亀岡街道を高麗橋から
高麗橋を東に向かい、すぐの松屋町筋に出ると左折した。
このあたりにも大林組旧本店ビル(大正15年竣工)など素敵な建物があった。別名「ルポン ドシエルビル」。高麗橋野村ビルディングや住友ビルディングなども施工した大林組の、自ら手がけた自社ビルだったらしい。
すぐに天神橋交差点があり、その向こうを土佐堀川が流れている。橋の下に八軒屋浜。難波津の推定地の1つ。ここから北は松屋町筋は天神橋筋と名前が変わる。
天神橋を渡っていった。中之島の東の端を通る橋なので、土佐堀川があり、中之島があり、堂島川があって、向こう岸にたどり着く。橋からは川岸に降りていける階段や、中之島に降りていける階段があり、その下はどこもみんな緑でいっぱいで、素敵なところだった。
橋を渡りきると、天神橋筋は左にカーブしていくけれど、まっすぐ進む道を行く。しばらく行くと天神橋筋商店街。1丁目商店街から6丁目商店街まである日本一長いアーケード商店街だ。アーケードがあって日陰だし、ときどき店内の涼しい空気が流れてくるし、快適だった。
地名は菅原町に天神橋。京街道に続いて道真公縁のところなんだな。
素敵な商店街だった。
大手チェーン店も多いけれど、素敵に個性的な個人店も多かった。ちょっとした気の利いたプレゼントも調達できそうなところだった。なんでも売っていて、銃の店まであった。目に付いたところでは、コーヒー豆の店、ベーグル専門店、ドーナツ屋さん、扇町プリン(まだ午前中なのにぷりんソフトは売り切れ)・・・。
行列のできている安いお店なんかも多かった。がたいのいいニューハーフのおねえさんがおじさんと歩いていった。そんななんでもあり感が楽しいところだった。
亀岡街道沿い(おまけに大阪天満宮への参詣道)に発展していったところが天神橋筋商店街であるらしい。
こんな商店街になるなんて、どれだけ賑わっていたんだか。大阪の人々がお金を落としていくところだったのだろうなあという感じがした。
途中、右手に大阪天満宮が見えて、行ってみると表大門だった。天満宮には6つの門があるらしく、ここは東側の正門。バッグに入って天満宮へ。
ここにはかつて大将軍社があったのだって。
難波京の守護神だったらしい。大将軍神って、陰陽道で方位の神様だそうだ。避けるべき方角に置かれる神さま、という感じかな? 平安京造成のときにも、東西南北に4つの大将軍神社が置かれたらしい。難波京にも他にも3つ置かれていたのかな?
そして大宰府に左遷されて行く菅原道真が道中、大将軍社を訪れたんだって。八軒屋浜からも近いものな。
道真公を重用した宇多さんの息子が天皇(醍醐天皇)だったころの話。そしてその息子の村上天皇の勅命で、この地に道真公が祀られた。
それほど大きい神社ではなかったけれど、見所がいっぱいで面白かった。
「菅原道真の一生を十五場五十体の博多人形でたどる」という常設展示もあった。
戦後すぐに作られたもので、文化財らしい。大阪天満宮に贈られていたのだけれど、しまいこまれていたので、常設展示することにしたんだって。古びていたけど、それがかえって昔めいていて、印象的だった。
いろんな奉納の絵が展示されているところもあって、興味深かった。
「宅間流算術」とか。なんのことかさっぱり分からないけれど、響きだけでもなんだか素敵な感じ。タクマリュウサンジュツ。
碑もいろいろたっていた。「大阪ガラス発祥の地」「神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑」「西山宗因向栄庵跡」。
西山宗因って、芭蕉より少し前、江戸時代前期の俳人らしい。大阪天満宮に連歌所があって、そこのお師匠さんをしていたのだって。
「天神の水」が飲めるようになっているところもあった。
「大阪四ヶ所の清水」の1つで、他に「千日前 福井の水」「道頓堀 秋田屋の水」「聚楽町の愛宕の水」があったんだって。
大きな看板がいっぱい立て置かれているところがあった。出番を待っているようで、「天神祭につき通行禁止」「う回」とか大きな文字で書いてある。あっ、テレビで聞く天神祭の天神って、ここかあ!と、その時、初めて気がついた。
大阪に住むものには犬とは言え常識かな。3歳前にしてやっと知った。
北側には星合池があって、茶屋(うどん屋)も出ていた。
これは「星辰信仰」によるものなんだって。太陽、月、星を神と仰ぐ信仰のことらしい。妙見さんも星辰信仰によるもので、北極星を菩薩と崇めているそうだ。
