないでください。お互いに子どもだったということで忘れていただければ幸いです」


 とこの件に関して互いにわだかまりを持たないでいようとお願いした。


 ラドルフ様はそれでも納得しかねたような顔をしたが、とりなしてくれたのはエリザベス様だ。当人の私がそう言っているのだから従いなさいと窘められて、それではせめてお詫びと助けてもらった礼にと観劇に誘われた。

 それは見たいと思っていたがチケットが取れずに諦めかけていた王都で一番話題の「聖女モリスと呼ばれし女」――毒婦サンドラを題材にした芝居だった。

 それもサンドラが毒婦と呼ばれる前、皇太子たちとの出会いから寵愛を受けるようになり、平民から成り上がった彼女が最も幸せだった時期を扱っている――ルビア様曰く、乙女ゲームのシナリオ通りの展開らしい。

 私は一瞬舞い上がったが、

 

「……でもこれ貴重なものですよね」


 安易に受け取っていいようなものではない。


「リリー、こういうときは殿方の顔を立てて差し上げるものよ」


 すると、エリザベス様が呆れたように今度は私を窘めた。

 そういうものだろうか……それならと、私はありがたく誘いを受けることにした。


 こうして、一時はどうなることかと思っていたルビア様により強く揺さぶり起こされていた私の苦い記憶は、長い時を経て、綺麗な形で完全に思い出になった。

 これで本当に、今後の学生生活を何の憂いもなく平穏に過ごせる、と私はそう思った。





 週末明けの学校は何かと億劫だ。

 昨日はラドルフ様と約束していた観劇に行ってたのでいつもより疲労感が残っているというのもある。……なんて言うと、観劇がつまらなかったと誤解を招きそうだが本当にいろいろと疲れてしまっていた。


 まず、出掛ける前からひと悶着あった。

 劇場前で待ち合わせと思っていたのが、ラドルフ様が屋敷まで迎えに来てくださることになり、そうなれば当然母にも誰と出掛けるのかバレて、私の衣装についてダメだしされた。


「もっと、着飾りなさい!」

「……それはちょっと……」

「何を言っているの! あなたが身なりが整っていないことを笑われるのは一緒にいるラドルフ様なのよ」


 母の言わんとしていることはわかるが、私はそこまで奇妙な格好はしていなかった。ごく普通のアフタヌーンドレスだ。だが、母は公爵家の茶会に着ていくようなドレスを着るよう命じた。単なるお礼兼お詫びの観劇に気合入りまくりのドレスで行く方が引かれるだろうと尚私は反論したが、女性が美しくいることを厭う男性はいません、とピシャリと言われてこれはもう抵抗するだけ無駄だと母の指示したドレスに着替えた。


 こんな格好して、何か勘違いしているのではないか? なんて思われたらどうしよう……。


 私はかなり憂鬱な気持ちで迎えを持った。

 しかし、迎えに来てくださったラドルフ様の服装がかなりしっかりとした正装だったので驚いた。もっと簡単な(いや、劇場にはドレスコードがあるから簡易すぎるのは問題なのだが)、友人と出掛けるくらいの感覚で迎えに来てくれると考えていたので戸惑いは大きい。母の言う通りにしておいてよかったと思った。

 だが、話はこれで終わらない。

 ラドルフ様は馬車の乗り降りや会場でのエスコートも完璧にこなしてくださった。

 このエスコートが大問題。いや、エスコート自体は実にスマートで問題などなかったのだが、受ける私の心的部分で問題が発生した。というのも、ラドルフ様のエスコートは私がこれまで父や従兄弟から受けてきたものとはまったく違った。父も従兄弟もきちんとしてくれていたが互いに身内ということもあり、私は自分が女性であるという意識を強く持ったことはなかった。だが、ラドルフ様のエスコートは否応なく自分が女性であるのだと意識してしまうものだった。

