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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
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西住吉街道

梅があちこちで見られるようになった頃、ちょっと近場を散歩しようと西住吉街道を歩いてみることにした。

紀州街道が一部、住吉街道とも呼ばれていたらしいのだけれど、西住吉街道はその西、もっと海辺を歩く道で、木津村あたりと住吉とを結んでいたのだって。

その頃は木津もあまり知らなかったのだけれど、なんばの近く、木津市場のあるところ。住吉大社の西側をただただ北上して行ったあたり。


住吉大社からスタートした。住吉大社の門前町として栄えたという粉浜の商店街を北上。

住吉大社と、かつての参道のある住吉公園との間に南海本線住吉大社駅があって、そこからすぐの粉浜駅まで北に商店街がつながっている。最初は数軒でスタートしたそうだけれど、今はアーケードのある狭い通路の両脇にお店が並んでいる。閉店していくお店も多いけれど、しばらくするとまた別のお店が入っていることも多い。

メルシー粉浜の北側の入り口前で商店街を出て、西に向かった。霊松寺があり、あと、今ではなくなってしまったけれど虫籠窓の古い町屋なども当時はまあまあ残る道だった。国道26号線を越えて、さらに西に。

左手の一帯は何棟もある古い大きなUR。けれどまあ、他のところを歩いているうち、この程度では大きいとは言えないと知った。ここは元は大阪合同紡績會社住吉工場だったところだ。


もとは保元の乱で落ちのびた源氏が開墾したという粉浜村。わたしは勝手に、住吉大社の津守さんがかくまうとかしていた源氏の人たちが、そのうち開墾を始めたのかな、とか想像している。

それからずっと粉浜村の人々は田畑を耕し、漁業もやっていたそうだ。主な農作物は綿花だった。

けれどそのうち、新田開発やらで海は遠くなり、綿花は輸入ものにおされて売れなくなり、困窮。そんなとき、ここに大阪合同紡績の工場が設立された。大阪合同紡績は後に東洋紡に合併されたけれど、日本の五大紡績の1つだったそうだ。

工場は当時は蒸気を燃料にしていたから、大量に必要な石炭を運ぶのに水運が不可欠だった。海は遠くなっていたけれど、代わりに十間堀川が流れていた。津守を新田開発した人たちが掘ったという川ね。今では一部を除いて埋め立てられ、そこに阪神高速が走っている。

働く人たちも大量に必要になって、粉浜は栄えていった。住吉公園で出会った、この団地の東に住むおばあさんが話すのを聞いたことがある。むかし、粉浜に嫁いできたときには、工場はあったけれどまだど田舎だったそうだ。そのうちどんどん家が増えていって、若夫婦だったおばあさんのおうちにも紡績工場で働く女工さんが間借りして住んでいたそうだ。

団地の西側が、元は十三間川が流れていたのを埋めてつくった阪神高速。八幡地蔵がいる。源氏の守り神らしい八幡。粉浜をつくったという源氏となにか関係があるのかな?


わたしたちが見た資料では、西住吉街道は高速の下、左側を北上して、玉出からは右側を北上していくというルートになっていた。

その通りに北上して行った。

左手に住吉市民病院。今は解体工事中だ。看護専門学校や助産師学院なども併設された大きなところだったから、ずいぶん時間がかかっている。

西住吉街道を歩いた当時はまだ病院は存続していたけれど、小児科など一部を残して閉鎖されていて、閑散としていた。玄関前にはスロープと桜。懐かしい。

裏手にはほぼ廃墟と化した旧病棟があった。助産師学院などの横は昔、女子寮だったんじゃないかっていう雰囲気を醸していて、よく見ると素敵な病院だった。

十三間川が流れていた頃の大正14年、ここに大阪市立桃山病院津守分院として建てられたのが始まりだったそうだ。


日本でもコレラなどは江戸時代から入ってきていたそうだ。そして明治維新で開国すると大流行。明治10年からの10年間で大阪府で34200人が発症。うち8割が亡くなったそうだ。鎖国は、病気を防ぐ働きをしていたんだな。

明治38年頃にはペストが大流行。ネズミが媒体になるという病気ね。

上下水道を整備し、各地に避病院なる隔離施設を設置。その1つが大規模な桃山避病院だった。当時は「都市部に近い田舎」だった天王寺につくられた。

後に桃山避病院は市立桃山病院になり、伝染病専門の病院として機能し続けた。手いっぱいになって、その分院としてつくられたのが津守分院。

その頃は大阪で工業が盛んになり、どんどん人が集まって、大阪市域もどんどん拡がっていっているときだった。だからこそ安普請の長屋がどんどん建てられ、不衛生で病気も拡がったのだろう。そしてどんどん都市部が拡がっていったから、当時の「都市部に近い田舎」が天王寺から津守になったのだろうな。


