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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
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亀岡街道を淀川から

左手に浄水施設関係のなにかだろう、ちょっと古そうな建物群があった。「体験型研修センター」と書かれていた。

淀川ゴルフクラブが途切れたところで、人の渡れない橋が現れた。橋の上にはパイプ。水が渡る橋なのかな? パイプラインらしいのだけれど、水道設備のことはよく分からない・・・。河原には素敵に古いレンガ造りの小さな何かもあった。


そこを越えると「淀川河口より11キロ」の表示が現れて、ウグイスの鳴き声が聞こえ始めた。

左側の道路は東淡路1丁目交差点。お父さんと、その前に乗った小さな男の子のバイクが信号待ちをしていた。お父さんとツーリング。わたしがおかあさんと散歩するように、いろんな楽しみ方がそれぞれにあるんだなあ。

ここで14号線は向きを変えて、堤防に並行するのは細い道になる。

モノレール(これが門真南につながるモノレールかな?)の踏切を越えると、左側に分かれていく道に入っていった。信号もない道で、踏切の遮断機が降りている間に、車の間を向こう側に渡った。

てくてく行くと、つき当たりに古い道標が現れた。「左 大さかみち」、反対には「ずいかうじ 観世音菩薩」。歴史の散歩道の舗装が始まっていた。

右には淀川の堤防で、ここは左に。


ここからほんのしばらくは旧道が残っていて、ふる~いおうちもいっぱいだった。交差する道も魅惑的。散歩していて面白いところだった。地名は菅原。

菅原天満宮もあるようだし、菅原道真公からとったのだろうな。太宰府に左遷されていくとき、淀川を船で下ってきて、このあたりで村人の招きに応じて上陸したんだとか。

左手に素敵な煉瓦塀が残っていて、行ってみた。すると今度はその左手に大きな木が見えていて、行ってみた。

近づけば近づくほど大きいその木は個人宅のクスノキのようで、保存樹と銘打たれていた。そしてその個人宅(1844年建築)が広い。塀の中に、古そうな建物がいくつもあった。井戸だって見えた。

ここって大阪市内よね・・・と思いつつ街道に戻って続きを歩くと、またつきあたり。ここにも古い道標があった。右には「正観世音瑞光寺道」、左には「吹田富田茨木道」。

この道標の後ろの家が、またすごいいい味をだしていた。塀に瓦やらが一緒に塗りこまれていた。堺のお寺でも見た、古さも一緒に塗りこまれているみたいな土塀。一柳いちりゅうさんなるお宅だった。

その先祖は江戸時代、低湿地で度々洪水で悩まされていたこの地域に排水路(中島大水道)をつくることを幕府に嘆願した3人の庄屋のうちの一人だそうだ。

なんやかんやで結局許しが出ず、3庄屋の責任で工事を決行。他でも幕府の許しを待たずに・・・という話は散歩の途中、河内なんかでもあった。そして庄屋は牢死とかいう話。

この3庄屋はどうなったんだろう?と思ったら、幕府の怒りを買い、3人で抗議の自決をなさったんだそうだ。

それで幕府もやっと許したのだって。そんな時代の村の結束って、強いものがあったのだろうな。


えらく案内される瑞光寺にも行ってみたくなった。でもここより十六丁とあって、またの機会にした。まだ「丁」と「里」の区別がいまいちついていなかったんだな。今思えば十六丁はたかだか1キロほどだ。

左折すると、亀岡街道の新しい道標が現れて、「高麗橋から6.14キロ」とあった。広い車道に出ると、信号を渡って直進。和合公園があって、「わがふはし」の親柱が残されていた。

かつては水路もいっぱいで、橋もいっぱいあったのだろう。


そのまま進むと、また広い道(14号線)に出て、亀岡街道の説明板があった。北摂丹波の薪炭、寒天、農産物などを大阪市内に運ぶ道で、高槻街道とも呼ばれ、にぎわっていたのだって。江戸や明治の時代かなあ?

