足慣らし
それから暑さも幾分ましになり、住吉公園も気がつけばすっかり季節が変わっていた。
秋の虫が鳴いていた。まだ若いどんぐりが落ちていた。ツユクサが咲き、ヒガンバナはつぼみになっていた。
久しぶりだから、わたしが忘れているかもしれないとおかあさんは思っていたみたい。
けれど、忘れるわけがない。わたし用のバッグをおかあさんが持ったとき、もっと言えばそれより前から、あ、電車に乗って散歩に行くんだって分かった。だからいつもお出かけのときにわたしがバッグに入るあたりまでおかあさんをはりきって引っ張っていって、おかあさんがバッグを開けるのを待った。
そしてすぐさまイン!
バッグの中で近づく電車の音を聞く感じがなつかしくて、わくわくした。
夏の間はずっと近場を散歩するだけだったから、とりあえず慣らしで大阪市内に。難波駅で降りて、気になっていたところをいくつか歩いて回った。
まずは難波八阪神社に。大きな「顔」があるらしくて、ぜひ見てみたかった。
これが「顔」かあ、と見上げて思った。
巨大な獅子の顔があって、その獅子の開いた口の中に石舞台がつくられていた。昭和の時代に作られたもので、「獅子舞台」というらしい。
詳細はよく分からなかったけれど、「宮跡」の立派な石碑もあった。
ヤサカ(八坂、弥栄)神社って、スサノオを祀る神社だ。そしてスサノオを祀っているところって、元々は牛頭天王を祀っていたというところが多い。ここもそうで、平安時代には牛頭天王社として既にあったそうだ。
「難波下の宮」と呼ばれていたんだって。上の宮は難波神社。
篠山神社が合祀されていて、江戸時代の大阪代官だった篠山さんを祀っていた。篠山さんのことは勝間街道歩きで知った。
当時、青物(野菜)を売る許しを得ていたのは天満市場だけで、難波村の農民たちは農作物を天満まで運ばないといけなかった。
難波村の農民?と、今の難波を前にすると思うけれど、市域なんて天満あたりだけで、他はほぼ農村だった。難波も梅田もド田舎で、難波村の名産は難波ねぎ。京都の九条ねぎも難波ねぎからつくられものなのだって。
ド田舎の難波から都会の天満にねぎを運んで行くのだけれど、運ぶとなると量が限られるし、時間もかかる。青物だから市場に着いた頃には萎びれていたりして、せっかく持っていっても思うように売れない。
そこで難波村でも立売りできる公認市場を開設する許可を出してくれたのが篠山さんだったんだって。
公認市場とか関係なく、自由に売れるようになったのは明治時代になってからのことらしい。
難波八阪神社から西に少し行くと、浪速公園だった。地名は塩草。塩草というのは明治に作られた地名で、草の間から塩(潮)の香りが・・・ってところからきているらしい。海のすぐそばだったんだな。
司馬遼太郎の生まれたところ(当時は西神田町)で、戦争が終わって復員したとき、故郷が一面焼けていて呆然としたらしい。浪速公園は、空襲で焼け野原になったところにつくられた公園なんだって。
ニシナリ感のある公園で、おじさんばっかりがいた。新聞とか雑誌とか、それ以外は何も持たず、ベンチにめいめい腰掛けていた。ひとりは上半身裸で。
そして一人、髪もずっと切っていないような女性か男性か判別できない老人が、ベンチでスナックの袋から歯のない口に手を運んでいた。何も見ていない目をしていた。
公園のすぐ西に稲荷交差点。
稲荷交差点の「稲荷」は、近くにある赤手拭稲荷神社からきている地名らしい。
工場地帯で、大きな工場などの間に新しい住宅が建ち、不思議な感じのところだった。「木津川工場」と書かれたトラックが工場の前に止まっていた。
このあたりは難波と言っても木津川に近く、都心部を外れたところみたい。
赤手拭稲荷神社は小さな神社だった。なんでもこのあたりに松の木があり、その下には小さな祠があって、松に赤手ぬぐいをかけてお祈りするといいと言われていたそうだ。それが赤手拭稲荷神社になったのだって。
地名は立葉だった。塩草と同じく明治時代につけられた地名で、葦の葉が並んで立っていたから「立葉」だって。
それから南海電車の汐見橋駅に向かった。かつては賑わうターミナル駅だったらしくて、行ってみたかった。
南海汐見橋線の西側の道を北上して行くと、工場地帯の中、大丸汐見橋別館があった。元々は高島屋汐見橋別館だったのだって。汐見橋駅がにぎわっていたという時代に建てられたのかな?
