淀屋橋だって
その日、予想気温は30℃だった。
けれどそんなことでひるんでいるような時期でもない。これからは35℃、36℃、37℃とかにだってなる夏だもの。
30℃の散歩はどんな感じか、研究も兼ねて出かけることにした。
夏の散歩は都会に限るってことで、今回は亀岡街道へ。スタート地点は高麗橋で、最初のうちは天神橋筋商店街が主なルートだから、暑くてもなんとかなるだろう。
前回の京街道も、スタート地点は高麗橋だった。地下鉄で本町に降り立ち、坐摩神社、道修町などにも寄ってから高麗橋に向かった。
今回は高麗橋の前に適塾あたりに寄ってみよう、というわけで、地下鉄(御堂筋線)は淀屋橋で降り立った。
まずは6番出口から出て、すぐの淀屋屋敷跡へ。
淀屋は大阪でも随一の富豪で、初代は淀川の堤をつくるのを請け負って富を得たそうだ。2代目は多角経営に乗り出し、靭の海産物市場、米市、金融業などで大儲け。
淀屋橋あたりから北浜にかけて、ずう~っと屋敷があったんだって。自分のところの米市のために、淀屋橋も私財でかけたんだそうだ。
けれど5代目の時、身をわきまえず贅沢しすぎだってことで私財没収。屋敷も追い出され、後にはひっそりと亡くなったんだって。
本名は岡本。屋号が淀屋。佐太天神宮に奉納したものが残るという淀屋もこの5代目なのかな?
その少し先には林市蔵の像があった。「民生委員の祖」と書かれていた。
熊本藩士の子で、各地で重職につき、1917年には大阪府長に就任。翌年、民生委員の前身「方面委員」を設置。淀川沿いの散髪屋で貧困する母子の姿を見たことがきっかけになったそうだ。
民生委員って、市民の相談に乗り、必要な援助をし、社会福祉をすすめるっていう委員らしい。
川(土佐堀川)の向こうには中之島。日銀の石造りの素敵な建物がひかっていた。市役所の向こうの図書館も素敵。
中之島の開発もまた、淀屋の1代目によって始められたらしい。江戸時代には諸藩の蔵屋敷が集中し、明治になるとモダンな建物が建ち並んだ。
御堂筋を南に向かい、北浜3丁目交差点を左折。少し行くと、郵便局前に「適塾と懐徳堂 未来をひらく四つの彫像」と題して「遠征・研究・思惟・文武」の像が並んでいた。
街路樹もきれいで、こんなふうに整備されると、大阪もスマートで素敵な街に見える。それから適塾跡と愛珠幼稚園(改築中だった)。
適塾は、緒方洪庵が開いた私塾。緒方洪庵は備中に生まれ、各地で学んだ後、28歳くらいで大阪に病院を開き、適塾を瓦町にオープン。塾生が増えて手狭になってきたので、7年後くらいにここに移ってきたそうだ。町家を買って、改築して、塾とした。それから約20年、幕府に要請されて江戸に行くまでここにいて、塾生たちとともに過ごした。
まだ蘭学(西洋学)の黎明期だったこともあってか、共に学ぶというスタイルで、みんなの結びつきは相当に強いものだったらしい。福沢諭吉、橋本左内、手塚治虫のひいおじいさんなど3000人くらいがここで学んだそうだ。
夢や、これからの日本について、共に熱く語っていたのかな。こんなに高麗橋や八軒屋浜に近いところだったんだなあと思った。京や江戸に出ていた門下生たちが、「せんせー!」と、息せき切って帰ってきたかな。土産話をいっぱいもって。
大阪は人も物もいっぱい集まってくるところだったみたい。
大阪城で豊臣さんが滅んで江戸時代になり、一時は大阪藩となっていた。藩主は松平忠明さん。けれどすぐに幕府の直轄地になり、まちづくりが行われた。大名や商人が呼び寄せられ、町人も集まり、水運にめぐまれていて物も集まり、商業が盛んになった。
税金を安くするなどして、町人もどんどん増えていったのだって。その時代、人々はお寺に住民登録みたいなことをしていたらしい。他の町に行く願いを出してお寺の登録も移したら、けっこう自由に各地に引っ越しできたみたい。
土地の売買も農地以外は自由に行われていたみたい。それで藩が買って蔵屋敷を建てたりしていたのかな。現代社会とそうは変わらなかったんだなあと思った。
福沢諭吉は大分の中津藩の生まれで、大阪の中津藩の蔵屋敷に居候して適塾へ。
橋本左内は福井藩の生まれ。15歳くらいで大阪にやって来て適塾で学んだそうだ。19で郷土に戻って医者に。安政の大獄があって、たいした罪でもないのに25くらいで首を切られたのだって。
安政の大獄って、老中の井伊直弼が幕府に不都合な動きをする者たちを投獄していった事件だそうだ。
ずっと鎖国していた日本だったけれど、ペリーの黒船がやってきたりで開国。すごい転換期で、倒幕の機運が高まりつつあったのかな。それを警戒しての安政の大獄だったのかな。
橋本左内刑死の翌年、井伊直弼暗殺。その3年後に天誅組が決起。油屋から五條代官所に攻め入ったという事件ね。
適塾跡の、一本南は今橋通。
ニッセイのビルに「懐徳堂跡之碑」が埋め込まれていた。
適塾より前の時代、江戸中期に、大阪の豪商たちが出資してできた私塾だったらしい。適塾は蘭学(西洋学)だったけれど、懐徳堂は朱子学など、中国の学問だった。
愛珠幼稚園の門がここにあり、「銅座跡」の碑もたっていた。愛珠幼稚園は明治13年の開園で、園舎は国の重要文化財になっている。当時は幼稚園もほぼない中で幼児教育を行い、よく視察にも訪れられていたそうだ。
三休橋筋を越えて、次の堺筋を南下。
「高麗橋野村ビルディング」(有名らしい安井武雄氏デザイン。昭和2年竣工)と三井住友銀行大阪中央支店(昭和11年竣工)。
住友のビルはギリシャ神殿風のもので、住友のビルには多いタイプらしい。
三井住友銀行の元は1690年創業の両替商、三井大坂両替店で、日本一の大富豪だったのだって。1690年って・・・5代将軍綱吉の頃。
それから高麗1丁目交差点を東に行くと高麗橋。
前回はスルーした東横堀川緑地に降りてみると、水門などが残っていた。橋の親柱と思われるものもあった。
その向こうに東横堀川にかかる現役の素敵な橋が見えた。今橋かな?
今はどこか殺伐としているのだけれど、いつかは素敵なところになれそうな気配もあった。
では亀岡街道のスタート。




