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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
28/44

京街道を関目から

そして京街道の続きを歩きに行った。

地下鉄谷町線の関目高殿駅からスタート。

谷町線終点の大日駅まで歩くつもりだった。地下鉄でなら、関目高殿駅から大日駅までたかだか10分くらい。歩いたってたいしてかからないんじゃないかな。暑くなってきたし、そのくらいでちょうどいいかと思って。

大日は守口市。谷町線って北は守口市(大日駅)から南は八尾市(八尾南駅)まで。地下鉄で他の市まで行けるなんて素敵だな。ちなみに御堂筋線では豊中市(千里中央駅)、吹田市(江坂駅)、南には堺市(なかもず駅)、中央線では東大阪市(長田駅)、鶴見緑地線では門真市(門真南駅)にも行ける。

大阪市と接しているけれど地下鉄で行けないところって、摂津市(地下鉄での最寄り駅は今里筋線井高野駅かな)、大東市(最寄りは鶴見緑地駅あたり)、松原市(最寄り駅は御堂筋線北花田駅)と、兵庫県尼崎市。


梅田まで出て、谷町線に乗り換えた。

朝の梅田って、新鮮だった。人々がおかあさんを追い越していくの。いつもはおかあさんが追い越していくのに。そして人は結構いて、動き回っているのに静か。

関目高殿駅からは前の続きを歩いたのだけれど、1番出口で出ていくと、歴史の散歩道の舗装もあって分かりやすかった。ここは旭区になるらしい。

古い建物が多いし、街道っぽくカーブした道だし、前に歩いた高麗橋~関目高殿駅とはちょっと違って、けっこう街道歩きの感じがした。京街道の説明もところどころにあった。

京街道は豊臣秀吉がつくらせた淀川の堤(文禄堤)が起源で、江戸時代には東海道の一部となったんだって。

「東海道53つぎ」って聞くけれど、それに京街道の4を足して「57次」とも言うんだって。

53次は東海道の起点、日本橋(江戸)からの宿場のナンバリングで、53次目は大津。終点は三条大橋。それが延長されて、54伏見、55淀、56枚方、57守口、そして終点は京橋(後に高麗橋)となったんだって。西国大名の参勤交代にこの街道を使わせたいという幕府の意向があったらしい。

説明には「大阪城京橋口から片町、蒲生、関目、今市、守口、枚方、橋本、伏見に至る」とあった。

京からは淀川を船で下るのが一般的だったけれど、大阪から京都に向かう時は川を遡るのも大変で、淀川沿いの京街道を行ったんだって。


関目高殿駅から歩いてすぐに清現寺が現れた。現代的な建物だった。地名は高殿。

それから高速の下で橋を渡った。昭和にできた古川橋らしい。川も昭和の時代に運河として掘削された城北川だって。

高速の下なので日陰になっていて、少し小波が立ち、なんだかいい雰囲気の川だった。遠くから見たら無骨な高速があって味気ないけれど、高速の下に立ってしまえば素敵な世界なんだな。

それから右手にアルト楽器社なるレトロな建物(この手前を右折すると京阪電車の森小路駅)があり、森小路商店街に入っていった。

地元の安立商店街にも似た感じだった。街道沿いにあり、シャッターのおりたお店もあるけれど、古い建物でおしゃれなお店を開いているところもあって、素敵だった。

それからすぐに千林商店街に。「主婦の店ダイエー」発祥の地として有名なところ。

京街道の他、右手の京阪千林駅に向かっても商店街があり、左手の地下鉄谷町線千林大宮駅に向かっても商店街があり、他にも裏道にも商店街があり・・・というふうに、商店街が多岐にわたっていた。

商店街中をぐるぐる歩いてみた。すごく面白かった。お店自体には、そんなに個性は感じなかったかな? けれど地元の人たちに愛されている、地元密着型の商店街という感じがすごくした。歩いているおじいさんおばあさん、自転車のおじさんおばさんおじいちゃん。

特に賑わっているあたりでは、みんな自転車を押していた。それほど込み合っている。買い物にやってくるところ、それだけじゃなく、日々、人々と集う場所、そんな雰囲気だった。

自転車を置いて駆けてきたおじさんが、喫茶店に入っていく。そうして壮年男女のグループのテーブルにつく。店内はそんなグループでいっぱいになっていた。

そして、なにが面白かったって、道が迷路みたいに入りくんでいて、迷路の奥にもお店があって、それがすごい昭和な感じだったりして、そうかと思えば古い大きな旧家もあったりなんかして、歩いていて全然あきなかった。