ここで右折して、14号線を北上していった。このあたりは旧道が消滅しているみたい。菅原4丁目交差点で左折。

すぐに現れる阪急京都線の高架下をくぐった。地名は下新庄。このあたりは、普通の昭和にできた感じの住宅街だった。

しばらく行くとまた高架下で、この上は新幹線の通り道らしい。くぐって、道の続き、右斜めの道へ。ここらには町工場があった。

すぐにつき当たって、左折。六辻くらいの辻に出た。ここは前方の、少し上りになっている道へと進む。このあたりもちょっとした工場地帯だった。

上新庄交差点にたどり着いて、ここから吹田市みたい。


交差点の向かい側に地蔵さんがいて、そっちに進んでいった。

地名は東御旅町。でも普通の住宅地で、ちょっと飽きてきた。雲の晴れ間に日が射すようになっていて、個性のない暑い町だなあと思えてきた。

神崎川が現れて、高浜橋で渡っていると、変な匂いがした。どこか近くの工場からの匂いだろうか。

橋の下で川が合流していた。片方は、神崎川。この東の八雲あたりで淀川とつながっているみたい。もう片方は、ここで神崎川に合流してくる安威あい川。

このあたりもデ・レーケが指揮をとって治水工事が行われたところだそうだ。日本の土木に多大な影響を与えた「お雇い外国人」デ・レーケね。


川を越えると、マンホールの絵に万博の「太陽の塔」が現れた。「和平」「文化」|(かな?)と書かれたものが道路に埋め込まれていた。

なかなかに古い町で、ちょっと散策してみた。あちこち歩きたくなるところだった。古い家もいっぱいあった。吹田ってこんなところだったんだ。

ここは「宮の前通り」というらしい。右手には「吹田歴史文化まちづくりセンター」なる、庄屋の屋敷跡だという施設があった。案内されている「浜屋敷」方面へ歩いて行ってみると、奥の方まで旧家が続いていて、ここも面白かった。

観音寺もあった。行基が開いたと伝わるそうだ。行基は神崎川の河口に港(河尻泊)を造っているらしいし、信ぴょう性は高いのかな。


宮の前通りを挟んで向かい側にも引き寄せられて、うろうろ歩いた。表札には高浜さんが多いなあと思った。鴻池さんもいた。大雄院などがあった。

宮の前通りは、高濱神社に続くからそう呼ばれているみたい。神社の方に進んでいくと、神社前の交差点に説明板があった。西に行けば吹田街道、北に行けば千里街道(千里街道から分岐して更に東吹田街道と亀岡街道)、高浜はその交点であるらしかった。

街道の要所で、たいへん栄えていたんだって。

高濱神社はいろんな神様が一緒になった神社だったけれど、元々はかつて住んでいた次田すきた連の氏神だったのだろうと言われているみたい。

次田連は河内国を拠点とした氏族で、祖神は天火明命とその息子の天香山命。

神社自体はそんなに印象的ではなかった。神社よりも、周りの町のあり方が印象的だった。神社後方をぐるりととりまくような町だった。かつて一体になって賑わっていたんだろうな、という感じがした。もっといえば全部で1つのものだったんじゃないかな。

神社前方はまたちょっと違った雰囲気だった。そのあたりにはかつて藤原氏の吹田殿なる山荘があり、天皇もやって来たそうだ。淀川から神崎川を下ってきたのかな。


神社の右側の道を歩いていくと、「亀岡街道・六地蔵道標」に出た。

ここを本当は左に歩いていけばよかったのだけれど、間違えて右に行ってしまった。

右に行くと次に「南町道標」。ここが垂水方面に向かう吹田街道との分岐点であるらしかった。

それからは、とても雰囲気のある道だった。宮前通りから行った浜屋敷あたりと同じように古い家々が建ち、ひっそりと存在しているだけに、より雰囲気があるように思った。・・・というか、実はここは浜街道の続き。そのまま行くと浜街道を通り、神崎川に戻ってしまった。

どうやらさっき歩いた神崎川からの道は、後世、橋ができてからの亀岡街道。もっと前にはここにあった「吹田の渡し」で神崎川を渡り、高濱神社にこの浜街道で向かっていたみたい。つまりはわたしたちは間違えて、古い方のルートで吹田の渡しに向かっていたというわけ。ナイス!


