十三街道を小阪から
小阪から十三街道を東に向かっていった。
上小阪八幡神社があった。小さな神社で、江戸初期の創建と思われるものの詳細は不明だそうだ。
小坂神社あたりが下小坂、弥栄神社あたりが中小阪、このあたりが上小阪。宝持南交差点でバス通りを横切り、近畿大学の北側の道を進んでいった。
高速(近畿自動車道)やらなにやらで車でいっぱいの道に出ると、中環だった。ここには信号が無くて、少し北の巨摩橋西交差点で中環を渡った。巨摩と書いて「こま」、ここも高麗の関係なのだろうな。
これから向かう高安も、そこに住んだ高安氏は高麗系渡来人とされているそうだ。この南は八尾だし、渡来人の多かった一帯なのだろうな。前に八尾街道を歩いて知ったことには、八尾街道あたりは渡来人の多く住んだところだった。雄略天皇の頃、渡来人たちが通って都に行ったという磯歯津道を一部ひきついだのが八尾街道だと言われている。
中環の横には第二寝屋川が流れていて、川沿いを十三街道まで戻っていった。農家と柿の木が似合いそうな、思いきり最近まで水田だった感じのところだった。
それなのに工場地帯になっていた。道には轢死したネズミの血だらけの死体がはりついていた。一帯はかつて若江郡だったところらしく、古い建物もときどき現れて、古い集落だった感じがしていた。古くて街道のいっぱい通る小阪も元は若江郡だったみたい。
つきあたりまで進んだら、ここで交差するのは河内街道。前に歩いた暗越奈良街道歩きでも菱江のあたりで交差した街道だった。ここは菱江の南のあたり。
古い道標があり、ここを右折。しばらくは河内街道を南下して行くみたい。「若江地蔵」とある一角があり、地蔵がいっぱいいた。住宅地や工場地帯になっていく中で居場所をなくした地蔵たちが集められているのだろうな。
第二寝屋川を越えた。第二寝屋川はここを西に流れ、それから中環の手前で北に向かうみたい。ここまでは東大阪市で、第二寝屋川の南は八尾市だった。車道も越えてさらに南下すると、道幅が広くなり、右手に西郡天神社。
東にはきれいに山が見えているというのに、このあたりも工場地帯で、シンナーの匂いがきつかった。
しかし西郡って急だな。北郡や東郡があるではなくて突然に西。
不思議に思っていたら、西郡は、漢字が変わっただけで、元は錦織のことらしい。錦を織る職能部民、錦織さんが住んでいたところで、楠木正成が建立したと言われる河内寺の1つ、西郡寺(錦織寺)があったのだって。
南北朝の戦いで南朝が負けた時、多くが焼かれてしまったらしい。戦いでは南朝の楠木正成の元、戦死している錦織さんもいるようだし、楠木正成や、南朝に味方した錦織さんに縁の寺として焼かれてしまったのかな? その後のことは不詳。
手水鉢が存在感を放っていると思ったら、出てきた西郡寺の心礎石だって。
神社を過ぎたらすぐの信号を左折して、東に向かっていった。河内街道とはここでお別れ。双子地蔵などがいたけれど、開発されてすっきりとした住宅街になっていた。
八尾北医療センターを越したあたりから、道がカーブを描き出し、2つに分かれて迷うところはみんな右手に進むというのを繰り返して進んでいった。バス通りを過ぎると公園(山本町北第二公園)があって、その先には大きなクスノキや貝殻地蔵があった。
ここを南北に玉串川が流れていたと思われるそうだ。玉串川は長瀬川から二俣で分かれる川で、今はもっと西のバス通りを行儀よく流れて第二寝屋川に注いでいる。
このあたりを掘ると貝殻がでてきたのだって。河川の改修が行われる前は、カーブを描きながらクスノキのそばを流れていたのかな。
地名は福万寺町。由来となった寺があったのだろうと思うけれど、よくは分からなかった。三野郷だったこともあり、古代にはミノさんって豪族の支配地だったそうだ。その勢力地は若江、渋川、河内、高安。ミノ県主ともいい、前に暗越奈良街道歩きで行った花園ラグビー場の北の英田って地名も、この県からきていると思われるそうだ。
県は日本が律令制(隋や唐の真似)を採用し、国や郡を定める前にあった分け方で、成立したのは古墳時代と思われるそうだ。県主はその県の主ね。
大化の改新の頃の条里制の跡が残り、玉串川の東側には福万寺城もあったらしい。歴史満載だな。
福万寺遺跡も見つかっていて、周囲の遺跡と同じに勾玉をつくっていた形跡が残っているそうだ。十三街道は元は玉祖道と呼ばれる道で、大阪の玉造と高安の玉祖神社をつないでいたんだって。
玉造は勾玉などをつくる玉造部の人たちが住んでいたところで、古くから通じていた玉祖道には勾玉などをつくっていた跡が残り、玉祖神社には玉造する人々の神が祀られているそうだ。
・・・おとぎ話か!?