 淑女として私はきちんと振る舞えているのか、どんどん不安になって、時間が過ぎるほどに緊張が増していき、肩に力が入っていった。


「申し訳ありません……あまり殿方にエスコートしていただく機会がなかったもので」


 私の緊張は最高潮に達し、こらえきれずに白状した。

 それも後になって考えれば愚かだったが、慣れないから失敗しても許してほしいと懇請せずにはいられなかったのだ。


「……何も謝る必要はない。きちんとした振る舞いをしている」


 ラドルフ様が思いのほか優しい声で慰めてくださったのが救いだ。


 そんなわけで過度に緊張した休日となり、その分、今日は早く帰り部屋でのんびりしようと授業が終わるといそいそと教室を出た。

 一年生の教室は南館の端。正門まで一番遠い。

 授業が終わってすぐは混雑していて、以前であれば、ラドルフ様と鉢合わせしないようにと人が減るのを見計らって帰っていたが、今はもうそのような心配がなくなった。

 少しばかり早足に廊下を歩く。すると、ふいに声をかけられた。

 振り向くと、見るからに気の強そうな人を真ん中に三人の令嬢が立っている。


「リリー様というのはあなたかしら?」

「はい、わたくしですが……」


 同学年……ではない。年上だろう。


「わたくしは、メアリアと申します。ロバーツ侯爵家の長女ですわ」


 ロバーツ侯爵――私の父とは派閥が違うので積極的に話をしたことはなかったが、名前と家族構成ぐらいは知っている。彼女は私と同じく一人娘で、二つ年上のはずだ。

 接点など一切ないはずの彼女が、何故私に声をかけたのか。

 他の生徒たちからもやや注目を浴びている。


「少しお時間よろしいかしら? すぐ済みますわ」

「はい……」


 ここで話すのは悪目立ちする。私は素直に彼女たちについていった。


 連れられてきたのは裏庭。

 茶会用の一室にでも案内されるのかと思っていたので、立ち話をするらしいことに少し面食らう。

 とはいえ、今更帰るわけにもいかず、とりあえず黙って出方を待ってみる。


 メアリア様は私と対峙すると舐めるように上から下まで見てきた。

 値踏みするような、嫌な感じの眼差しは不愉快だが逸らすわけにもいかず、じっと見つめ返したらメアリア様はふんっと鼻を鳴らした。


 何故こんな態度をとられなければならないの?


 明らかに臨戦状態のメアリア様に、面倒ごとの気配を感じる。

 ひんやりとした風が私の首筋を撫で身震いがした。


「あなた、ラドルフ様とはどういうご関係なのかしら?」


 何故ここでラドルフ様の名前が出るのか。

 どういう関係も何も無関係だ。

 だが、それを言う前に、


「先日、エリザベス様に頼んでラドルフ様をお茶会に招いたでしょう。おまけに、芝居を見に行くことまで強請ったとか。そのような姑息な真似をして恥ずかしいと思いませんの? ラドルフ様はわたくしの婚約者となられる方ですのよ。今後、このようなことはしないでいただけますか」


 びっくりして言葉が紡げなかった。


 彼女はラドルフ様の婚約者なの? ――そんな話は聞いていない。


 貴族の結婚は家同士の契約、所謂政略結婚として、親が決めた相手と学生の間に婚約を結んでしまう者も多い。上級貴族になるほどその傾向は顕著だ。だが、ラドルフ様に婚約者はいなかったはず。いつの間にかメアリア様に決まっていたということ? でも、公爵家の子息と侯爵家の令嬢の婚約という大事なら私のところにも情報が回ってくるはず……。正式な発表前ってこと?