吹田の渡し跡は今は人もあまり通らない、静かなところだった。川も下の方を流れていて、何の変哲もない川に見える。

かつては三国川といったそうだ。

平安京に遷都した桓武天皇は、母親が百済系渡来人の家系で、その地元は交野。そこは淀川の悪水(洪水などの原因になる水)に悩まされていたらしく、摂津職だった和気清麻呂に対策工事を命じた。和気清麻呂は大阪湾に注ぐ三国川を淀川とつなげ、淀川の水がより排出しやすくな

るようにした。

そして三国川は、後に神崎川と呼ばれるようになったのだって。

平城京から山城への遷都も視野に入れてのことだったみたい。それまでは、難波津~淀川~大和川(かつて生駒の西などで淀川とつながっていた)~平城京というのが水路のメインルート。

難波には平城京の副都の難波京があり、そこには渡来人が多く住み、寺院や倉庫、外交施設(使節が滞在する施設など)が建ち、船が多く出入りしていたらしい。

海外からの使節がやって来るほか、西国からの物資(大寺院や貴族の「荘」でとれたものや、税など)も運び込まれていた。そしてそれが、淀川、大和川から平城京へと送られていた。にぎわう難波には、難波市なる市もたてられていたそうだ。江戸時代の「天下の台所」の姿が、すでに奈良時代にも垣間見られたのね。

有力豪族たちも難波にこぞって倉など建て、拠点のひとつとしていたみたい。難波に住み着いていた渡来人には、秦さん、吉士きし(吉志)さん、百済王さん等々がいた。


けれど桓武天皇によって山城(秦氏が開拓した土地だそうだ)への遷都が行われ、難波は副都でなくなった。

瀬戸内海から(西国や朝鮮半島などから)都への水路ルートも、「難波津~淀川~大和川~平城京」ではなく、「川尻(三国川の河口)~三国川~淀川~長岡京(後には平安京)」となったんだって。

そして三国川流域はにぎわった。吹田も。西国街道に亀岡街道という陸路の幹線道もあったし。

特に神崎は賑わって、遊女なども多くて有名だったんだって。それで「三国川」よりも「神崎川」という名が定着していったのかな。

後に明治8年に有料の高浜橋ができて、吹田の渡しは終焉。その有料だった高浜橋の後裔が、目の前の上高浜橋であるらしかった。


どうして「難波津~淀川~山城」ではなく、もう少し北の「川尻~三国川~淀川~山城」がメイン・ルートになったんだろう。難波津からだって、淀川を通って山城に行けただろうのに。

一般的には難波津に土砂が堆積して港湾の役目を果たさなくなったからと言われているみたい。でもそれは疑わしいという声もあるみたい。

土砂の堆積のせいであったかもしれないけれど、他にもいろいろ仮説はたてられるなあと思った。

津波が押し寄せて、難波京や難波津が修理を要して、この際だから別の地に移したとか、淀川と難波津の間が洪水で使えなくなったとか、西国街道や亀岡街道からの物資が多くて、両街道に近い三国川が多く使われるようになったとか、方位の関係とか、難波津界隈の有力者と距離を置きたかったとか、有力豪族からの三国川への誘致があったとか。

誘致したとしたら吹田氏関係なのかな。吹田(次田)氏は戦国時代に敗れて滅んでしまうまで、ず~っとこの地に住んでいたみたい。

奈良時代には行基によって次田堀川もつくられているのだけれど、行基もまた豪族の誘致があって土木工事を行っていたみたいで、行基にも吹田氏からの誘致があったのかな? それで河尻泊も造成したのかな?