今は不法投棄NGの中国語のポスターが貼られていたりした。
「右 十三街道 左 大阪道」と書かれた古い道標があった。その一本右手の道を東へ。右手に北山本小学校。田舎の感じの道を行き、恩智川を福栄橋で渡った。恩智川に注ぐ箕後川が東から直線で流れてきていて、その北が東大阪市、南が八尾市になっていた。
箕後川もミノ県主のミノからきているのかな。横小路とかいうあたりから流れてきているらしかった。
この北側の池島町には野鳥天国なるところがあるようで、気にはなりつつ東へ。野鳥天国って、分かる気がした。野鳥が飛んでくるにふさわしい感じのところだった。
けれどもう少し東に進んで行くと、ここも工場地帯になってしまっていた。右手には福栄町緑地。けれど公衆トイレの便器が取り外されたままだったり、ゴミ捨て禁止の貼り紙が目立っていたり、緑地というには緑は少なくて、微妙なところだった。
左手は池島環濠集落だったところらしい。
見渡す限りたんぼだったのだろうけれど、そこに工場が建ち、そこに向かって大型トラックが走って、野鳥の飛来してきていたのだろう田んぼは、すっかり変わってしまっていた。
外環に出る前に右手に公道が現れて、そちらに。カーブして街道らしい道だったけれど、両脇は工場ばかり。
外環の向こうに道は続いていたけれど、外環に分断されて、渡る信号はなくて、いったん南の信号で外環を渡ってから続きを進んだ。貴島病院が目立っていた。
それから横切った狭いバス通りは東高野街道。東高野街道は生駒山地の西麓部を南に向かい、高野山を目指す道らしく、ここを過ぎるとゆるい上り道になっていった。山の連なりが近かった。
前に暗越奈良街道を歩いて山に近づいていったときは紅葉の秋で、だんだん大きくなる山にわくわくした。今回は冬の終わりとあってか、わくわくはなかったな。
地名は八尾市楽音寺。楽音寺ってお寺がかつてあったからのようだけれど詳細は不明。
しばらく行くと池があり、池のほとりには田舎の一軒家だったのだろうなあと思われる朽ちた旧家があり、その横には貴島タイヤ商会の文字の消された元商店。ここの息子か親戚かが貴島病院の院長になったのかな。
道がつきあたると右折。このあたりから道はグネグネで、どこを歩いているのか分からなくなっていったけれど、素直に道なりに進んでいると南に向かっていた。途中からは池が多くて、お地蔵さんもいっぱいだった。
心合寺山古墳の案内があって、行ってみるとすぐのところに素敵な古墳があった。
そんなに巨大ではない。けれど中河内では最大の前方後円墳らしく、広い公園として整備されていた。古墳もほぼ木の生えていない姿できれいに再現され、保全されていた。芝生で覆われた部分と葺石で覆われた部分があり、円筒埴輪なんかが並べられていた。
学習館もあって、埴輪のストラップや勾玉作り体験などもできるようだった。広いわりには人はいなくて、古墳に上ってみると空が広かった。いいところだなあ。
心合寺山の名は飛鳥時代の頃、このあたりにあった心合寺からきていると思われるそうだ。心合寺、楽音寺、福万寺、お寺が多かったところなのかな。それとも寺の名で呼ばれることの多い地方だったのかな。
心合寺は河内の秦寺(秦氏の氏寺)で、秦興寺とか秦公寺とかだったのが漢字が変わったのではないかという説もあるらしい。
古墳は5世紀初め頃のものだそうだ。応神天皇や仁徳天皇の頃かな。
楽音寺大竹古墳群を構成する古墳の1つらしい。古墳群には他に西の山古墳、向山古墳などがあって、4世紀から5世紀にかけてつくられているそうだ。周辺で勾玉をつくっていた形跡があるとあって、勾玉をつくっていた人々を統べていた王だったのじゃないかという説も・・・。
玉造をする人たちは、原石を産出する地域を中心に弥生時代前から存在し、それを5世紀後半になって、朝廷が部民として組織化していったと思われるのだって。5世紀後半は雄略天皇とかの時代かな。
このあたりで原石がとれ、玉造をする人たちが住んでいたんだろうか。玉は古墳などにもよく納められているし、装飾品でもあっただろうから重宝されていたのだろうな。