・・・けれど、きりがない。それほどに道があった。


地元密着型のお店もいくつか気になったけれど、重い荷物は運べない散歩途中なので、少しのお店でだけ昼食を調達した。

商店街には野崎街道なる野崎観音への参詣道も通っているようだった。野崎街道は古堤街道の一部でもあるらしい。

中高野街道は京から船でやって来て守口で下船した人々が高野山を目指す道でもあったということだった。一般的には平野からのスタートだけれど、北の守口まで延びていて、この北の延長部分はつるぎ街道、別名放出はなてん街道でもあるらしい。摂津と河内の境界線になっているそうだ。剣街道は放出にある阿遅速雄神社、別名八剣神社への参詣道なのだって。

旧街道だらけなんだなあ。気になったけれど今回スルーしたお店は、また他の街道歩きで寄ってみたい。

旧街道の他、お寺もいっぱいだった。浄光寺(あたりは古い家がいっぱい)、正厳寺(寺自体も相当古そう)、真光寺(蓮如に縁のある寺だって)。

あちこち歩いていると、古い文化アパートみたいなぼろぼろの集合住宅もあった。新しい家の建ち並ぶ一角も。地下鉄千林大宮駅付近では、自動販売機でだしのペットボトルが700円で売られていたのが面白かった。

お地蔵さんもいろいろあったんだけれど、小石が3つ横に並べられているだけの祠とかもあって不思議だった。


古いもの、新しいもの、過去のもの、現在のもの、貧しいもの、リッチなもの、みんなが均等に存在していて面白かった。スプロール地区もいいところ。「昭和の頃からずっと、地元の人達に愛される町」、それを絵に描いたような町。

「森小路」「千林」、名前からして、森のようなところだったのかな。

「守口」も、元々は「森口」だったらしかった。生駒(飯盛山方面)にかけて樹林がひろがっていたんだって。

今の大阪城あたりに蓮如が石山本願寺の前身になる庵に住むようになる前、そこは人の住まない狼の住処だったんだって。信心のない人を狼と呼んだのかもしれないけれど、本当に森口の森に狼も住んでいたのかも。


森小路(駅の東側)では弥生時代からの集落跡も見つかっているそうだ。

そんなに古い割には、謂れとか、古い話が残っていない感じがした。低湿地で洪水などに度々あい、田んぼも謂れも消失を繰り返したのかな。

このあたり一帯かつてはたんぼだらけで、今では埋めたてられてしまったけれど、水路が無尽に走っていたそうだ。

京街道の続きを行くと、地名は今市だった。古市に対して「今市」なのかな。千林あたりに古市小学校があった。

今市といっても古い町で、大きな旧家もあった。江戸時代、すでに今市村はあったらしい。

右手に緑が見えて、行ってみると寳龍寺ほうりゅうじだった。樹齢800年の楠が天然記念物に指定されているらしい。なんだかかなり不思議な感じのするお寺だった。塀の上に出た部分しか見えなかったけれど、建造物も変わっているし、木もすごい。

大阪城築城で問題が生じたとき、秀吉の夢に白蛇が現れて、告げられたとおりに城北の大楠に神を祀ると築城がうまく進んだのだって。その大楠がこの楠だと言われているらしい。後にそこにお寺が建てられたそうだ。

街道に戻り、今市交差点へ。下に地下鉄谷町線が走っているこの道は1号線(京阪国道)。

ここでちょっと寄り道をして、城北公園に行ったのだけれど、その話はまた後で。


しばらくして太子橋今市駅を越え、京阪本通1丁目交差点で内環を通り過ぎた。手前に上辻霊園があった。

次の曲がり角を右折。左手に京阪商店街が現れ、商店街へ。このあたりは旧道が全く残っていないのだろうな。

その少し手前には「実悟上人荼毘所旧跡」があった。蓮如の息子、実悟上人が荼毘に付されたあたりらしい。実悟上人は蓮如の23番目の子(10男)だって!