六地蔵道標まで戻り、続きを歩いた。

六地蔵道標からはカラー舗装された道を進んでいくだけでよかったみたい。

このあたりは、そんなに古さを残していなかった。しばらくして信号に出ると、旧道は消え、カラー舗装も途絶えた。左に行くとJR吹田駅。

駅を中心に大幅に開発された感じだった。元は駅周辺は森だったところらしかった。すぐそばには、清流があるからっていうのでこの地に建てられたアサヒがある。

吹田駅を地下道で越してからじぐざぐ北東に進んで、14号線に。

地名は片山町だった。ここに来るまでの街道の説明板で目にした、昔からあったらしき集落。


14号線の左手は上り坂ばかりで、高台になっているみたいだった。千里丘陵ってやつかな?

自衛隊のジープが走っていた。

天道町交番前交差点で左折。「天道町交番」なる交番はここには見当たらなかった。

ここからは旧道が残っているようだった。道がカーブしながらいりくんでいて、地蔵もいる。道なりに右に曲がって進んだら、また14号線(天道交差点)に。

このあたりは、14号線の脇道に旧道が残っていて、14号線にも出つつ、旧道を歩く感じ。

天道交差点からしばらくは14号線の右側の道を進み、14号線のライフ前に出たら、ライフを越して、それからは14号線の左側の道を道なりに進んだ。


天道町交差点からはなんだかアラぶっている感じがした。なんだろう、この下町感・・・。と思っていたら、名次神社が現れた。小さな神社で、隅には小さなお地蔵さんたちも並べられていた。

そして彫られた文字に思い切り手書きの文字で黒く上書きを施している、この感じは・・・城北公園や矢田の神社で見たものと同じだった。

ライフを過ぎると左折し、すぐに現れる保育園前を右折。14号線の左側を歩いていった。

このあたりには古い家も多いのだけれど、もう、市街化にとりこまれて、あまり古さを前面に出せないでいる感じがした。

「鉄砲」なんて書かれた元商店らしき建物もあった。


そして左手に大きな鳥居が現れた。

これは大物だぞ、という感じがして、左折して鳥居をくぐって行ってみた。もう1つ鳥居があり、左に祠があって、壊れかけの妙見宮だった。

それから両脇に松の植えられた道に。参道と思われるのだけれど、両脇に普通にマンションやら家やらが建ち並んでいた。だいぶ慣れてきたけれど、参道だったらしきところまでが市街地になっている。

かつては「馬場」と呼ばれた道らしかった。直径1メートルくらいの大きな樹が根元で切られていた。大きなユーカリの木があったそうだから、それが切られたってことかな。生存するユーカリの姿を見られなくて残念だった。

広い道路も越した向こうに、やっと神社が現れた。吉志部神社だった。名次神社も元々はこの神社の旅所だったんだって。


山があって、そのあたりがみんな紫金山公園になっていた。その中に吉志部神社があった。

地名が岸部北なのだけれど、岸辺にあったから地名が「岸辺」になったのじゃなくて、吉志部きしべからきているみたい。

公園には神社の他、吉志部瓦窯跡や古墳、池、博物館、遊具などもあって、探索すると面白そうなところだった。広すぎて、わたしたちは神社の周囲を散策しただけなのだけれど。


神社は、応神天皇の時代、大和の瑞籬(10代崇神天皇の磯城瑞籬みずかき宮のことかな?)より奉遷(引っ越し)したと社伝にはあるらしい。

応仁の乱で焼けた後、江戸時代になって、新羅からの渡来人、難波の吉志一族の子孫により再建。

応神天皇の時代、大勢の渡来人がやってきた中に吉志氏がいて、難波の他、このあたりも拠点としていて、神社も祀っていたんだろうか? それで吉志部神社といい、一帯は「岸辺」となり、焼けた神社も吉志一族が再建したのかな?


