京街道を高麗橋から
江戸時代、いろんな街道の出発点となっていたという高麗橋は、今や上を高速が走る日陰だった。高速の高麗橋入口もあった。なんだか狭苦しいくらいで、ここが大阪の中心だったなんてちょっと信じられなかった。
そしてここも高麗橋だったりするんだな。久太郎=百済だというし。
「里程元標」の新しい碑があった。高麗橋ともあろう場所をそれらしく素敵な観光地にしてしまってもよかったのに、こんな高速の下ではちょっと無理だろうなあ。ただ、街なかにありながら地味だからこそかなと思われる、魅力的なお店がいっぱいだった。
高麗橋の下を流れるのは東横堀川で、秀吉が掘らせた大阪城の西の外堀であったらしい。西横堀川は後に材木商が掘らせた運河で、本町駅21番出口から出た高速の下を流れていたそうだ。近代化の中、川を埋め立ててその上に高速道路を造るというパターンね。
「銅座跡」「銀座跡」への道標もあった。
銀座は江戸時代の銀貨の鋳造所のことらしい。といっても大阪の場合は鋳造はしておらず、京都にあった鋳造所に銀を送る役目をしていたんだって。銀は石見銀山や生野銀山(朝来市)から運ばれてきたもの。銀座は両替町なる町にあったそうだ。
銅座は銅の取り扱い所(銅貨をつくっていたのは「銭座」だって)。足尾銅山などの銅山から運ばれてきた銅を銅吹仲間(住友が有名)に精練させて、それを長崎に送り、輸出していたんだって。銅の行方はここで管理し、密輸入されないようにしていたんだそうだ。
最初は銀座内にあったそうで、後には今の愛珠幼稚園あたりに移転したのだって。
高麗橋を東に向かい、松屋町筋に出ると、少し北上して天神橋交差点へ。
途中、右手の郵便局の敷地内に「紀州邸跡」の碑があった。紀州藩の蔵屋敷があったのだって。
天神橋で大川を越えると北区に入り、大阪天満宮がある。天満宮は別名天神さんだから天神橋なんだろうな。
天神橋は渡らずに、天神橋交差点を右折して、土佐堀通りを東に。
左手に八軒家浜船着場が見えた。熊野街道で歩いたところで懐かしかった。右手には、熊野街道のスタートあたりで上った坂道。
新選組の定宿だったという「京屋忠兵衛跡」の碑がチーズ屋さんの店内に見えた。
熊野街道の坂道の一本東側の階段が気になって、ちょっと上って行ってみた。階段の上は公園だった。このあたり、すきだな。石町というところ。後で知ったことには、坐摩神社の元々の鎮座地が石町と思われるそうだ。他、国府も置かれていたらしい。なんだかそういう雰囲気のあるところだった。
道を戻って、もう少し行くと永田屋もあった。「八軒屋浜船着場跡」の碑のある昆布屋さんだ。
本町からそう距離は歩いていないのに、あれこれてんこ盛りで、濃い散歩だった。それだけ大阪には活気にあふれた歴史があるんだろうな。
土佐堀通りに戻って東に向かい、京阪天満橋駅方面へ。
駅に近づくと、巨大なビル群が現れた。怖いくらいのビル群だった。周囲はフランチャイズのお店が多そうで、ちょっと歩いただけでは、大阪らしさを捨てたような町に思えた。せっかく川に近いのに、あまりそれと気づかないオフィス街。
まだあまり歩いたことのないこのあたりのことは、まだよく分かっていなかったのだけれど、ビル群の裏手を流れるのは大川。
元は淀川だった。平安時代、京から淀川を船で下って来て八軒屋浜で下船し、熊野詣に向かったというところ。渡辺党が住み、守護神の坐摩神社が鎮座していたという、渡辺津とも呼ばれたところ。
今ではもう少し北に流れていく川が淀川になっている。元淀川は大川として流れてきて寝屋川と合流し、中之島の北(堂島川)と南(土佐堀川)に分かれ、また一緒になって、今度は安治川と名前を変えて、大阪湾に注いでいく。
土佐堀通りを東に歩いていくと、天満橋交差点で谷町筋と交差。京阪東口交差点で上町筋と交差。ここで一本南の道にうつって東へ。
左手に石垣が残されていた。埋まった状態で発見された、豊臣秀吉の時代の旧大和川の護岸用の石垣なんだって。旧大和川はその頃、ここを流れていたんだな。大阪城の北東あたりで淀川に注いでいたらしいからなあ。
大阪城は北には淀川(旧淀川)、西には海、東には幾多の川が流れ(低湿地)、天然の要塞だった。南は無防備だったから、空堀あたりに濠をつくったけれど、それは夏の陣の前に埋め戻されてしまった。
鶴も飛来するような低湿地。そこに上町台地があり、その北端に城がそびえていたのかな。
秀吉時代の石垣の残る、短い道の先が大阪城公園だった。大阪城公園はかなり広い。
外濠があり、右手に京橋口が見えた。ここに立つと、お城を中心にした高台が濠で囲まれていること、京橋口が濠を渡る出入口であることがよく分かった。
大阪城は外濠で囲まれ、その出入り口は、西の大手門と東の青屋門、南の玉造口と北の京橋口。よく聞く「大手門」は、城の正門のことを言う普通名詞らしい。
京橋口は京に向かう橋である「京橋」からの出入口、玉造口は玉造からの出入口、青屋門は当時あった青屋町からの出入口だって。
もうすぐ大阪城周辺でトライアスロンが開かれるらしく、その告知ポスターがはられていた。
トライアスロンって、走って、自転車こいで、泳ぐってやつ。どこを泳ぐかというと、大阪城の外濠をなんだって!