都市部と田舎の境目は周縁部と呼ばれ、大阪を語るうえで外せないキーワードの1つのようだった。周縁部には避病院のほか、墓地、遊園地(当時の遊園地は菖蒲園など、優雅な大人の遊び場だった)、遊郭などがつくられ、貧民、被差別民、芸人、遊女などが集まったそうだ。

周縁部は明治、大正と、時代とともに都市部が拡大していって変化して、ある時代にはJR環状線あたりが周縁部だった。桃山避病院ができた頃だろうな。

それでJR環状線界隈には今も猥雑なところが多いのだって。


南港通りを新回生橋交差点で渡った。橋も川もないのに新回生橋というのは、十三間川が流れていたときの名残。ここから西成区になる(ここまでは住之江区)。

そのまま高速の左側の道を北上していくと、左手に福寿地蔵。元は川のほとりにいたとかかな。

それからどこかの駐車場に「正一位 開成稲成大明神」。正一位しょういちいって散歩していると時々見かけて、何かと思って調べてみた。

普通は神社は、ほかの神社から分霊を分けてもらうとかして祀るものらしい。勧請というのだけれど、そう簡単にできることではないのじゃないかな? ところが伏見稲荷の場合、いくばくかのお金を払うとたぶん誰でも勧請できて、「正一位(神社の中で最高の位) ○○大明神」を名乗れるのだって。


次の信号で高速の右側へ。

ここにかつては橋があって、勝間村への入り口だったと思われる。今は玉出という地名になっているけれど、元は勝間村という環濠集落だったあたり。

北上していくと天津橋バス停。天津てんしんなんてどうしてだろうと思ったら、この西の古そうなお地蔵さんに「あまつはし」とあったから、読みはあまつはしで、ここにもそんな名の橋がかかっていたんだろう。


高速の西側の津守には、今はだいぶ減ってしまったけれど古い長屋が並んでいて、その玄関は道路よりけっこう低いところにあって、階段を下っていくようになっていた。どうしてかなと思っていたのだけれど、これは昔、地盤が今よりけっこう低かったことの名残みたい。

大阪は低湿地が多いけれど、特に新田開発でつくられた土地は海抜0メートルなんていうのも珍しくなかった。大雨など降ると、たちまち水浸し。特に昭和9年の室戸台風はひどくて、水が何日もひかなかったそうだ。

せめて一日で水がひくようにしようと、地面をかさ上げしていくことにした。地下鉄工事のためにほられた土や、当時工場の動力に使われていた石炭ガラなどが用いられたそうだ。

高速の西側はほぼほぼ新田開発でうまれた土地らしい。

古い白黒写真を見たことがある。十三間川のほとり、玉出側のコンクリ護岸の上に立った旦那風の人が、川の向こうに並ぶ長屋を見下ろしていた。

今は高速の西と東で同じような高さだけれど、かつては西側は見下ろすくらい低かったんだな。そこで、すでに建っている建物はそのままに、周囲は盛り土でかさ上げされていった。

それで古い長屋の玄関が低い位置にあるんだな。


どんどん殺風景になっていく高速脇を北上していくと、右手にオーバンド(輪ゴム)の本社、共和。左手には小さな森が見えていた。ずっと殺風景だったから、喜んで寄り道。

「廃校しました。今までありがとうございました」と書かれた津守小学校を通り過ぎて、小さな森は津守神社だった。江戸時代、津守新田が開拓されるにあたり勧請された神社だそうだ。

気がつかなかったけれど、新田会所の碑も元・津守小学校(か幼稚園)にあるらしい。

北側にも何やらあって行ってみると、津守浄水場だった。建物が一見レトロな研究室みたいで、緑化もされていて、なんだか素敵だった。

見たこともない鳥が飛んでいた。ジョウビタキ(♂)かな?