それがどうして天神さんに・・・と思ったけれど、商店街だって、いろいろあるほうが楽しい。同じように、お参りが楽しいお出かけコースの1つだったらしき時代、いろいろくっつけちゃったんだろうかな。
戎神社なども祀られていた。ここの戎神社は、えびすさんじゃなくて蛭子を祀っていた。わたしの知っている限りでは、大阪湾岸のエビス神社のあるあるだな。
淀川が流れ、八軒屋浜もあって、上町台地の北にあたるこのあたりは、古くは海辺だったりしたんだろうな。
商店街に戻って北上をつづけた。
広い通りに出て、ここが国道1号線(曽根崎通り)。すぐ左には地下鉄堺筋線南森町駅。右にはJR東西線の大阪天満宮駅。
東海道57次が国道1号線になったんだな。
このあたりから、商店街の「ちょっとした気の利いたプレゼントも調達できそうな」感じは薄れていった。大阪のよくある商店街の感じ。
地名が紅梅町に松ヶ枝町。それから与力町に同心。与力や同心が住んでいたっていうところね。与力や同心は町の治安維持にあたるお役人さん。
また広い道に出て、上を阪神高速が通っていた。
そしてここでまた、雰囲気が変わった。左手には地下鉄堺筋線扇町駅への入口があり、扇町公園も見えてきていた。
近くには夫婦地蔵。説明によると、ここに夫婦橋がかかっていたそうだ。天満堀川が流れていて、そこにかかる橋だったんだって。
とある夫婦がいて、3年後に帰ってくるよと言い残し、夫が家を出たそうだ。けれど3年経っても戻ってこなくて、妻は池に身を投げて死んでしまった。その直後に戻った夫がそれを知ってあとを追った。近松門左衛門もお話の題材にしているそうだ。
その池を「女夫池」と言い、そのあたりに出来た橋を夫婦橋と呼んだんだって。「夫婦」と書いて「めおと」と読むのは、元々は「女夫」からきたのかな? そして夫婦橋付近では夫婦箸を売るお店なんかが出ていたのじゃないかな、とか思った。
女夫池は埋め立てられて正善院(妙見さん)が建てられ、詣でる人で賑わったそうだ。
このあたりは天満宮だけじゃなく、お寺も多くて、いろんな寺院に行く人でおおいに賑わっていたらしい。
近くに妙見さんがあった。ビルに挟まれてはいたけれど、ちょっと雰囲気が違っていたから気づいて、見上げてみれば正善院だった。
それから扇町公園に寄った。広い公園で、一部を歩いただけなんだけれど。意外なことに高低差もあった。
小山に上り、木陰で、天神橋筋商店街で買っておいたドーナツとコロッケなど食べた。
う~ん・・・。行列ができていたお店のコロッケは、衣は揚げたてだからかりかり美味しいけれど、中身はよくある、水っぽくて安っぽい味(この頃、味にうるさくなってきたな)。ドーナツ専門店のドーナツは、作り置きしたものだな、これは・・・。人通りが多いからやっていけるけれど、田舎でだったらお客がつかなそうな感じがした。
しばらく木陰で休憩した。
公園の道は、ほとんどの場所をコンクリートで固められていた。なのに木が茂り、風にそよぐ。コンクリートで固めなければ、きっと草木でぼうぼうになるのだろうな。
それからまた、商店街に戻って続きを歩いた。
そしてJR環状線に行き着いた。すぐ右手に天満駅。
かつて環状線の内側あたりだけが大阪市内だった時代があって、大大阪と呼ばれる繁栄をし、仕事を求めてやってきた人々などで膨れ上がり、市内ではないけれど市内に近い環状線の外側にスラムが形成されていたっていう、そんなJR環状線。
ここを越えていくと、確かに、うわあ~と思うものがあった。
あふれる人と店。店はてんでばらばらに広がった感じで、細い路地にもごちゃごちゃと続き、そのごちゃごちゃした路地に人がごちゃごちゃと入り込んでいる。こんなに熱気を残すところも、もうそんなに残っていないのじゃないかな。
左手に天五中崎通商店街の入口が見えるところで右折。
天神橋筋商店街はまだ続くけれど、離れていった。天五中崎通商店街は、中崎町に通じているのだろうな。
すぐに左折。またすぐに右折。それからはこの道をずっと進んでいく。
このあたりもちょっとした商店街になっていた。天神橋筋商店街の周りにも派生した商店街がいっぱいできて、辺り一帯全部が商店街だった感じだ。
都島通に出て、ここも越えて道なりに進むのが亀岡街道。
ここでまた寄り道したのだけれど、その話はまた後で。