 ああ、けれど、これで彼女に声をかけられた理由はわかった。


 そりゃあ、婚約者が他の令嬢と観劇に行ったとか面白くない。知っていたら行かなかったし、ラドルフ様も、もう少しメアリア様に配慮するべきだったのではないか。――まぁ、彼にしてみても私と出掛けるのなどカウントに入らないということなのだろうけれど……それはそれでなんだか悲しい。

 と、落ち込んでいる場合ではない。誤解を解かなければ。


「違います。あれは――」「まぁ、この期に及んで言い訳するつもりですの?」


 私の言葉を遮るようにメアリア様は言葉を重ねてきた。


「だいたい、あなた、そのような地味な容姿でラドルフ様に近付こうなんて恥ずかしいと思いませんの? あの方の隣に立てると本気で思っていらっしゃるの?」

「え、あの……ですから、わたくしは」

「まったくですわ。メアリア様と勝負しようなんて、ご自身のことを理解する力があれば考えもしませんわよね」

「その通りですわ。自惚れるのも大概にしなければ恥をかきますわよ」


 メアリア様だけではなく後ろへ控えている令嬢たちも口々に攻撃してくる。

 流石にそれにはムッとした。メアリア様の怒りは理解できるが、私を地味だとか、自意識過剰みたいに言われるのは心外だ。失礼ではないか。

 

「ちょっと、聞いてますの!!?」


 黙っていれば、メアリア様の怒りは増幅されていく。


「聞いていますけれど、あまりにも一方的なので……わたくしは後ろ暗いことなど何一つしておりません。少し落ち着いてくださいませ」

「まぁ! 開き直る気ですの?」


 いや、どうしてそうなる。

 これは私が何を言っても否定的にしか解釈されないという状況ではないのか。だとして、どうすれば穏便に終わらせられるのだろう?


「リリー様!!!」


 そこへ、大声が響いた。

 見るとラドルフ様とその後ろには少し遅れてルビア様が走ってきていた。

 こちらにたどり着くと、ラドルフ様は私を背に庇うようにしてメアリア様の前に立った。


「大丈夫ですか!!? リリー様が連れていかれるのを見て、大慌てでラドルフ様を呼びにいったんですよ! 間に合ってよかった!」


 ルビア様ががしっと私の手を握りしめる。

 彼女の手は温かかった。冷え切った私の心と身体をじんわりと包み込んでくれる。まさか彼女がこんな風に私の味方をしてくれるようになるなんて、人間関係というのはわからないものだと妙な感動を覚えた。


「これは一体どういうことか」

「どうって……その、リリー様がラドルフ様に接近しているとお聞きして……ラドルフ様はわたくしの婚約者になられる方ですから、不用意に近づかないようにと忠告したまでですわ」

「君との婚約話は正式に断ったはずだが?」


 え? 婚約者ではなかったの?


 明らかになる真実に、私は再び言葉を失った。


「わ、わたくしは、認めていません」

「君が認めようが認めまいが興味はない。私は君と婚約する気はない。よって、私が誰と親しくしていようが君に口出しする権利はない。今後、このような真似はしないでいただきたい。迷惑だ」


 迷惑――その言葉にメアリア様の表情が歪んだ。だが、すぐに取り繕って、


「わたくしは、諦めません」


 と言い捨てて去っていった。

 

 彼女たちの姿が完全に見えなくなると、


「すまない。まさかこのような事態になるとは思っていなかった。私の手落ちだ」


 ラドルフ様が私を振り返り言った。

 彼の秀眉はへにょりと下がり申し訳なさそうだ。けれど、この状況は何もラドルフ様のせいばかりではない。


「……いえ、わたくしもまったく想像していませんでしたから」


 ラドルフ様が人気のある方とは知っていたが、たった一度観劇に行っただけで文句を言いにくる令嬢がいるなど思わない。それも、婚約者とかでもない令嬢が。

 異性に人気があるということの大変さをはじめて目の当たりにしてどう反応すれば良いやら。

 というか、昨日の今日でよく情報を手に入れたものだ。かなり曲解され、私がラドルフ様にまとわりついているとされていたけれど……ひょっとして他にもそう思って私に怒っている人がいるのかもしれない。そう考えてジクジクと胃が痛んだ。