蓮如には子どもが27人いて、妻とは4度死別し、その度に再婚。5人目の妻が実悟上人の母で、畠山氏なんだって。

実悟上人は土居坊をひらいた人なんだそうだ。「土居」って堤のこと。

戦国時代から安土桃山時代の頃の92年間を生きた。蓮如の息子が平穏に生きられるわけもなく、波乱に満ちた人生だったみたい。古橋坊に住んでいたというから、その頃に土居坊をひらいたのかな。

古橋坊はもともと蓮如が布教のために建てた道場で、後に願得寺となったのだって。

蓮如がまだ京都の本願寺にいた頃、鎌倉時代に親鸞がひらいた浄土真宗は流派も分かれ、栄えていたのは別の流派だったそうだ。親鸞の子孫が続けていたのが本願寺派だったけれど、当時は落ちぶれていたらしい。そして、当時隆盛を誇っていた比叡山延暦寺(天台宗)から蓮如や本願寺は「仏敵」と烙印を押されたのだって。

「仏敵」という名の「政敵」だったのかな。

本願寺も焼かれ、蓮如は京を追い出されて北の国に向かい、各地を転々としながら布教し、そのうち、河内出口(今の枚方市出口)に居を構えて、畿内で布教を行うようになったらしい。後には石山御坊も建て、それが後世には石山本願寺となって、織田信長と戦うほどの勢力をもつに至った。

この激しい巻き返しは、布教のせいでもあったのだろうけれど、子沢山も功を奏したのだろうな。

10男もがんばっているし、長男は枚方の光善寺の開祖、6男は久宝寺の顕証寺の開祖だって。


京阪商店街を歩いていった。

ここもいろんな商店会が集合していた。京阪東通商店街(毎週土曜日は「かぶりもの笑店街」となって、店員さんたちがかぶりものをかぶっているんだって)とか。

ここまでのところ、京街道には商店街だらけだった。地下鉄谷町線や京阪電車が近くを走っているから、賑わい続けているのだろうな。

京阪電車は、淀屋橋駅~北浜駅~天満橋駅(すぐ近くを通った)~京橋駅(中を通った)~野江駅~関目駅~森小路駅(近かったので行ってみた)~千林駅(商店街歩きをしているとあった)~滝井駅~土居駅~守口市駅。そこからは京阪電車よりも北の淀川沿いを京街道は行き、光善寺でまた出会うみたい。


商店街の中、街道沿いに守居神社があった。

きょろきょろしすぎて入り口を見逃していたみたいで、どこから入るんだろうとうろうろしているうちに迷子になった。商店街が迷路みたいに交差していた。でも、おかげで10男の土居坊だったところにも行けた。清澤寺というお寺になっていた。

京街道に戻れたので歩きなおしたら、商店街の途中に守居神社の入口を見つけた。守口と土居を合わせて「守居」神社なんだって。「野江内代」「関目高殿」「千林大宮」「太子橋今市」、2つくっつけるのが昔からのこのあたりのスタンダードなのかな。

ここもスサノオを祀っていて、かつては牛頭天王社と呼ばれていたそうだ。


商店街を抜けると、左手に公園があり、もう少し行くと右手にちょっと上り坂になった道が現れた。上った先で左にカーブしていて、その先は見えない。

そこに上っていくと、曲がった先に「京街道 陸路官道第一の駅 守口」とあった。

すぐそばに義天寺。「佛立宗」とあって、どこかでも見たなあと思ったら関目高殿近くの清現寺だ。佛立宗は法華系の一派で、戦後に本家から分派したものらしい。

今まで「寺」としてしか見ていなかったけれど、いろんな宗派があるんだな。


守居橋(跨道橋)を渡り、「47次 守口宿」と書かれた紫色ののぼりのところどころに立つ通りを歩いて行った。そこまで宿場の風情はないけれど、まあまあ古い町家も残っていた。

そして、この道だけが高いところにあって、右にも左にも下りていく階段がある。その感じが、ここだけ天上の街道みたいで、なんだかいい感じだった。

そしてはっと気づいた。これって文禄堤じゃない?


ところどころに説明板が現れた。文禄堤についての説明だった。豊臣秀吉が淀川の堤防としてつくらせ、実に27キロに及んだそうだけれど、今はこのあたりにしか形跡が残っていないのだって。

今では淀川はもっと北の方を流れていて、このあたりは市街地になっている。

堤を残したままで、市街地になっていた。家々が堤の上にまで並び、一部は店舗になっていて(「BUNROKU」という名のスコーンセットのランチもある紅茶専門店とか)、堤の下への階段がいっぱいある。文禄堤を街の一部に取り入れてしまっているのが素敵だった。

ごちゃごちゃしている町を下に見ながら歩いた。27キロもこんなのをつくったんだなあ!

