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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
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大阪の外国人居留地

日陰を出ると、まだ暑かった。

まだ遠くに行くほどの散歩には早いかな。前回、西区がけっこう知らない世界だったので、もう一度歩いてみよう、と、今度は四ツ橋駅スタートで散歩に行ってみた。

四ツ橋は長堀川と西横堀川の交差する場所に、橋が「ロ」の形に四つかかっていたことに由来する。今は長堀川は長堀通りに、西横堀川は阪神高速下の道路になっている。


四ツ橋駅を出ると、阪神高速の下の緑道を北に向かった。

すぐに「新町橋」の碑が現れた。ここは新町遊郭があったところ。新町橋は大阪市内(当時は大阪城周辺だけが市域)と遊郭を結ぶ唯一の橋だったらしい。

遊郭は北は立売堀川、東は西横堀川、南は長堀川で、西は塀で囲われていたそうだ。遊郭って、自由に出入りできないようになっていたのだって。そして西には西大門が、東には東大門があったらしい。その東大門にかかっていたのが新町橋。

遊郭には西横堀川から新町橋(東大門)で入るか、西の門(西大門)で入るかだったのね。


新町橋を渡ると瓢箪町筋。遊郭のメインストリートであったらしい。

碑を過ぎてすぐ左折して西に向かい、新町遊郭跡に入っていった。な~んの名残もない、明るいビジネス街だった。

右手に公園(新町北公園)が現れて、そちらに入っていった。ここには「新町九軒桜堤」の碑があった。ここは九軒町だったところで、遊郭を囲う川(立売堀川かな)の堤にあたるところ。堤に桜が咲き並び、桜の名所であったんだって。

公園には「なにもない庭」の詩碑もあった。百田宗治作。明治生まれの詩人で、西区で生まれ育ったらしい。


公園を出て西に向かうと、すぐになにわ筋に出て、道路の向こうはモンベル本社。立派な高層ビルだった。

なにわ筋を北上して、すぐの東西に走る阪神高速の下(中央大通)を西に向かった。大阪の歴史によく出てくる川口ってところに行ってみるつもり。

中央大通というだけあって、道幅がすごく広かった。上には高速が走っていて、下には地下鉄(中央線)が走っている。

新町からこのあたりまで、犬をいっぱい見た。昼前とかの時間帯なのに、ラフな、けれどちゃんとした格好をした働き盛りの男の人とかが犬を連れて散歩していた。ワークシェアとかが進んできている地域なのかなあという感じがした。

すぐに阿波座駅前交差点だった。中央大通と新なにわ筋との交差点。これが、すっごく広い。道の向こうが遠くに見えた。交差点で野球だってできそうなくらい。ただ、打ち上げた球が高速道路に当たるけれど。

上を高速が5つくらい交差していて、ほとんど屋根みたいになっていた。こんな光景、はじめて。


阿波座の阿波って、阿波国のことだろう。

このあたりには阿波堀川があったそうだ。土佐堀川に薩摩堀川に阿波堀川。いろんな藩の人の集まる水の都だったんだな。

中央大通(木津川大橋)で川を渡った。

川は木津川。すぐ北を流れる土佐堀川から分かれて、南下していって道頓堀川も合わせ、大正区と住之江区の間を流れて大阪湾に注ぐ。

立派な橋だった。橋の途中で川向いに見えている本田小学校に向かって、途中で橋(中央大通)を降りていった。

橋を渡って来たから、川に近い小学校だと分かるけれど、そうでなければ気づかないかもしれない。立派な防潮堤があって、川は隠されていた。

小学校は少し高台にあり、西側に下っていくと「川口居留地跡」の碑と説明板があった。

江戸時代、ペリーが黒船でやって来た翌年、アメリカとの間に日米和親条約を結んで鎖国は終わり、下田と箱根を開港。あとはなしくずしね。4年後には貿易のための条約を、天皇の許しのないままにアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと締結。調印したのは井伊直弼。

日米修好通商条約、日蘭修好通商条約、以下略、それら5つの日本に不利だったらしい条約が通称「安政五カ国条約」。神戸、長崎、函館、横浜、新潟の開港と、東京(築地)と大阪の開市を決定した。

安政の大獄によって橋本左内が刑死したのは安政五カ国条約の翌年で、さらに翌年、井伊直弼は暗殺された。この時、44歳。


開市って、市場を開放することだそうだ。

認可制だった市場に外国の人たちも参加できるようになったってことかな?