「また、君には詫びねばならないことができた。……それから、ルビア嬢と言ったか。君にも迷惑をかけたな。私に知らせてくれたこと感謝する」

「いいえ、リリー様にはお世話になっていますから当然です。もし次があればそのときも必ずお知らせしますので、リリー様を守ってください」

「そうしてもらえると助かる」


 もうこんなことないと思うのだけれど、二人の協定が結ばれていくのを私は黙って見ていた。

 それから、ラドルフ様は生徒会の仕事があるので送っていけないことを更に詫び、メアリア嬢には二度とこのような真似はさせないから、と繰り返して戻っていった。

 忙しなく去っていく後姿に無理してきてくださったことがわかりなんとも申し訳なく思う。


 二人きりになるとルビア様は私を気遣うようにベンチへと誘導してくれた。

 並んで腰かけていると、いつかの放課後を思い出した。


「助けてくださってありがとうございます」


 私はルビア様に改めて礼を述べた。


「いいえ、礼には及びません。リリー様のおかげで道を踏み外さずに済んだのですからこれくらいお安い御用ですよ」


 ルビア様はにっこりと笑った。その笑みには入学してきたばかりの気持ちのままに殿方を追いかけていた頃の面影はなかった。貴族の令嬢としての振る舞いにはまだ足りないところもあるけれど、急速に変化し、貴族社会に馴染みつつあることが見ていてよくわかる。まるで別人と言えるほど。

 どうしてそんな風に変われるのか、一度そのことを尋ねてみたら「ヒロインだからヒロインらしくしようと頑張っていただけで、本来私はぶりっ子ってそれほど好きじゃなかったのですよね。今思い出しても、どうしてあんなお花畑な振る舞いができたのか謎です」と言っていた。

 彼女は相変わらずここが乙女ゲーム? の世界であると信じているようだが、それでも問題視される行動はなくなったので私もそれを否定したりはしなかった。時々彼女の口から聞かされる前世の記憶も、話としては面白いと結構楽しみだったりもする。


「それにしても、メアリア様がラドルフ様の件で私を呼びだしたとよくわかりましたね?」


 それから、不思議に思っていたことを尋ねた。

 

 メアリア様に声をかけられた時点では、私自身何の件で呼ばれたのかわからなかったのに、それを見ていたルビア様はすぐさま先生ではなくラドルフ様を呼びに行った。それはつまりメアリア様の呼び出しの内容を知っていたからに他ならない。


「そりゃ、わかりますよ。だってリリー様は、()()()()()()()()()()()なのですもの」

「どういう意味かしら?」

「メアリア様の顔を見たら急に思い出したんです。私、ずっとラドルフ様は攻略対象だと思っていたのですけれど、それは『花の少女とプリンスたち』ではなく続編の方だったって。ラドルフ様は本編ではサポートキャラだったんですが、人気があったので彼を主役にした続編が出たんですよね。で、続編のヒロインの名前が『リリー・ローズ』、二人の邪魔をするライバルキャラが『メアリア・ロバーツ』なのです。だから、メアリア様からの呼び出しの理由はすぐにわかりました。メアリア様はかなり苛烈な手段に出てきますから大変だと思いますが、頑張ってください! お二人が上手くいくようにお手伝いしますからね!」


 任せてください、とルビア様は胸を張った。


「あー、でもやっぱりラドルフ様はいいですね。一貫してメアリア様を拒否して、真摯にリリー様を守ろうとする。中には、ライバル令嬢の言葉の巧みさに踊らされてヒロインに冷たくなったりするヒーローとかもいるんですよ」


 にこにこと楽しそうにされて唖然とした。

 私が物語のヒロイン? ありえない。 

 それに、


「……でも、ここは乙女ゲーム? の通りの世界ではないとおっしゃっていませんでした? なので、そんな風にならないと思いますよ。メアリア様が勘違いして私に忠告しにきたのは事実ですけれど、ただの行き違いなだけですし、ラドルフ様が庇ってくださったのもご自身が原因で私に被害が及んでいると思われたからで、そもそも私とラドルフ様との間に艶っぽい感じなどまったくないですから」