豊臣秀吉に堤の築造を命じられたという大名たちには、最初は興味もなかったのだけれど、実際にその上を歩いてみると、これだけのことをやった人たちの名を是非知りたくなった。毛利輝元、小早川隆景、吉川広家だって。27キロにわたる堤だけれど、2年で完成させたそうだ。

京街道である堤には高札も再現されていた。

前に歩いた高野街道でも「三日市宿高札場」が再現されていたけれど、ここの文面はもっと微にいり細にいりって感じだった。道徳面だけじゃなく、もう少し具体的な事柄にも言及されている。人通りの多い都会だからかな。

火付け、不審者など見つけたらすぐ通報せよ、薬、銭などまやかしものを流通させたら罪は重いよ、云々。


古い「ちょうちん・傘」の店を過ぎると文禄堤は終わり、街に降りていった。八島交差点だった。地名は守口市竜田通。

ここから斑鳩・龍田に通じる街道(奈良街道)があるんだって。それで竜田通というのかな?

清滝峠を通るので、清滝街道とも呼ばれるらしい。このあたりで京街道から分岐し、四條畷で東高野街道と交差。その後、磐船街道と合流、龍田町で竜田越奈良街道に合流。ここから東高野街道までの間は守口街道とも呼ばれているんだって。

竜田越奈良街道は難波あたりから旧大和川沿いを久宝寺、柏原、龍田、斑鳩と進む道だった。生駒山地の南端あたりを通る。他にこのあたりから生駒山地の北端あたりを通る道もあって、どちらも龍田~斑鳩は共通の道を通るんだな。


八島交差点は六つ辻くらいの複雑な辻になっていた。

右側の、マクドの裏側の道へ。マクドの敷地内に「白井家書院」の碑があった。平成10年まではここに、大塩平八郎ゆかりの大きな屋敷が残っていたそうだ。白井さんは大塩平八郎の門弟にしてパトロンで、屋敷内にある書院を大塩平八郎も使っていたんだって。

もう少し行くと難宗寺。守口西御坊だったところだそうだ。古くて立派な寺だった。その手前を左折して進んでいった。

次には盛泉寺。ここも古くて立派だ。こちらは守口東御坊。

本願寺が兄弟で西(本願寺派)と東(大谷派)に分かれたように、守口も西と東に分かれたのだって。堺、大阪、久宝寺、八尾などにも「西御坊」と「東御坊」があるみたい。

どちらに属するかは当時、大きな問題だったことだろうなあと思った。

顕如(信玄と義兄弟だって)は信長とも戦った本願寺最盛期の11代目。けれど後には信長と和睦し、石山本願寺を明け渡した。

長男教如は猛反発。徹底抗戦だ~!!と一向一揆(武士じゃないので「一揆」と呼ばれるけれど、実質は戦争みたいなものみたい)を続けている。

その後、豊臣秀吉の時代になって、本願寺もすっかり支配下に置かれてしまったみたい。12代に選ばれたのは長男ではなく、穏健派の3男だった。秀吉の出した刀狩令は、本願寺からも刀を失わせたし。

そして徳川家康の時代になり、家康は本願寺がかつてのような勢力をもつことがないように内紛を利用。長男教如に新たに東本願寺(大谷派)をひらかせたんだって。

かつて、いけいけ(強硬派)だった大谷派と、もう平和に暮らしましょう派(穏健派)の本願寺派に考え抜いて分かれていたのだろう信者も、西と東に分かれたままになったんだな。


浜町交差点(国道1号線・京阪国道)を過ぎ、左手に一里塚跡が現れた。このあたりまで守口宿の紫の幟があがっていた。

そのまま道なりに進んでいくと、バス通り。このバス通りを北上していった。守口東高校を過ぎ、右手に日本通運が現れたら、左に分岐する道に。

地名は八雲だった。八雲北町には八雲神社があるらしかった。

八雲神社は全国にあって、牛頭天王、スサノオを祀る八坂神社系の神社だそうだ。けれど詳細は不明なんだって。

八雲小学校を越えると、上を高速(阪神高速守口線)が走っていた。そのまま道なりに進み、淀川沿いに行くのが京街道。

けれどこのへんで帰ることにして、地下鉄谷町線の大日駅へ。

高速の下を東に向かってけっこう行くと、検車場があり、たくさん並んだ線路に車両もいっぱい並んでいる大日駅が見えてきた。広いだけにそこからもけっこう歩いて、やっと大日駅に。

大日駅って、大阪高速鉄道モノレールの駅でもあるんだって。大阪空港(伊丹)~千里中央~万博公園~大日~門真市あたりを走るらしい。


電車でたかだか10分の距離とは言え暑くて疲れた。

この先はほとんど淀川の土手道を進むみたいで、日陰もほとんど望めないだろう。続きを歩くのはこりゃあ秋だな、と電車で眠った。

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