地名は菅栄町だった。菅公のおかげで栄える町で、菅栄町。ここもちょっとした商店街みたいで、長柄中通商店街とあった。少し独特な雰囲気だった。
環状線の周りに出来たっていうスラム街。都島通あたりまではすっかり都会になっていて、そんな気配もないけれど、ここまではまだ都会の波が来ていない、というか・・・。
キムチの店、自転車屋、鉄くず工場のようなところが、昔のままのような姿であった。左手に豊崎東会館、その横には「おおよど」と書かれた何か分からない建物。ここもなんだか独特だった。自立センター的なところだったけれど、封鎖されているようだった。
帰ってから調べると、豊崎東会館は市立の勤労学校があったところだそうだ。
まだ義務教育が始まる前の大正時代、学校に通えない子どもたちのためにつくられた学校らしい。勉強よりも、手に職をつけさせて、仕事ができるようにするのが狙いだったみたい。
「おおよど」が建っているのは「心華婦人会館」の跡だって。
右側にはず~っと続く大きな墓地があった。大阪市設北霊園、通称長柄墓地。阿倍野墓地と同じ頃につくられたらしい。当時の大阪市内は今のJR環状線内あたりだけだったから、まだ人の押し寄せる前の、人家もあまりない田舎だった阿倍野や長柄に大規模な墓地がつくられたというやつね。
後には工場が林立し、職を求める人々が押し寄せ、スラムもできた。川に近いだけに、家を持たず、舟で暮らすような人びとも多くいたらしい。
それまでは、人口の爆発的増加なんてなかったそうだ。人口が増えても生きていけないから、ずっと同じような人口でやってきていたんだって。
それが、その頃にはどんどん増えた。7人兄弟とかも普通だった。食べる口が増えても、なんとかであっても、生きていけるようになった。それが産業革命だな。
墓地に向かい合う左側には新しい大きなマンションが建っているところだった。高層のきれいなマンションだった。
斎場があり、大きな銭湯(なにわ湯)があった。
それらに囲まれるように長柄西公園があった。大きな建物に囲まれて、閉塞感のある日陰の公園だった。真上を飛行機が飛んでいく。
時々、かなり古いアパートなんかも現れた。
そして長柄中交差点で城北通りに。この間行った城北公園は、ここを右に進んで大川を毛馬橋で越えてずっといったところ。
左手に長柄八幡宮があった。1000年くらい前の鎮座だそうだけれど、新しい神社だった。
相殿が出雲神社(祭神は大己貴大神と少彦名大神)であることに個人的に注目した。京街道の八雲で弥生時代の玉作りの工房跡があるのを知ってから、淀川流域と出雲を結びつけたくなっている。
長柄から大川(古くは淀川)を遡っていくと、八雲にたどりつく。
なんだか下町っぽくて、おしっこ臭いなあと思いつつ道の続きを行くと、いきなり川の堤防だった。
ここが面白いところだった。
大川(旧淀川)と新淀川との分岐点で、船が頻繁に行き来していた時代の施設がそのまま残されていた。
「淀川旧分流施設」といって、国の重要文化財にも指定されているらしい。大規模な施設で、野外の工場見学(稼働してないけど)みたいだった。
もっと見学の人がいてもいいと思うのに、土手道散歩の途中で休んでいますという感じの人が少数いただけ。交通の便がよかったら、もっと人が観光に来ているだろうになあと思った。
あちこちにいろんな説明が書かれていた。
淀川は今の大川(旧淀川)でもわかるように、このあたりで大きくカーブを描き、水害を多く引き起こしていた。
琵琶湖に注ぐ川は幾多あるのに、集まった琵琶湖の水を海まで流す川は唯一淀川しかなくて、しょっちゅう氾濫していたんだって。どうにかしないとと言われつつも工事は先延ばしにされ、明治18年、大洪水が起きる(明治大洪水)。淀川の堤防が次々に決壊。大阪市内も上町台地以外はほぼ水に浸かってしまった(最高水位4メートルだって)。
散歩で行った野江のお地蔵さんもこの時のものみたい。汚物も水に浮かぶというような不衛生な状態になり、コレラなど伝染病も流行。
大橋房太郎なる「治水翁」と呼ばれた政治家がいたんだって。大阪出身で、東京で書生をしていたんだけれど、大阪の惨状を知って大阪に戻り、議員となり、私財を投げ打ち、淀川治水に生涯をかけた。
そんな人々の尽力があり、淀川改修が決議。