瓦窯跡では、平安京造営に使われた瓦なども焼いていたんだって。

瓦って、飛鳥時代に百済から伝えられて、最初は寺院限定で用いられていたそうだ。今の基準で言っても飛鳥時代の瓦は最高級品で、もう作れないくらいのものだったのだって。青く塗られて、奈良の都を彩ったそうだ。

平安時代の頃になると、寺院以外にもいろいろなところに瓦が使われるようになった。大量生産されてだいぶ質も落ちてしまったそうだ。

以前から千里丘陵では泉北と同じく須恵器が大量生産されていて、その次には瓦が作られるようになったみたい。それらを運ぶのにも三国川は便利だったのかな。


紫金山公園は広すぎてか、あまり手入れの行き届いた公園ではなかった。

池を見下ろそうと高台に上がって行ってみたのだけれど、草ぼうぼうで展望がひらけず、池も見られなかった。

明治時代、ドイツ(当時はプロイセン)の皇族が神戸に滞在していて、この池にお忍びでやって来て、鴨の密猟をしていたらしい。神域で猟!?っていうんで村人がなぐりかかり、後に国際問題になったんだって。

そして気になる貼り紙があった。

「本堂が燃えた不審火についての情報がありましたら・・・」という警察の貼り紙。

平成20年、国の重要文化財だった本堂が、不審火により全焼してしまったんだって。再建工事は、金剛組が請け負ったそうだ。しかしなんてもったいない話。重要文化財登録も取り消されたそうだ。


亀岡街道に戻り、しばらく行くと正雀川。

この川を南に行くと阪急京都線正雀しょうじゃく駅。

このあたりの川がまっすぐだったので、古代の条里制での線引きに利用され、「正尺川」と呼ばれていたのが「正雀川」に変わったと言われているみたい。

川を越えると摂津市だった。

左手に市場池公園が現れた。市場池なんて名前になったのは、市場があったからなのかな? よく分からなかったけれど、近くに「山田市場」という交差点があるみたい。

このあたりのことって、ちょっと調べてみてもよくわからないことが多かった。近くの安威川が氾濫したとか、乱で燃えたとかで、記録があまり残っていないのかな?

なんでもこのあたりには熊野神社もあったようなのだけれど、やっぱり詳細は不明で、本当にあったかどうかさえも定かではないんだって。


しばらく市場池公園で過ごした。近所の人たちが憩いに来ている感じの、けっこう広い公園だった。

それから山田川も越えた。

この辺りでは、亀岡街道が市の境になっているようで、右は摂津市、左は吹田市。

市場池公園にあった説明によると、公園の西側で分岐する道を左に行くと小野原街道らしかった。その道はさらに分岐して山田道となるんだって。山田川を少し北西に行くと山田のようだった。

山田道は亀岡街道についての説明板によく出てきたワードの1つだった。山田川沿いには古くから集落があり、山田村は吹田村と同じくらい大きな集落だったんだって。

そして山田には倭姫命が住んでいたことがあるらしい。古い時代、今は伊勢神宮にいるアマテラスは天皇の居室に祀られていたそうだ。10代の崇神天皇がこれは世の乱れる元だとして、アマテラスを娘にたくし、祭るべきところを探して祭れと言った。すぐには見つからず、あとを継いだ11代垂仁天皇の娘、倭姫命が伊勢にアマテラスを祀った。

倭姫命はヤマトタケルのおばさんで、ヤマトタケルに草薙の剣を渡した人。最後に伊勢に決めるまでに、アマテラスを祀る場所を探し歩き、この地にも1年ほどいたことがあるのだって。

その頃、千里丘陵あたりは山田が原と呼ばれていたそうだ。


このあたりでは変わった苗字が多いような気がした。

水田もあって、古い集落の感じだった。そして人懐っこい子が多かったように思う。「わんちゃん」なんて何度かバイバイをされた。子どもが比較的多い町なのかな。

吉志部神社で思いがけず時間を費やしたので、その後は急ぎ足で、山田あたりは早足で通り過ぎただけだった。

亀岡街道を須佐之男命神社まで歩いて、JR千里丘から帰途についた。

急ぎ足で、そのへんのことはあまり覚えていないくらい。この夏の散歩(ロングver.)はもう諦めた。

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