このあたりはミノと呼ばれていて、ミノの王が各地の豪族に勾玉を配っていたのかも。けれど朝廷が力を強め、ミノにも手を伸ばしたのかな。
そして難波に宮がおかれると、玉作の人々は宮の近くにも住むようになって、それが大阪の玉造・・・なのかな?
古墳の北側の道を東に向かい、それからじぐざぐと交差しあう道をあちこち曲がりながら進んだ。迷路のようだったから、どこをどう進んだのかもよく分からない。
大きな旧家の建ち並ぶ高台で、なんだか別世界にいるみたいだった。
いろは文五郎の碑や向山瓦窯跡を通った。向山瓦窯跡は向山古墳だった。心合寺山古墳より古い前方後円墳だったけれど、平安時代から鎌倉時代にかけて瓦を焼く窯として再利用されて、形がほぼ残っていないらしい。
瓦窯跡は平安時代末期のものと説明されていて、わたしには見てもよく分からなかったのだけれど今も一部残っているらしく、平安時代ってやっぱりそう昔でもないんだな、と思った。
このあたりに愛宕塚古墳(これは6世紀頃の円墳)もあるようだったけれど、迷路の中で探しだす自信がなくてスルー。
向山古墳からお地蔵さんの並ぶ道を上っていった。お地蔵さんと、白黒の鳥によく会った。ピキキキと鳴いていた。
それから神立辻茶屋跡に出た。ここを右(南)に行くと玉祖神社。左には古い道標に大阪道とあった。十三街道沿いとあって、ここにはかつて茶屋が並んでいたのだって。そして茶屋の娘を在原業平が見初めたって話もあるそうだ。
今ではちょっと信じられなかった。人も車も通らないひっそり閑とした細い山道の辻だった。この先はすっかり山林で、そこを進んで山越えするのが今の十三街道だった。
辻に在原業平と茶屋の娘との「悲恋」が解説されていた。
伊勢物語という古典に、稀代のプレイボーイのあれこれが「むかし、男ありけり」と始まる物語で描かれていて、そのモデルと言われるのが在原業平らしい。天皇の孫(祖父は平城天皇、父は阿保親王)にしてイケメンで、けれど祖父は上皇になってから乱を起こした人だったから、時の天皇の政敵にはならぬよう、政界とは距離をおいて風流に生き、いろんな女性との浮名も流した。
「ちはやぶる神代もきかず竜田川」の歌を詠んだ人。
伊勢物語でも「むかし、男」が竜田川に行って、「ちはやぶる神代もきかず」と詠んだことになっていて、そのことでもモデルは在原業平だとされているのかな。別の章では「むかし、男」が玉祖神社に参拝に行って、高安の茶屋で娘を見初め、通い詰めた話があるそうだ。
それがここというわけかな。在原業平は自宅のある天理から通っていたらしい。けれど娘が釜から直にご飯を食べているのを見て幻滅。恋は終わったそうだ。
それが悲恋? と思いつつ十三街道を外れて右折。南下して、気になる玉祖神社へ。
南には下りの道だった。またこの坂を上るのか・・・と、おかあさん。
地名は神立。名前からして普通じゃないけれど、何なんだろう、この感じ・・・。この世じゃないような、時間の流れも止まっているような感じがした。
坂に建つ古い家々の間を風が吹きわたる。
玉祖神社は、そんな風の吹く上に鎮座する神社だった。階段を上っていったところにあった。
神社にもそれぞれの顔があるって気がついてきたこの頃だったけれど、ここはざっくばらんな、人徳のあるおじいちゃんみたいだった。どことも知れぬところを歩いてきた先で、「よく来たな」と現れた、地に足のついたおじいちゃん。
高安の村々の氏神だそうだ。
元々の御神体だったともいわれる男女神の像があるそうで、玉祖宿禰夫妻の像とされているようなのだけれど、女性の像は立膝で座っていて、朝鮮半島の人だと推測されるのだって。けれどこれは実は平安時代の作だと思われるそうだ。
玉祖神社の鎮座は奈良遷都の年、710年となっている。山口県の玉祖神が大阪にやって来て、住吉神を頼ったそうだ。住吉神には恩智神を紹介されて、恩智神を頼ってきてここに鎮座したのだって。
神の話になっているけれど、実のところは玉祖神を祖神とする山口からやって来た人々の話なのかな?