味気ない高速下(右側)に戻って続きを北上。南海汐見橋線の踏切を過ぎた。汐見橋線なんてマイナーだけれど、実は元は南海電車の花形だったそうだ。かつては難波ではなく、汐見橋が高野線の出発駅で、多くの人々が利用していたらしい。

このあたりからちょっとした緑地がところどころに設けられていた。けれどそのことごとくが柵に覆われて入れないようになっていた。


出城西公園があった。このあたりの地名は出城で、出城は砦のことみたい。石山本願寺が織田信長と戦った時、このあたりに砦(木津砦)を築いていたのだって。木津川河口を守る砦だったみたい。

木津のあたりに願泉寺があって、推古天皇の頃の創建らしいのだけれど、石山本願寺の蓮如に帰依して、浄土真宗に改宗。海から木津川経由で石山本願寺に兵糧を送ったりしていたそうだ。

紀州街道は元は武器を運ぶ道だったと聞いたことがある。あと、今は玉出の勝間村は、むかし武器をつくっていたという噂も聞いたことがある

ちょっと思ったのは、勝間から木津砦に武器を運ぶ道が西住吉街道になったのかも・・・ってことだった。

それから新なにわ筋に交差して、西住吉街道はこのあたりで終わるようだった。


初めてやって来たこのあたりを、もう少し北上してみることにした。

遠くにはハルカスや、難波らしきビルの群れが見えた。

浜津橋交差点があって、ここも十三間川にかかる橋があったあたりかな。「渡辺道」と書かれた新しい碑があった。ここの東西の道が、被差別村だった渡辺から、唯一市内(当時の)に通じていた道だったと説明されていた。

周辺には「人権」の文字が目立っていて、かばん屋や靴屋、肉屋などが目についた。目についたというほどではないのだけれど、他にはめぼしいものが何もなさ過ぎて、目に入ってくる感じ。

渡辺村の皮革製品は有名で、特に太鼓が名産品だったそうだ。


むかし、渡辺党って武士団が熊野街道の始まるあたり(窪津・渡辺津)に住んでいたそうだ。全国の水軍を牛耳っていたくらいの権勢を誇っていた。

豊臣秀吉が石山本願寺のあったあたりに大阪城を築城することになった時、近くにそんな渡辺党がいるのを厭い、守護神の坐摩神社ともども移動させた。武具をつくるなど、皮革を扱っていた人々は別のところに移動することになった。

そしてここに住み、死刑執行などの役目も請け負っていたそうだ。


公園が現れて、公園内に神社があった。今もだけれど、当時も相当に廃れて、もう抜け殻のように見えた。公園には鉄棒や、もう使われなくなって久しい感じの土俵が、手入れされていない草ぼうぼうの中にあった。

渡辺村に移ってきた人々の中には下級神官(下級神官ってなんだ?)もいて、坐摩いかすり神社の末社としてここに神社を創建。それがこの浪速神社らしかった。けれどもう役目を終えたのかな。当時を知る人々の子孫も多くがこの地を去ったのか、忘れられたようだった。

忘れられた神社って、かなりその地域に荒廃感をかもすものなんだな・・・。


高速横に芦原町駅(南海汐見橋線)が見えるあたりまで北上したところで帰ることにした。

すぐ横には自動車学校が見えていた。難波駅から1kmくらいのところに自動車学校があるなんて驚いたけれど、人気ひとけもなく、これで難波に近いってことのほうが驚きかも。

帰りは汐見橋線の東側の道を南下して戻ることにした。

閉鎖された感じのグラウンド、閉鎖されたらしき西成人権文化センター津守分館、閉園した津守幼稚園・・・なにかに生まれ変わろうとしているところなのかな、という感じがした。


それからひさ金属工業ってところがあった。

西成で異彩を放っていた。昭和9年に移転してきて、その当時建てられた洋館が今も本社として使われているらしい。創業者の久さんはニッカウィスキー創業者とも交流があり、今もニッカウィスキーの瓶のキャップなどを製造しているそうだ。


それから現れた津守駅(南海汐見橋線)は不思議なところだった。西側はきれいな西成高校と西成公園。

東側は住宅地で、駅には東口もあるのに閉鎖されて、西側からしか入れないようになっていた。その閉鎖の仕方がなんだかあからさまだった。

津守駅からは東に向かった。津守商店街があって、阪神高速とその下の派出所があって、次は鶴見橋商店街が始まっていた。

津守商店街は寂れていたけれど、周辺には家が何層にも何層にもなって続いていた。この西は木津川で、明治の頃から木津川沿いには工場が林立していたそうだから、そこで働く人たちが雑多に生きていたのだろうなあ。

そんな工員さんたちが新町遊郭に通うのにおおぜい歩いていたので栄えたというのが鶴見橋商店街。もっと東側は栄えているけれど、西側は寂れてきている感じだった。

あとはまあ、歩きなれた道。近場でも面白いところがいっぱいだったなあと、家に帰って寛いだ。

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