京街道を八雲から
6月も終わろうというある日、奇跡のように涼しい日があった。
これを逃す手はないぞ。というわけで、京街道の続きを歩きに行った。
地下鉄谷町線で北の終点、大日駅へ。7番出口から出て、西方面に向かう。前回、八雲小学校あたりまで歩いていたので、八雲小学校を目指して行った。
庭窪浄水場の前を通った。「一般人立ち入り禁止」で、門には守衛さんも立っていた。塀にも「壊すと刑にとわれます」みたいな文言があって、有刺鉄線がつけられていた。ものものしい感じ。
アスファルトとビルばかりの町なかだったけれど、かつては水路のある緑の多い一帯だった感じが少しだけ残っていた。
浄水場を過ぎると、右手に乗雲寺。本願寺について少々かじったので、少しだけ宗派にも興味をもつようになった。ここは浄土真宗大谷派であるらしい。
バス通りに出ると、少し北上したところに八雲小学校。その裏側(西側)が京街道だった。
八雲小学校を越え、京街道を高速下へ。前回はここを右折して帰路についたのだった。高架下の交差点には、新しい道標があった。
「八雲樋跡」とか、このあたりにはいろいろ道標があったけれど、案内されているほとんどが京街道沿いにはないようだった。京街道以外にもいろいろ見どころの多いところなのかな。
八雲には遺跡もみつかっていて、弥生時代の玉作りの工房跡もあったのだって。畿内で一番古い時代の玉作り工房らしい。
道なりに進むと正迎寺。ここは浄土真宗本願寺派。
あたりは古そうな雰囲気だった。広々と敷地がとられて、古い旧家や地蔵があちこちに見えた。
道なりに右へ曲がっていくと、少し高い位置に八雲北公園。地名は大庭町。公園前を左折して、道なりに土手方面へ向かっていった。
土手に上がる前に、現れた八坂瓊神社に寄った。京都の八坂神社から勧請して、スサノオを祀っていると伝えられているそうだ。正覚寺の墓地もそばにあった。
八坂神社はよく聞くけれど、「瓊」ってなんだ?
調べてみると、玉のことなんだって。その中でも赤い玉のことをよく「瓊」と言ったそう。
三種の神器の一つが「八坂(八尺)瓊」勾玉であるらしい。三種の神器が「玉・剣・鏡」であることは知っていたけれど、その名にはあまり注意を払ったことがなかった。
八雲遺跡で弥生時代の玉作りの工房跡が見つかっているということと、関係があるのかな。京都の八坂神社云々はただの推量であって、実のところは「八坂瓊勾玉」になんらかの関わりをもつ神社だったるするのかもしれない。
八坂瓊神社に祀られているスサノオは出雲の神で、出雲は弥生時代の大規模な玉作りの工房の跡が見つかっているところ。そして出雲といえば「八雲」なんだって。
出雲でクシナダヒメを妻にしたスサノオが詠んだという、最古の和歌というのがこれ。
八雲たつ出雲八重垣 妻ごみに八重垣つくるその八重垣に
秀吉の頃につくられた京街道に来たつもりが、いきなり弥生時代の玉作りにスサノオの歌か、と。
そして淀川の土手を駆け上がった。風がびゅうびゅうとなった。涼しくて、最高。このあたりには庭窪ワンドがあったようだけれど、全く目に入らなかった。
すぐに淀川にかかる鵜飼大橋が現れて、土手を外れ、橋の下をくぐって、再び土手道に。右手にはほぼ同じ高さのところを高速が走り、左には淀川が流れていた。アカツメクサかな? いろんな花が咲き、まだ小さなバッタがばたばた跳んだ。
その向こうに目をやると、視界には、空、山、川。山と川との間に家々や工場の煙突、多くの鉄塔が見えるにしても、すごい光景だった。
堤防を降りて、川のそばも歩いてみた。淀川河川公園がずっと河原に続いていて、芝生広場あり、グランドゴルフ場あり、野球場あり、テニスコートあり、バスケの練習場あり。
河原からだと、街や工場、鉄塔なんかは堤防で全て視界から消え、見えるのは空と山と川ばかりだった。
最初は「うわあ!」と思ったけれど、ずうっと続くので、単調で退屈してきた。堤防の上は、街が見えるだけにまだましだけれど、それでも単調。
ずっと堤防を歩き、途中で佐太天神宮に寄り道する予定だった。けれどあまりに単調で、佐太天神宮のあたりよりだいぶ前に堤防を下っていって町を歩いた。
下りていく途中、トタンでできたようなボロ屋や、ふる~い家があった。河原あたりだったところと思われ、古き不法占拠の家かしら・・・と思ったんだけれど、どうなんだろう。
「佐太樋跡」の立派な石碑があった。このあたりはちょっと独特だった。トタンの家、古すぎる感じの家、昭和すぎる下町感。
素敵な小さな川が流れていた。これは、淀川の水位などを調整するための水路なのかな?