そして汐見橋駅に到着。今では街中ではあまり見ない、1階建ての駅舎だった。
チン電(阪堺電車)の天王寺前駅にも似た小さな駅で、周囲を、地下にあるらしき新しい阪神電車桜川駅への入口に取り囲まれている感じだった。
かつては汐見橋駅に古い観光案内図がかけられていて、それがなかなか見ものだったらしい。けれどこの前の年だかに取り外され、小分けにカットされ、市販されてしまったそうだ。
元は高野鉄道という高野山への参詣電車の始発駅だったそうだ。高野山への最寄り駅が河内長野だったっていう頃ね。
南海電鉄に買収されてからは始発駅が難波になって、今ではこんなに閑散としている。
近くに諏訪神社があるみたいだったけれど、見つけられなかった。
諏訪神社って、全国に数多あるそうなんだけれど、わたしはまだ諏訪森神社にしか行ったことがなかった。
北条氏関係の土地に多いとかで、関西ではあまり見ないように思う。諏訪氏は北条氏の有力家臣だったのだって。それで勧請されたパターンが多いのかな。
諏訪神社を探していると、工事中のところがあったのだけれど、もしかしたらそこだったのかな? 諏訪神社は今はなく、工事中だった場所は賃貸マンションになっているみたい。
汐見橋駅からは北に向かった。
立派な大きな橋を渡って、なに川かと思ったら道頓堀川だった。道頓堀を流れている川。このあたりでは、こんなに川幅が広くて立派な川なんだな。
西に木津川が流れていて、その向こうの大正駅すぐの大阪ドーム(京セラドーム大阪)(西区)がすぐ近かった。大正区って、こんなに難波に近いんだな。
地下鉄西長堀橋駅に到着して、「木村蒹葭堂邸跡」の石碑があった。木村蒹葭堂って名の文人が住んでいたみたい。
大阪中央図書館があり、その西側が土佐公園と土佐稲荷神社だった。
神社は花見の名所と聞いていて、けっこうな広さを想像していたのだけれど、こじんまりとしていた。こんなビジネス街にあって、桜が多少とも咲くから名所になったのだろうな。近場のお勤め人が集まったら、たちまちいっぱいになりそうだった。
「飲酒宴会禁止」の立札がたてられていた。たしかに宴会したくなるような境内だった。桜の下、基地みたいな空地がところどころにあって、土佐藩の人たちはこの下で花見をしたに違いない、そう思わされた。
このあたりは土佐藩の蔵屋敷などのあった場所で、土佐稲荷神社はその神社だったのだって。
当時の桜は空襲でみんな焼けたそう。後で知ったことには、灯篭なんかも焼けた跡が残っているらしい。
桜の代わりに、芙蓉の花がきれいな季節だった。公園では虫が鳴いて、銀杏の実も落ちていた。
「岩崎邸跡」と書かれた碑があった。
江戸時代が終わって、このあたりは土佐藩出身の岩崎弥太郎さんのものになったのだって。
江戸時代、各藩は大阪に蔵屋敷をおいて商売を行っていた。
けれど明治時代になって、廃藩置県。藩は廃止されることになって、藩の行う事業も廃止。代わりに商会をたちあげて、藩が行っていた事業を継承するのがパターンだったみたい。
土佐藩からはこの人が商会をたちあげた。明治政府立ち上げのとき、後藤象二郎から得た情報で巨万の富を得て、豪商としてなりあがっていたらしい。
そして岩崎さんの商会は、やがて三菱となったそうだ。岩崎弥太郎さんは三菱の創始者というわけだった。
面白そうな生涯だった。めまぐるしく変わる時代に、いろんな有名人たちと関わり、ある時は囚人、ある時はニート、ある時は商人で、妾が数人いる男爵。
土佐公園を出ると、次には、少し引き返してあみだ池に向かった。かつて堀江新地だったあたりらしい。
東のあみだ池筋を南下すると、すぐに和光寺と阿弥陀池公園があった。阿弥陀池は和光寺の中にある池のことだった。
今や、なんでもないところのようだった。けれど、かつては和光寺の東側一帯に茶屋が建ち並び、堀江新地と呼ばれた花街があったそう。
ここで堀江六人斬りって事件が起きている。遊郭の主人が家族と芸妓さん6人を日本刀で切りつけ、5人が死亡。芸妓の妻吉さんだけが両腕を切り落とされたものの命は助かったのだって。
近くの高台橋公園で休憩した。ここには「藤井藍田玉生堂跡」の碑があった。
藤井藍田なる人の私塾、玉生堂があった跡だそう。