 期待に胸躍らせてキラキラとした目で私を見てくるルビア様に告げた。

 彼女の話を正面から否定するのはいささか気が引けたが、私のことまで物語の登場人物だというならそれには付き合えない。

 ルビア様は私の発言に気を悪くするかと思いきや、きょとんとした顔になり、次に不可思議なものを見るみたいになって私を見てきた。


「え? それは照れ隠しではなく本気で言ってます? だとしたらリリー様はかなり鈍感ですよ。どう考えてもラドルフ様はリリー様を好きじゃないですか!」

「……どこからそんな考えが?」


 何を言っているのか、私が不可思議な顔をする番だった。


「どこからって、普通に考えればわかりますよ。ラドルフ様が完璧令息と呼ばれていることはご存じでしょう? しかも婚約話を断っても婚約者と言い張るメアリア様のような人もいるとわかっているのですから、令嬢に対しては誤解を生まないようにと一線を引いて接しています。でも、リリー様とは二人で出かけているじゃないですか。それはそういう風に思われてもよいからでしょう?」

「それは飛躍しすぎというものですよ……そんなことでわたくしを好きだとか思われるのはラドルフ様も迷惑だと思います」

「けれど、メアリア様はそう思ったからこそリリー様に嫉妬して文句をつけにきたんですよね。メアリア様みたいな直接的な方は少ないですけど、お二人が一緒に観劇に行ったと聞き、ラドルフ様はリリー様をお好きなのだと考える方はたくさんいると思います。周囲からそう思われる可能性をラドルフ様が考えていないとは思えません。そして、そう思われることが嫌ならそんな真似はしないはず」

「いえ、それは――……」


 言い返そうとして言葉に詰まった。

 でも、ルビア様の言う通りだとしたら――私の中にどろりとした汚泥が広がった。


「……ルビア様にはお話しておりませんでしたが、わたくしとラドルフ様は幼い頃に一度決裂したのですよ。近頃その件で和解いたしました。観劇もその和解の一環なだけで、そのような意図はなかったと思います」

「決裂?」

「ええ、もうお話してしまいますけれど、幼い頃のラドルフ様はわたくしの好意を否定されたのです。それは事情があってのことだと謝罪を受け、わたくしも納得しました。それでわたくしたちのわだかまりはなくなりました。その証明として観劇に誘われ私も誘いを受けたのです。なのに、あの観劇で周囲の人間からラドルフ様が私に好意があると思われることを、ラドルフ様がわかっていてしたなんてなんだかそれって、とても……不快です」


 不快、と自分の口から飛び出した言葉に驚いて私は自分の唇を押さえた。人差し指の腹にしっとりとした柔らかな弾力を感じた。

 

 そうだ。私は不快と怒りを感じていた。

 だってそうでしょう。かつて私を泣いて怒って拒絶したのに、再会したら今度は好意があると示されて不愉快にならない方がおか、し、い。


「……わたくし、何を言って……これじゃあ、ラドルフ様を恨んでいるみたい」


 あの件のことを恨む気持ちなどなかったはずだ。

 真実が詳らかになって、私を嫌っていたわけではなく、八つ当たりだったと聞かされて、嫌われていなかったのならよかったとほっとした。そこに怒りや苛立ちはなかった。

 なのにどうして、こんなにもイライラとしているのだろう?