佐太西橋でその川を渡って行くと、「佐太陣屋跡」があって、来迎寺があって、佐太天神宮(南門)が現れた。
来迎寺は、かつて大念仏宗(融通念仏宗のこと)佐太派の本山だったところらしく、かなり立派なお寺だった。佐太派ってよく分からないけれど、融通念仏宗を再興した法明上人の弟子によって開かれたそうだ。
佐太天神宮は、大宰府に左遷されていく菅原道真が、道明寺の叔母のところに別れの挨拶に向かう途中に滞在したところらしい。ここ佐太あたりは、菅原道真に与えられた荘園だったところなんだって。それで菅原道真を祀って天神宮とした。
けっこう広そうだったけれど、犬NGだったし、遠慮しておいた。後で知ったことには淀屋さん寄進のものも残っているらしい。大阪の豪商、淀屋さんね。
菅原道真が大宰府に左遷される途中に立ち寄った(と言われる)と説明に書かれているところって、いくつかあった。今まで行ったところでは、平野の新家天満宮、道明寺天満宮、天下茶屋の天神森天満宮、堺の船待神社。
ほかにもいろいろあるんだろうな。この後で行った大阪天満宮もそうだったし。
散歩していると時々現れる陣屋は、江戸時代、藩の役所となっていた屋敷のこと。多くは藩主が出張先においた屋敷だったみたい。地元には土佐藩住吉陣屋跡があるのだけれど、それも大阪湾の守りを命じられた土佐藩が出張先に置いていた屋敷だった。
ここは美濃加納藩の采地(領地)だったところで、その陣屋がここにあったのだって。それが佐太陣屋ね。
加納藩で作られた傘、提灯なども一旦ここに集められ、大阪で売っていたらしい(文禄堤に古い「かさ、ちょうちん」のお店があったな)。
蔵屋敷の役目もし、加納藩の「台所」の役目をにない、中で手作業なども行われた。屋敷などがいろいろ建てられ、牢屋敷もあったそうだ。
あまり分からないでいた「陣屋」ってものが、ちょっとだけ分かってきた。違う土地からやって来てみんなで過ごした小さな1つの世界だったんだな。
佐太天神宮の西の参道から、淀川堤防に戻った。このあたりから寝屋川市になるみたい。続きを歩くと、淀川にかかる鵜飼仁和寺大橋が現れた。
橋の向こうが鵜飼(摂津市)、こちらが仁和寺(寝屋川市)。それで「鵜飼仁和寺大橋」であるらしかった。京都の仁和寺の所領であったから、「仁和寺」というんだって。
仁和寺には仁和寺氏神社があって、そこも菅原道真を祀っているらしい。
京街道近くには菅原道真を祭る神社がとても多いそうだ。左遷されていく道真が淀川を下っていったから・・・だけじゃなく、永井信濃守尚政なる人の道真びいきのためだったみたい。
菅原道真をえらく崇拝していて、道真に縁の佐太天神宮を立派に再建。それだけじゃなく、いろんな関係ない神社にも菅原道真を祀り、天満宮にしていったんだそうだ。淀藩の藩主で、このあたりも所領だったから、どんどん天満宮を増やしていった。
鵜飼仁和寺大橋を過ぎると、地名は点野だった。「しめの」は禁野と同じで、天皇の狩場のことだそうだ。ここは宇多天皇が鷹狩りをする時の狩場だったのだって。
宇多天皇の母は桓武天皇の孫らしい。桓武天皇は平安京に遷都した人ね。
仁和寺を建立したのは宇多天皇で、菅原道真を重用したのも宇多天皇だそうだ。
川向こうには「鳥養院」なる宇多天皇の離宮があったのだって。当時の地名が鳥養だったらしい。離宮を築いて、対岸を狩場としていたんだな。
「鵜飼」に「鳥養」って何だろう。鷹狩に用いる鷹を育てる人々の住んでいた「鷹合」みたいに、狩りに用いる鳥を養育した氏族が住んでいたのかな。
このあたりまで来ると、左手にも右手にも山がかなり近くなっていた。左が箕面、右が交野あたりかな?