大阪って私塾の跡が多いな。それとも全国に多いのかな。なにかを目指し、志し、学びたかった人が数多く暮らしていたんだな。
今度は北に向かい、すぐの長堀通を渡った。地名は新町に。
長堀通には「大阪木材市売市場発祥の地」の碑があった。
木材をせりの形で売り買いするのを「木材市売」といい、ここで初めて木材の市売が行われたとされているのだって。
大阪はかつて水の都で、今は高速になっているような道や大きな通りも、多くが川だったところ。
長堀通は長堀川だったところで、木材が運び込まれていたのだって。
長堀通を渡った交差点は「白髪橋」だった。白髪橋は長堀川にかかっていた橋。土佐の白髪山の木で作られ、その名をつけたんだって。
すぐそばには鰹座橋交差点。橋の近くに鰹の問屋が軒を並べていたのだって。鰹といえば土佐で、このあたりに土佐藩があったことと関係あるのかな。このあたりに蔵屋敷のあった土佐藩や薩摩藩も、木材や海産物も扱っていたそう。
少し東が四ツ橋で、四ツ橋は長堀川と西横堀川の交差する場所に4つかけられた橋で、大阪の都心といえば四ツ橋というほどにぎわっていたらしい。
そして新町にも遊郭があったのだって。1丁目と2丁目あたり。長堀川と塀とに囲まれた日本有数の遊郭だったらしい。
大坂夏の陣で大阪城が落ちた後、徳川秀忠(家康の三男)によって新しい大阪城と町がつくられていった。そのために多くの武士たちも動員されて、そんな彼らのために遊郭をつくったのが始まりらしい。
道頓堀や阿波座などの遊里を集結させたのだって。江戸幕府公認の最初の遊郭だった。
夕霧太夫という名妓(25歳くらいで病死)などを生んだそうだ。井原西鶴や近松門左衛門らの物語にも描かれたのだって。
一時は遊女が2200人って・・・こんな狭いところになあ。
ここも今や何の気配も残っていなかった。
新町遊郭は1890年の大火事などもあって衰退していったらしい。おまけに空襲でみんな焼けたのだろうな。
新町の公園はスーツを着た男の人だらけだった。住吉団子の店も見つけた。1893年創業だって。
こんなところに住吉団子?と思ったけれど、南の道頓堀川には住吉橋もかかっているのだって。橋の上から住吉の高灯篭が見えたからだそうだ。まじか!?
高灯篭が今のハルカスみたいな存在だったのね・・・。
もっと北上して行ったら、サムハラ神社なる神社があった。
漢字で名前が書かれてあるけれど読めなくて、どうやら漢字じゃなく「神字」とかいうのだって。さむはら大神(この近くに荒れ果てた小さな祠があったけれど、それらに祀られた神さまたちらしい)を信仰していた岡山の人が、戦争でも生き残り、みんなにもこの恩恵をっていうので自費で祀った神社らしい。
何年かして、一時期テレビでよく名前を聞いた。神社の人が逮捕されてしまって。
そして靭公園に到着。
何度目かの靭公園には「靭海産物市場跡」の碑。
最初は、こんなところに市場があったというのもあまりピンとこなかった。
けれど今は、少し分かってきた気がする。目の前にあるものに惑わされてはいけない。難波がねぎ畑だったにしても、コンクリで覆ってビルを建てたら変貌する。今どんな姿であっても、遠い昔には美しい海岸だったり、のどかな里山だったり、遊郭だったり、桃の咲く渓谷だったりしたのだ。
靭公園は永代浜なる浜だったところで、各地から鰹節や昆布、肥料になる乾鰯なんかが船で運ばれ、海産物の問屋が数百軒も建ち並んでいたそうだ。
・・・数百軒!? まじか!?・・・いやいや、目の前にあるものに惑わされてはいけない・・・。
靭公園からは地下鉄で帰途についた。
地下鉄では、旅行者ではなさそうな、普通にバッグを持った二人連れの女性が韓国語で話していた。
今回の散歩は、そういえば国際色豊かでもあったな、と思った。公園にいた園児たちは英語で話していたし、ところどころにあった教会には中国なんとかと名前がついていた。
人が多いだけにいろんな人、いろんな国の人がいるんだなあ。
たいした距離ではなかったけれど、やっぱりまだ暑かったし、久しぶりだったしで疲れてしまった。
わたしは途中で何度もバッグに入れてもらって休憩していたから、運んでいたおかあさんもわたしの重さで疲れちゃったみたい。都会の散歩はやっぱりあまり面白くないしね。