 ぽっかりと空いた穴に落ちてしまったような混乱。


「大丈夫ですか? 顔色が悪いですけれど……何か飲み物を持ってきましょうか?」

「いえ、大丈夫です。ちょっとわからなくなって……」

「わからない?」

「……さっきも言いましたけれど、わたくしは昔ラドルフ様に好意を拒絶されたのです。でもそれは誤解だったと謝罪されて、嫌われていなかったのだと安堵したのです。そして、謝罪を受け入れたのです。なのに、今、ラドルフ様がわたくしに好意を持っているかもしれないと聞かされて、もやもやとして、苛立ちを感じている。あまりにも矛盾しているので、自分の心がわからなくなったのです」


 言いながらも、私は混乱を極めていた。


「えっと……リリー様は幼い頃ラドルフ様をお好きだったけれど、ラドルフ様からは拒絶された。そのことがとても悲しかったが、学院に通うようになってそれは誤解だったと知り、嫌われていなかったと安堵した。そして仲直りの観劇にもいった。ところが、そのことでメアリア様に絡まれてしまった。日頃から令嬢とは一定の距離をとっているラドルフ様が特定の令嬢と二人で出掛けたとなれば、その令嬢のことを好きなのでは? と思う人がいても変ではありません。そして、そう思われることはラドルフ様だって理解しているだろうから、私はそこからラドルフ様はリリー様を好きであると推測しました。すると、それを聞いてリリー様は不快になった。ラドルフ様がそのように思っていることが嫌だった。そういうことですか?」


 ルビア様は私の発言をご自身の言葉にして繰り返した。


「冷静に聞かせられると、わたくし、無茶苦茶なことを思っていますよね……」

「無茶苦茶というか、ごちゃごちゃになっているなとは思います。少し整理する必要があるのでは?」


 ルビア様はそう言うと、やはり飲み物を持ってきますと一旦席を外した。

 しばらくすると簡易のカップに入った温かいココアをもって帰ってきた。

 口をつけると甘さが広がって少しだけ落ち着いた。


「それで、先程の話なのですけれど……単刀直入にお伺いしますがリリー様はラドルフ様をどう思っていらっしゃるのですか?」

「どうって……」

「好きか嫌いかって話です」

 

 そんなこと考えたこともなかった。

 幼い頃こそ彼と仲良くなりたいと追いかけたけれど、その思いは粉々に砕け散ったのだ。あのときですべては終わった。もう関わり合うことなどない相手になった。そう、関わることなんてないと……。


 けれど実際は、違った。

 あの日のことを謝罪をされた。

 そのあとお詫びにと二人で観劇に出掛けた。

 更にメアリア様からは難癖ともいえる糾弾を受けているところを助けられた。

 次に次にと接点が生まれ先へ先へと繋がってきている。


「そんなに答えられない問ですか?」


 黙り込む私にルビア様が少し呆れたように言った。

 そう言われてしまうと、なんだか情けなくなる。


「いえ、責めているわけではないんです。ただ、これに答えられないから自分の中で矛盾が生じているように感じるのだと思います」


 うーん、とルビア様は頬に手を当て、


「あまり言いすぎるのもよくないと思いますが、言わないでいるのもどうかと思いますので言いますね。

 お話を聞いた限り、リリー様が感じている怒りや不快さは本気でラドルフ様に感じているものではなくて、恋をしないですむための理由にしようとして、へ理屈をこねくり回そうとしているだけだと感じます。

 おそらくリリー様はご自身が考えるよりずっとずっとラドルフ様に好意を持っていたのでしょう。だから拒絶されたことがすごくショックだったのですよ。でもそのショックの度合いをきちんと自覚できていない。自覚してしまったらその悲しみに耐えられないから自分を守るためにある程度の悲しみだけを認識して、あとは蓋をしたのだと思います。

 でも、思いがけずラドルフ様から謝罪を受けたことにより、嫌われていなかったことがわかり、慰められたのでしょう。

 その後、お二人で観劇に行ったりしてラドルフ様から嫌われていないことを実感もできたはずです。

 嬉しいですよね。

 けれど、嬉しいだけではなくもやもやも同時に生まれた。

 私にもかつての人生で経験があるからわかります。あんなに傷ついた日々はなんだったのだろう? という思いがわいてきて、優しくされて浮かれるなんて愚かなような気がする。和解したからといって親し気にされることに反感を覚える。謝罪は受け入れたし、誤解だったと分かって安堵したのに、そんな風に思うなんて結局自分は少しも許してないのでは? と考えて混乱する。自分が引き裂かれたみたいになる。もういい加減嫌になって、全部相手のせいにして切り捨てようとしてしまう。