ウグイスが鳴き、アザミが咲いていた。ナス科と思われる花が目立っていた。イヌホオズキ(バカナス)って野草かな?
鳥もいっぱいいた。ジジッジジッと高速で飛ぶ小さな鳥(オオヨシキリ?)、早口言葉みたいにピュルリピュルピー高い声で鳴いて、同じ位置で飛行する鳥(これがヒバリ?)。
風が気持ちよく吹く中、何度かペットボトルのお水を飲んだ。そうしたら、ペットボトルまでボウボウと鳴いた。ボトルの口が楽器になって、風が吹くと「ボ~ウボ~ウ」と、けっこう大きな音で鳴った。
刈ったばかりの芝生に一列に並んでついばむ鳩の群れと、そのすぐ上をからかうみたいに高速で飛んでいくツバメ。
歩く人や自転車の人、たまに車も通るけれど、ここはヒトの場所というよりも鳥の住処だった。
右手に大きな児童公園のようなところが見えた。同じくらいのサイズの遊具みたいなのが等間隔に円を描いて置かれていた。何だろうと見ていたら、犬が人間と一緒に走ってきた。「はい、とんで」「こっちこっち」、言われて遊んで、褒められていた。すべり台をかけ上がったり、平均台の上を走ったりしていた。「アジリティ」ってやつかな?
ちょっと面白そうだった。
淀川新橋のところで土手を右手に、一号線の方に降りていくと、「太間樋跡」などがあるようで、ここにも寄り道した。また飽きてきた堤から早めに「水辺公園」と道標のあるところから降りていった。文字が消えかかっていたけれど、「この下 茨田樋遺跡水辺公園」と書かれていたみたい。
降りていくと墓地があって、「茨田樋跡」の碑もあった。「樋」って川の水を流出させるための水門のこと。
レンガ造りの樋も当時のまま残されていて(昭和5年まで使用されていたんだって)、ここからたんぼに水が引かれる感じが分かった。今も水路が一帯に流れていた。
すぐ手前まで新しく建った家が迫ってきてはいたけれど、すごくいいところだったのが伝わってきた。古い小さな集落だったのだろうなあと思われた。
このあたりも地名は点野で、茶店も並んでいたそうだ。けれど茶屋はみんな堤防に消えて、残っているのは農家だった旧家ばかり・・・なのかな。
集落があるところに樋で水をひいたんだろうか。そしてあとは田んぼだらけだったんだろうか。
このあたりは街道歩きというよりも、淀川を眺め、樋の跡をめぐる散歩みたいだった。
国道太間なる立派な交差点(国道1号線)にでた。
1号線をそのまま行くと、地名は太間だった。絶間橋があるらしくて、元々は「太間」じゃなく「絶間」だったのかも。
このあたりにはかなり古い家々があった。それが少しではなく、歩くと歩いた分だけ現れて、大きな集落だったと見受けられた。古い旧家がいっぱい残っていて、蔵を車庫にしているようなおうちもあった。白壁の蔵からはみ出した外車。かっこいい。
大きな太間の集落の中に、西正寺と太間天満宮があった。ここも天満宮ね。
天満宮には「衫子絶間跡」の碑がたっていた。衫子絶間ってなんのことだ?と思ったら、仁徳天皇の時代に造られたという茨田堤にまつわるものだった。
淀川に堤を造る工事で難所があって、何度も決壊してしまったそうだ。そんな場所が2箇所あって、それぞれに人柱をたてたら成功すると、天皇の夢でお告げがあったのだって。人柱って、工事で補強のために人体を水中や土中に埋めることだそうだ。まじか。
武蔵の強頚なる人と、河内の茨田連衫子とを人柱にってお告げで、二人が探し出され、連れてこられた。
強頚は泣く泣く人柱となり、工事は成功してそこは「コワクビ絶間」と呼ばれるようになった。絶間って、決壊しやすい場所のことだそうだ。
もう一箇所の人柱になるはずだったコロモコは機転で人柱になることは免れたんだそうだ。それでも工事は成功して「コロモコ絶間」と呼ばれるようになったんだって。
その衫子絶間が、400mほど東にいったところだと思われるってことだった。強頚絶間のほうは、長柄橋あたりと言われているのだって。
太間天満宮は素敵な神社だった。
風がザワザワ鳴って、古い家々をバックに存在する様がいい。遠い昔の、悠然と存在する様が思い描けるようだった。
境内の並んだ狛犬が可愛かった。1つの台座に一緒に向かい合って置かれているさまが、おしゃべりしているみたい。「あ」「うん」だけじゃなくて。
太間は面白くて、しばらくうろうろしてから淀川沿いに戻った。大阪湾まで21.9km。歩き始めは20キロ未満だった。
それから「茨田堤」の立派な碑が現れた。淀川はかつて、このあたりで西南への流れ(今の淀川とほぼ同じ)と南への流れ(生駒山の西で大和川に合流する)とに分岐していたのだって。
太間排水機場なる施設が現れた。排水機場ってよくわからないけれど、川に注ぎ込む水、流れ出す水、そういった流れを調整して、洪水を起こさなくしている施設みたい。淀川でなく、寝屋川の洪水を防ぐ施設だって。大規模な施設だった。無事であるように、こうやって日々管理されているんだなあ。
河原側にある建物が古くていい味を出していた。何だったんだろう?