ここ川口が外国人居留地に指定されたのだって。居留地って、外国人が家や商館を借りたり、新しく建てたりすることを認められた区域。外国人は居留地を中心として周囲10里(40キロくらい)まで自由に行き来できたのだって。

開市されると、外国人貿易商などが競売で土地を買い、完売に。


1899年(明治19年)に条約が改正されるまで川口は居留地であったらしい。洋館が建ち、外国の貿易商たちが住み、文明開化の拠点であったんだって。

やがて貿易商たちは多くが神戸に移り、今度は川口にはキリスト教の宣教師たちがやってきた。

けれど彼らも玉造などに移っていった。玉造は三の丸あたりで、多くの大名たちが住んでいたけれど、明治になってガラ空きになっていたんだそうだ。

そして次には華僑が多くやってきて、チャイナタウンになったのだって。

そうして大正の終わり頃まで流行の発信地であり続けた。今でも神戸や横浜のように、中華街のある街になっていたのかもしれなかった。

けれど大阪大空襲で焼け野原になった。


小学校の隣にはレンガの建物がすごくいい味を出して建っていた。

1919年と銘の彫られた川口基督教会聖堂。十字架までレンガで造られていた。

1881年に教会設立。この建物は1920年のものなんだって。

そもそもの始まりは、アメリカの宣教師が大政奉還後の川口居留地に居留し、英語塾を開いたこととされているんだって。この人は築地居留地では立教大学の元となる学校を開いてもいる。

隣には大昌株式会社の入る建物があって、ここもいい味を出していた。

言われないと「元・居留地」だって気づかないところだけれど、このあたりだけ少し異彩を放っていた。

このあたりに「カッフェー・キサラギ」がかつてあり、その碑も付近にあるようだったけれど、見つけられなかった。カッフェーキサラギは1910年(明治43年)に登場。日本中で大フィーバーを巻き起こすカフェーの先駆けとなったそうだ。

カフェーの第1号と言われ、芸術家の集うサロンのようなものだったそう。カフェーは東京などにもできていき、やがて、文学青年たちがカフェーの女給との恋にあこがれて、カフェーに足繁く通うようになり、それから大阪におけるカフェーの風俗化が始まった。遊郭とは違い、素人の女給さんとの逢瀬ね。そしてこれも東京へ伝播。やがては全国津々浦々までの拡がりをみせていった。

おじさんたちも足繁く通うようになり、都会にはカフェーが建ち並び、農村漁村にもカフェー・・・。どこもかしこも色街と化していったんだな。

それで茶を飲むだけのカフェが「純喫茶」を名乗るようになった。


古くからある感じの堤防の横の道を南下して、中央大通(木津川大橋)の下をくぐった。

しばらく行くと大渉橋が現れて、やっと川の姿が見えた。

ここから次に目指したのは松島公園。かつて松島遊郭だったというところ。大渉橋からは川沿いではなく、一本西側の道に入って歩いて行った。

「梅本橋」の碑があった。川口居留地と松島遊郭を結ぶ橋だったそうだ。明治元年、川口居留地がつくられ、その遊興地として開発されたのが松島(寺島から改名)。明治2年、そこに遊郭もできたのだって。

火事などがあって、すたれてきた新町遊郭に代わって、一時は関西一の遊郭となったらしい。説明板には白黒の写真もあって、「カフェー花月」などが写っていた。


松島遊郭は西には今も残る木津川があった。その木津川からかつてはこのあたりで尻無川が分かれて東に流れていて、南には新しく掘られた川があった。そうして松島遊郭は三角形に囲まれ、大門が2つ。そこに梅本橋と松島橋がかけられていた。松島公園と、その南の一帯が遊郭だったらしい。

近くに何軒も遊郭があったんだな。

堀江新地は江戸時代に始まり、明治、大正、昭和初期まで栄えた。

新町遊郭も江戸時代に幕府公認で始まり、栄えたけれど、近くに松島遊郭ができたり、大火事があったりで衰退していった。

松島遊郭は明治時代に始まり、大いに栄えた。

新町遊郭は格式高く、堀江新地は町人向けで、松島遊郭は新しいところ、そんな感じだったのかな? けれどみんな空襲で焼失。港もある市街地だったし、このあたりは標的となって早々と焼け野原になってしまったみたい。