京橋口にある公園案内図を前にして立つと、ビル群が見えた。京橋方面のビル群かな。大阪城とビル群が一緒になって、なんだか素敵な光景だった。
外人さんが次々と大阪城から出てきていた。中国の人と、欧米の人。何度か訪れた大阪城は、いつも日本人より外人さんの方が多かった。
陽が高くなってきていて、だいぶ暑くなっていた。大阪城公園に寄りたい気もしたけれど、暑い中、広い園内を無駄に(ってこともないけど)歩きたくなくて、「京橋」に向かった。京橋は寝屋川に架かる橋で、地名の京橋もこの橋の名前からきているんだって。
地名が大阪城3丁目だった。大阪城なんて地名があるんだな。
さっきから時々見えていて、気になっていた古そうな煉瓦づくりの塀と建物の前を通った。「砲兵工廠」とあった。あの「アパッチ族」の!?と、わたしとおかあさんはのどかな都会で仰天した。
砲兵工廠は日本陸軍が最初に設立した兵器製造所で、東京と大阪にあった。アジア最大規模の軍事工場で、付近の中学生をはじめ、大勢の人々が働きに来ていたそうだ。大阪には大阪城内にあり、だんだん拡張されて、戦争も最後の方になると5k㎡以上の規模だったらしい。働く人々も万単位。その頃には「砲兵工廠」ではなくなり、大きな組織の一端を担う「大阪陸軍造兵廠」になっていた。
そしてもちろん、空襲による集中爆撃を受けて壊滅(1945年)。
不発弾のおそれもある中、残された金属を回収して生きていた人たちがいて、アパッチ族と呼ばれたそうだ。多くが在日朝鮮人のグループで、鴫野あたりから環状線(当時は城東線)の線路を越えてやって来ていたんだって。朝鮮半島からも人が連れてこられて軍事工場で働いていたのかな。
表門や建物が今も残されていた。ぼろぼろになっているレンガの小さな建物は、守衛詰所だったところだって。大きな「化学分析場」の建物も残っていた。
そのそばを平和にサラリーマンの人たちが歩いていく。
京橋は今では人通りもそれほどない、それほど大きいでもない橋だった。
橋を渡り、城東区に入り、土佐堀通りの続きを歩いた。
片町交差点に片町東交差点、このあたりは、新しいサラリーマンの街って感じがした。
途中、左手に「のだ橋跡」の碑があった。最近までは古いところだったけれど、再開発されたような雰囲気だった。
元々ここを鯰江川が流れていて、野田橋がかかっていたそうだ。京街道もそこを通っていたんだって。
右手にイオンがあった。今はもうなくなっているそうだけれど。
地蔵なんかがいて、このあたりでちょっと迷いつつ、京阪モールの北側に。
京阪モールはおしゃれな感じだったなあ。ちょっとヨーロッパを意識している感じ。モールに沿って西に向かった。すぐそばはJRで、そっち方面はなんだか、こてこての京橋。「大人の遊楽地」的な感じ。
かつて環状線あたりを境界に、内側だけが大阪市内だった時代があって、市内はいろいろキビシかったから、市内に近く、けれどそれほどキビシくはない環状線のすぐ外側にモロモロ集まり、大阪環状線の外周はDEEP地帯となったってことだった。その名残が、JR京橋駅の向こう側にコテコテと残っていた。
大阪陸軍造兵廠が大阪大空襲の標的になっていたとき、ミスもあり、他のところにも1トン爆弾などが大量に落とされているそうだ。
第8回大阪大空襲では京橋駅を直撃。ちょうど駅には電車が来ていたらしく、「京橋駅空襲」とも呼ばれるくらい被害者を多く出していて、爆撃慰霊碑がJR京橋駅南口にあるそうだ。
JRの「京街道」と書かれた高架の下をくぐった。大きな温度表示板があって、31℃になっていた。きつ・・・。