そしてまた、堤防を外れて、寄り道に。
水生生物センターがあった。犬NGなので遠くから見ただけだけれど、小さな立ち姿の鉢かつぎ姫が、説明板を手にして立っていた。木屋西交差点を歩道橋で渡り、すぐ左に行くと、立派な本信寺。その少し奥に鞆呂岐神社。
「鞆呂岐」と書いて「ともろぎ」で、鞆(友)呂岐荘であったことからきた地名らしい。「屯倉」の時代からの皇室の荘園だったんだって(つまりは屯倉だったのね)。近くには友呂岐神社もあるらしい。
鞆呂岐神社は裏には水田が見え、「茨田蛇の池跡」があった。池があったのを昭和の初めころ、埋めたてて田んぼにしたんだって。ここでも鉢担ぎ姫が案内してくれていた。
どうして鉢かつぎ姫?と思ったら、鉢担ぎ姫にはいろんなバージョンがあるらしいのだけれど、その1つでは寝屋川の生まれらしい。鉢かつぎ姫の父は、交野市寝屋の高野街道の近くで寝屋(宿屋)をやっていた人なんだって。「寝屋の長者」と呼ばれていたそうだ。寝屋村は後に寝屋川村になり、ほかの村と合併して寝屋川町になり、寝屋川市になったんだって。それで寝屋川市のイメージキャラクター兼観光大使みたいになっているのかな。
淀川に戻る途中の水田で、人が手で田植えをしていた。
旧家と水路のある光景。そして手植え。初めて見る光景だった。
それからまた淀川の堤防を歩いた。
すぐ下に水田が現れた。水路、田んぼ、大きな木、大きな木陰。なんだか日本昔ばなしのようだった。
大人はみんな農作業。小さな子らを連れて、おばあさんがやかんとおにぎりを持ってやって来て、みんなで木陰で休み、そばにはお地蔵さんがいる、みたいな。
水田が終わる頃、右手に堤防の下を歩く道が現れた。その道へ移って歩いていった。
地名は出口で、ここはもう枚方市。京を追い出された蓮如が近畿で新しく腰をすえたというところね。マンホールには菊と舟の絵だ。「くらわんか舟」ってやつかな。
江戸時代、淀川を行き来する乗客舟に小舟で近づき、「くらわんか~(食わんのか~)」と食べ物を売るのが枚方の風物詩だったのだって。
道沿いの、昭和の色濃い家々には、人が住んでいるのかいないのかわからないようなところが多かった。道がぐいと右に曲がり、角にお地蔵さん。
水田と、枚方農協のなにかだったらしき小さな建物の間を進んでいった。小さな川と信号を越えていく。信号を越えると、もう水田はなく、住宅密集地だったけれど、古い!