 リリー様の場合それに加えて拒絶されたときの感情的な悲しみが強く残っていて、もう二度とあんな思いはしたくないから、無自覚に好意を抱かないようにとしている部分も大いにあると思います。端的に言えば、臆病なのです。

 腑に落ちない気持ちと傷つきたくない気持ちが強烈に結びついて、ラドルフ様は嫌な奴だと思いたい。好きにならないようにしたい。でもそれは自分を守るための衝動であって、ラドルフ様のことを本当にそう思っているのかといえば違います。そう思いたいのと、そう思っているのでは全然違うのです。

 だから私は先程、ラドルフ様をどう思っているのか、好きか嫌いかを尋ねたのです。

 まずそれをはっきりさせる。それから、どうするかを考える。本当は好きなのか、それとも嫌いなのか。好きならば、その気持ちを取るか、それとも自分を守るために好きという気持ちを諦めるのか。一つずつ選択していく。

 個人的にどんな選択してもいいと思います。お相手はラドルフ様しかいないわけではないですし、入り口で躓いてしまったものをやり直すには相当の努力が必要ですもの。その努力をするかどうかはリリー様のお気持ちひとつです。ラドルフ様と向き合うと決めたところで絶対にうまくいくという保証はありませんし、結局はうまくいかずまた決裂ということもありえます。まぁ、誰と恋をするにしても臆病さは問題として浮上するでしょうから、いずれは何処かで克服が必要になるでしょう。でも、今ここで無理やり頑張る必要はないのです。

 ただ、それを自覚して選択することは大事だと思うのです。わけもわからず感情に押し負けて流されるみたいな結論の出し方は推奨できません。だから、お話しました」

 

 すらすらと出てくるルビア様の弁に私は驚いた。

 けれど、言われた内容はとてもしっくりと私の中に落ちてきた。

 確かに、いろんな感情がぐちゃぐちゃになっていた。

 でも、それは矛盾ではなくて、一つずつが独立して、何もかもを肯定されたようで、それだけでも救われたように感じられた。


「あとこれはお詫びでもあります。シナリオにはハッピーエンドとノーマルエンドがあります。リリー様はラドルフ様をお好きだと思い込んでいたので、それならばハッピーエンドに向かってほしいと思い、応援のつもりでラドルフ様はリリー様に好意があることをお伝えしました。でも、それが逆にリリー様の気持ちを惑わしてしまうことになったので……」


 ルビア様は申し訳なさそうに付け足した。


「いえ……わたくしこそ、先程はむきになってしまって申し訳ありません。けれど……ルビア様はすごいですね。何故そのようなことがわかるのです?」

「そりゃ、恋の一つや二つもすればわかりますよ……まぁ、貴族の社会では恋愛というものがあまり馴染まないのかもしれませんが、前世ではよく恋バナとかしたので、この手の悩みには強いですよ、私」


 ぐっと拳を握りしめるルビア様に私は思わず笑ってしまった。





「はぁ、疲れた……」


 湯浴みを終えて、ベッドに横になって見慣れた天蓋の模様を眺めていると次第に瞼が落ちてきた。

 真っ暗になった視界。何の音もない静けさの中、考えるのはラドルフ様のことだ。


『では最後にリリー様が臆病かどうか、それを確かめる手段を教えますね。帰ったらしてみてください』


 帰り際にルビア様は言った。

 というのも私のような人間は、一人になると言われたことを疑いだして、また悩み出すからと。……冷静に振り返ると随分な言われようだが、否定しきれないので素直に頷いた。

 やり方はとても簡単だ。


『まず一人になってリラックスする。それから目を瞑って自分の胸に手を当てる。それからラドルフ様のことを思い浮かべてください。具体的に……そうですね、昨日のデートのことを思い出すのがいいです。その際にあれこれ考えないこと。ただ、思い出す。ラドルフ様がどんな表情だったか、どういう話し方で、どんな行動をとっていたか。それを思い出しながら最後に『好き』と言ってみてください』