初めて500機とかの飛行機が来襲した第1回大阪空襲で、塩草、阿波座、市岡近辺などが照準となって焼き尽くされたのだって。


松島公園の向かいには竹林寺があった。公園との間の道が尻無川が流れていたところ。

竹林寺があるのは戎島だったところだけれど、幕府が「戎」の文字の使用を禁じたとかで改名。竹林寺に「浪速津の香の梅」と呼ばれる銘木があって、それからとって梅本になったそうだ。

今では小さなお寺だった。空襲で焼けたことだろうし。けれど元はけっこう古い。

このあたりには淀川が運んだ土砂などが堆積して島がいっぱい生まれ、八十島と呼ばれていた。寺島(松島)、戎島、難波島、九条島などなど。

九条島界隈を1649年、豪商池山新兵衛らが開発。竹林寺は当時、池山新兵衛たちが建てた寺だったそうだ。

江戸時代、大阪に滞在する朝鮮通信使の宿舎になっていたのだって。

朝鮮通信使って、江戸時代に李氏朝鮮からやってきていた友好使節団のこと。日本は鎖国を行っていたけれど、琉球国と李氏朝鮮とは特例で国交があったんだって。

通信使は船でやってきて川口で外洋船を降り、6日ほど大阪に滞在。その後、淀川で京都へ。京都からは陸路などをつかい、江戸へと向かったそうだ。異国情緒漂う使節団を見ようと、沿道には見物の人であふれたらしい。

費用は幕府や諸藩もちで、新井白石が節約を勧めるまで、1回につき100万両ほどが費やされていたそうだ。すごくおおまかに言って、1両は10万円くらい。と、いうことは・・・えええええ。


松島公園と松林寺の間の道を南下すると大きな通り(みなと通り)にでて、すぐが茨住吉神社だった。

池山新兵衛たちが祀った小祠が元らしい。大阪大空襲で焼けた楠が今も神木として祀られていた。

どうして「いばら」が付くのかは、分かっていないみたい。

その他、特には目を引くものはない神社だな、と思いきや。

裏手には「松島料理組合」とあちこちに書かれていて、なんだかあやしい雰囲気だな、と行ってみた。「麻薬撲滅」「暴力団追放」なんかの文言もあった。そして、神社のすぐ裏手、飛田新地と同じような光景が広がっていた。

飛田新地でよく見る感じの建物が並び、戸口には大きく「十八歳未満立入禁止」と札がはられていた。それらしくない、普通の住居みたいな建物にも「十八歳未満立入禁止」。妙に多い駐車場には車がちらほら止まっていた。

松島遊郭は大阪大空襲で全焼し、その後、ここに移転してきて、赤線として存続したんだって。赤線って、戦後のGHQの指導で公娼制度(遊郭)が廃止になってからも、必要悪だってことで警察に黙認されていた地域のこと。

更にその後、売春防止法が施行されてからも、ホステスさんと客との自由恋愛であって売春ではないって形で今でも続いているところがあって、それが大阪では飛田の他、ここ松島と今里、信太山、滝井なんだって。


この日、歩いていて、気になる建物を見た。1階が駐車場になっている古いマンションなのだけれど、その駐車場が、かつてはダンスホールかなにかだったんだろうなって感じだった。

カフェー全盛時代、だんだん喫茶からは離れていき、カフェーと言いながら茶はないってことも多かったみたい。スタンダードの1つは、1階がダンスホールになっていて、2階から上が女給の部屋っていうところ。女給とダンスしつつ客は相手をみつくろい、部屋に消えるのだって。

カフェーはあちこちに生まれたけれど、規制がだんだん厳しくなって、廃業して文化住宅やマンションなどになったそうだ。このあたりって、探したら他にも名残の建物が残っているのかもしれない。


それからすぐ南に九条新道交差点。

九条島だったあたりなのだろうな。元々は林羅山が衢壤くじょう島と名付けて九条になったそうだ。

ここからは西にナインモール商店街を歩いた。

ちょっと昭和な感じ。西天下茶屋とかで、もっとこてこて昭和な商店街を歩いてきたから、少し物足らなかったけれど。

地下鉄中央線の九条駅にたどり着いた。中央大通りね。地下鉄だけれどこのあたりでは地上を走り、上には阪神高速。

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