歴史ある街道らしき素敵な古さだった。太間で大きな集落だったのだろうなあと思ったけれど、このあたりは集落どころじゃない規模だったのじゃないかな。
素敵に古い大きなおうちがいっぱいだった。ただものじゃない。
目の前を小さな動物がかけていった。小さな子猫にしても小さすぎて、イタチじゃあないかな。
さだ神社旅所があり、「蹉跎神社遥拝所」とあった。
蹉跎神社は東を走る京阪電車の向こうの山側にあって、祭神は菅原道真。
左遷されて行く途中で立ち寄り、村人(和尚?)の案内で山に上り、都を見て名残を惜しんだというところであるらしい。
その時に詠んだのが「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて春をわするな」だとも言われている。ただし他にもここで詠んだ、ここで詠んだ、といろんなところが名乗りを上げているみたい。
そして去る道真に一目会おうと、愛娘が追って来たのだって。
道真公(菅公)は子に恵まれず、娘は養女だったらしい。その養女が皇族の公達とつきあったものだから、道真は藤原氏に危険人物と目されて、陥れられて、太宰府に左遷されることになったんだって。
娘が着いた時、道真公はちょうど行ってしまった後で、娘は蹉跎(足ずり)して悲しんだ。それで「蹉跎」神社となった、という話。
「蹉跎」って、当時は普通に使った言葉みたいだ。「時機を失う」「つまずく」みたいな意味のようで、足ずりして悲しんだというより、タイミングの悪さに悲しんだ、という感じかな。もう夕暮れてきていて、諦めて京に戻ったそうだ。
そのことを知った道真公が、自分の木像を送ってきたのを御神体としているのが蹉跎神社なのだって。
道真公がやって来た、そのことよりも、後でやってきた娘の足ずりに着眼して「蹉跎」と名付けるなんて、そんなのあり?と思った。
太間天満宮も、元々はコロモコを祀る小さな祠だったようなのだけれど、その後、菅原道真が祀られて天満宮となり、コロモコは近年まで忘れられていたそうだ。同じように、蹉跎神社にも元々は別に祭神がいたけれど、忘れられたのじゃないかな。
太宰府に赴く時、淀川あたりを通ったのだろうから、このあたりにやって来たのは本当だろうし、もしかしたら娘が追いかけてきたのも、足ずりしたのも、それを聞いた菅公が自身の像を送ってきたのも、本当かもしれない。それで既にあったサダ神社に、「蹉跎」の字を当てたのかもしれない。
たとえば出雲には佐太(佐陀)神社があるようだけれど、そのへんとは全く関係ないのかな?
また蹉跎神社に行って、そんな可能性はゼロなのか、探ってみようと思った。
サダ神社は他にも全国にあって、「サダ」は岬のことではないかという説もあるみたいだから、地形も見に行ってみよう。
「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」と書かれたちょっとした空間があった。
「蓮如上人御腰掛石之碑」もあった。蓮如がここに腰掛けて、村人たちに説法していたんだって。3年間、出口にとどまり、布教活動をしていたらしい。
蓮如の頃、本願寺派はおちぶれていて、一大勢力だった比叡山から仏敵として京から追い出されてしまった。比叡山の力の及ばない北陸などで布教を続けながら転々とし、出口にやって来たのは61歳のとき。
当時、出口は9軒しかない村だったんだって。けれど近辺の信者たちも出口に集まってきて、出口は寺内町として栄えたらしい。
石見入道光善なる信者がいて、寺の建設におおいに貢献。大きな池を埋め立て、寺(出口御坊)を建てた。蓮如はそこを拠点として、近畿一円に布教。
守口御坊(難宗寺)、久宝寺御坊(顕証寺)、石山御坊(石山本願寺)なども、光善寺時代、近畿一円に布教していたときに建てられたものみたい。
それから3年して、長男を出口御坊(光善寺)の初代住職として、蓮如は去っていった。けれどちょくちょく出口には足を運んだのかな。
ここを道なりに進むと光善寺(寺)だった。右折して行くと、京阪電車光善寺駅。
光善寺は、かつてに比べると見る影もなく小さくなっているそうだ。けれど、それでも広かった。ちょっと入りにくくて、外から見ただけだったけれど。
在家とは密につながった、別世界みたいだった。
かつては光善寺のすぐ裏を淀川が流れていたそうだ。たいそう美しかったのだって。低湿地で、ツルが飛来し、太陽が沈むのが見える、そんなところを想像した。
光善寺駅から帰ろうと、駅に向かった。面白そうなところだった。用水路の水が道路と同じくらいの高さなのが珍しかった。あふれそうな用水路が町のあちこちにあった。
駅周辺は、面白いくらい昭和の感じだった。光善寺駅前デパートのあたりとか。寂れて、シャッターが閉じているところも多かった。それでも、錯覚なのか、なんだか厳かな感じがあった。なんなんだろう、この光善寺の空気感・・・。
駅自体は新しくて、思いきり平成の感じだった。そして防犯カメラが異常なくらいにあった。いくつものカメラがしっかりとこちらをじっと見ていた。
これはもしかしたら・・・2年前に京阪電車寝屋川駅あたりで行方が分からなくなり、その後死体となって発見された中1の男女の事件をうけてのものかな・・・とおかあさん。
ちょうどやってきた準急に乗って帰った。