玉祖神はニニギの降臨に伴ってきた神の一人で、玉造の人々の祖先とされるそうだ。
710年、もう勾玉も流行らなくなっていた頃だろうな。仏教が浸透していくと、勾玉は忘れられていったみたい。
その少し前、天智天皇の時、百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、天智天皇は次には唐は日本に襲来して来るのじゃないかと恐れ、各地に砦を設置。高安にも砦が築かれて、それを高安城と呼ぶそうだ。百済の将軍の指揮の下でつくったので、朝鮮式山城というのだって。高安のどこに築かれたかは不明。
その頃高安には渡来系の高安氏が住んでいたそうだ。後漢の皇帝の子孫だとか、高麗系だとか言われているみたい。高安にも渡来人が多く住んでいて、秦氏とか高麗系の人々が多く、高麗寺も建てられていたのだって。
長い時代の間にはいろんなことがあったんだなあ。
「かつて」と一言で言うけれど、「かつて」の中には1千年とかの歴史がつまっていたりするんだな。1千年のうちのほんの10年の話なのかもしれないし、時系列にどう並べるかで違う話になったりもする。
玉祖神社の境内には黒いきれいな鶏がいっぱい放し飼いされていた。天然記念物の黒柏鶏だそうだ。
日本神話の中で、イザナギとイザナミが次々に国をつくっていったことになっている。島々を産み、本州を産み、たくさんの神々を産んだ。
神々の中では最初にヒルコを産み、それからアマテラスとスサノオとツクヨミを産んだ。
アマテラスは太陽の神。
天でスサノオが暴れ、アマテラスが洞窟の中に隠れてしまい、世界が闇に包まれたことがあった。これは困ったと神々が協議。長鳴鳥を鳴かせたり、アメノウズメが洞窟の外で踊ったりし、何事かとちょっと顔をのぞかせたアマテラスを力自慢のアメノタヂカラオが引き出した。
「アマテラスの岩戸隠れ」とか呼ばれる、有名な事件。
このとき、アマテラスを岩戸から出すために、あれやこれややってみた中で、玉祖神も呼ばれ、勾玉をつくっている。それが三種の神器の1つ、八尺瓊勾玉。
三種の神器って、アマテラスが、孫のニニギが地上に降臨するときにもたせた3つの宝で、鏡と剣と玉。天皇の即位の時はこの3つがそろわないと本物と認められなかったのだって。
そして闇の中で時を告げた長鳴鳥というのが、黒柏鶏だといわれているのだって。
山口県の佐波ってところの原産で、山口県の玉祖神社でも飼われているのだとか。
ざっくばらんでありながらただ者でない感じを漂わせ、ミステリアスなところだった。玉光滝や豊臣秀頼寄進の灯籠があった。大きなクスノキは根元に大きな石を抱え込んでいて、「男根崇拝」ってやつ。
ここと若江鏡神社、石切劒箭神社とを結ぶとほぼ正三角形になるそうだ。鏡と剣と玉の神社ね。
そういうミステリアスなトライアングルが日本のいたるところにあるそうだ。