散歩で行った城北ワンドを造ったというオランダ人技師(「お雇い外国人」デ・レーケ。この人が指導した土木関連のものが全国各地に現存するそうだ)の構想を基本におき、沖野忠雄(土木技官。淀川改修、築港建設の工事責任者。内務省土木技師として日本の殆どの河川の改修工事に携わったと言われる「日本の治水港湾工事の始祖」)らによって工事が進められた。
淀川大改修は14年もの歳月をかけて完成したんだって。
新淀川開削。毛馬閘門、毛馬洗堰、瀬田川洗堰建設。宇治川付替など。
閘門とか洗堰とかはちょっとわたし、分からないんだけれど、閘門は航路確保のための施設で、水位の調整ができ、洗堰は洪水の時、水量の調節ができるんだとか。
昭和49年まで使われた毛馬洗堰や、昭和51年まで使われた毛馬第一閘門などが残されていた。
施設はレンガ造りで、川だったと思われる低くなったところも歩けるようになっていて、中を散歩した。
左右に船を繋ぐ用具がついている、その間の川底だったと思われるところを歩いていくのは不思議な感じだった。
眼鏡橋なる小さな橋も残されていた。
下を流れていたのは長柄運河で、河川を新たにつくりかえるのに掘った土砂を海老江に運ぶための運河だったのだって。
眼鏡橋をバックに、大正モダンの感じの女性たちがおしゃれして撮った写真も飾られていた。眼鏡橋やここの施設は、モダン最先端だったのだろうな。
レンガ造りのこんな大きな施設に船が入ってくるところを想像すると、「土木」って、かつてはインテリジェンスでモダンでおしゃれなものだったのだろうなあと思った。
「沖野博士って、素敵よね!」なんて語り合っていたのかも・・・。その沖野博士は今も像になってたっていた。
京阪電車が開通したのは明治43年。水運は陸運にとって変わられていった。
昭和37年には貨物船が一切無くなり、水都大阪の川も次々埋め立てられ、そこに高速道路がつくられていった。高麗橋の上にさえ高速が走るようになった。
新しく治水施設も設けられ、そうしてレンガ造りのここは役目を終えた。
河原までは広い公園(淀川河川公園)になっていて、ここでBBQもできるんだって。日蘭交流400周年記念広場などもあったけれど、ちょっと放置されている感が強かった。「蘭」というのはデ・レーケさんつながりかな。
残念石もごろごろあった。大阪城築城に使われるために船で運ばれていたのだろうけれど、落ちるか何かで川底に沈んでいたものらしい。ここだけでなく、あちこちに存在するんだって。
各地の大名らが領地のとっておきの大石を運んだそうだからなあ。
淀川は西の長柄橋(天神橋筋)で渡る。
阪急電車の橋の下を通り、河原からは見上げる高さの長柄橋へ向かった。
この日、長柄橋の下には人が暮らせそうな、ダンボールやらで組んだキチがあった。自転車が二台止められていて、七輪的なものに鍋などもしかけられていた。「ここでBBQはしないでください」と行政によるものらしい立札があった。
河原から上がっていく階段がなくて、おかあさんはちょっと苦労していた。
それから右側にしかない歩道で長い長柄橋を渡って行った。
長柄橋には戦没者慰霊観音がいて、機銃掃射の跡も残っているそうだ。観音様はいた(小長柄橋との間に)。けれど、機銃掃射の跡は気がつかなかった。長柄や生江(今の城北公園)など淀川あたりに多くの被害を出したという大空襲のときのものかな。
そして、長柄橋は、なんて長い橋だっただろう。
風も強くて、行っても行っても進んでいる気がしなかった。それほどに長かった。
川の上でなんと橋が二股に分かれていた。川の上でバイパスまで設けられているんだって。
周囲を見渡すと、川の上で電車や車が行き来し、すごいことになっていた。
阪急電車が走り、JRが走り、車が切れ目なく走り、御堂筋線も地上に出てきて走っている。空には飛行機が飛んでいく。
自転車も走っていく。鳥も飛んでいく。
こんなすごい光景、初めてだ!
これは重要文化財にも匹敵するなあ、と思った。今現在使われているからこその、このすごさ。
「淀川旧分流施設」も、使われていた当時には、重要文化財になった今よりも、もっともっとすごいものだったんだろうなあと思った。
人々が歩き、いろんな音がし、鳥が飛び、船がやって来る。
せっかくの橋なのに、大きな落書きが目立っていた。下の川では、腰まで浸かった人が釣りをしていて、二度見した。
橋を渡ると右折して、淀川沿いをずっと行くのが亀岡街道。
でも、街道歩きはここまでにして、崇禅寺ってお寺に寄って、地下鉄新大阪から帰るつもり。