 言ったらどうなるのか、言ってみればわかるらしいけれど、どうなるのか。

 今はルビア様の話を疑ってはいないけれど好奇心でしてみることにした。


 目を閉じて、胸に手を置く。

 そして、ラドルフ様を思い浮かべる。

 子どもの頃の彼ではなくて、大人になった今の彼。

 昨日出掛けたときのこと。


 ラドルフ様が屋敷にきたので玄関へ降りていくと何故だが先に母がいた。

 にこにこと話す母に、ラドルフ様は礼儀正しく振舞ってくれていた。

 「お母様!」と私は慌てて母を引き離そうとしたけれど母からは「きちんとご挨拶なさい」と叱られ、お母様が邪魔しているのでしょうと思ったけれどラドルフ様の手前黙って、私はカーテシーをした。すると、すっと手を差し出された。え、と思ったけれどそれがエスコートであることがわかって、おずおずと自分の手を差し出した。手のひらが重なると強く握りしめられた。強くといっても痛みはない。ただ、父や従兄弟はもっと軽く合わせるだけだがラドルフ様は私の手を包み込むように握ったので、はじめてのことに面食らった。ラドルフ様を見上げると、「行こうか」となんでもない風に言われたけれどその目は薄っすらと弧を描いていて優し気に見えた。

 馬車に乗り込むと手が離されたけれど、それもまたいつもみたいにぱっと離れるのではなくて、親指、小指、薬指、中指と順番に、最後の人差し指が離れる瞬間に名残を惜しむみたいにふわりと撫でられたような気がした。

 馬車の中では向かい合って座った。

 会話はあまりなかった。ラドルフ様は幾度も咳払いをして、でも彼の美しい金の目は真っすぐに私を見ていた。私はその目に呑み込まれそうになって恐ろしくて逸らそうと思うのに、同時にカチリと何かが嵌ったように動けなくて、ただその目の深くを見つめていた。

 やがて、劇場にたどり着くと先にラドルフ様が降りてまた手を伸ばされた。私がその手を取ると先程と同様に強く握られたけれど今度はそれほど驚かずにいられた。

 案内されたのは特別席で周囲からは隔離されている。厳密な二人きりではないけれど、二人だけ。

 劇が始まっても私は集中力を欠いていて、時々様子を窺うようにラドルフ様の方を見たら、その度に目が合って私は慌てた。

 カーテンコールが終わり、人々が席を立つざわめきを感じながら、でも私たちはしばらくそのまま座っていた。

 人の気配が少なくなると「行こうか」と声をかけられて会場を出ることにして……


 鮮明に思い起こされる情景。とくとくとくとくと速まっていく心音は掌に感じる。


 ラドルフ様――……す、


 言いかけて私はそれ以上をどうしても続けられなかった。

 言えない、そんなの恥ずかしすぎる。考えただけで、ギリギリと胸が締め付けられて、違う違うと叫びたい。

 ムズムズして、落ちつかなくて、ごろんごろんと行儀悪く寝返りを打った。二、三度それを繰り返すうちに、


「…………こういうこと?」


 ふと我に返る。


 ああ、なるほど、私は恋を認められない。その理由がルビア様の言う通り、幼い頃に拒絶されたことが根深く残っているせいと断定できないけれど、ただ、好意を持っていると自分だけに言うことさえもできずにいる。

 それがこんなにもハッキリと浮き彫りになって、私が愕然とするしかなかった。

読んでくださりありがとうございました。


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