新京橋商店街、京橋中央商店街と歩いていった。
商店街はあまり記憶に残っていない。他のところが強烈で、商店街の中が小休憩みたいな感じだった。
そのうち都島中三商店会になっていて、京街道の道標が現れた。道にも「歴史の散歩道」の舗装がなされていた。
左手に榎並地蔵。元は野江村にあったらしい。「榎並」というのは、かつてこのあたりが「榎並荘」っていう荘園だったことによるんだって。
途中で道がややこしくなり、「歴史の散歩道」の舗装もなくなってしまった。
ここはそのまま道なりに北上して、都島通まで出て右折すればよかったみたい。なのにわたしたちは手前で右折。「野江墓地」なんかがあって、道がわからなくなってうろうろした。でもおかげで、そのまま行っていたら気がつかなかっただろう野江の面白さにちょっとだけ触れられた。
「戦争で燃えなかったスプロール地区」ってやつだろうな。空襲などで燃えたところは新しく道路から作りなおされて、直線道路に建物も規則正しく建っている感じ。けれど作り直されることのなかった古くからの住宅密集地は、計画性もなくどんどん家や長屋が建てられていったから、道はカーブし、複雑にいりくみ、家々が縦横無尽に建っている。それがスプロール地区。
道はぐねぐね、古い家もいっぱいだった。古すぎて、窓がゆがんでいたりもする。ひしゃげかけているのに人が住んでいる長屋もあって、ちょっと驚いた。
最初はそんなところを、地元近くのニシナリあたりで見てびっくりしたのだけれど、そんなニシナリ的なところって、散歩しているとけっこうあった。
古そうな来迎寺あたりも面白かった。野江の寺子屋でもあったお寺なんだって。
そしてうろうろしたおかげで、お母さんの手には揚げたてのコロッケとパン屋さんの袋がぶらさがっていた。
町で売っている揚げたてコロッケって、当たり外れが大きいなあって最近、分かるようになってきた。ちゃんとしたじゃがいもを使わずに、マッシュして乾燥させたようなものを水で戻して使っているようなコロッケが多々ある。でもここのコロッケはちゃんとしていて、おいしかった。
犬に玉ねぎはNGなんだって。そしてコロッケには玉ねぎが入っているのだって。けれど大丈夫。人間にもピーナッツがNGな人とそうじゃない人がいるみたいに、玉ねぎがNGじゃな犬もいる。わたしは一度酢豚をつくるおかあさんが落としちゃった玉ねぎを失敬して、玉ねぎが大丈夫な犬だというのを実証した。だからコロッケくらい大丈夫。
来迎寺のすぐそばの都島通に出ると、そこは野江4丁目交差点だった。いきなりのやけに大きな交差点だなと思ったら、地下鉄野江内代駅があった。
都島通りはここから北東に向きを変え、京街道もこの近くを通っているから迷子から脱却。
京街道を歩く前に、野江水神社に寄った。交差点を東に行ったところにあった。野江は旧大和川と淀川との合流点で、低地でもあり、何度も大きな水害に遭っているそうだ。ここには城(榎並城・野江城)もあり、三好政長が築城中にも水害が起きて、祠に水の神様を祀ったのが野江水神社の始まりだと言われているらしい。
隣には水洗地蔵もあった。市内のお地蔵さんにしては広い場所にあって、水害に苦しめられた古い歴史を持つ町の感じがあった。
都島通の一本西側の道を歩いていった。「京街道」の新しい碑があるのだけれど、道にはそんなに歴史は感じられず、とってつけたようだった。駅ができて、碑も新しくたてられたのかな?という感じがした。
都島通に合流して、しばらくそのまま進んだ。通りに沿ってお店が続いていて、「野江国道筋商店街」とあった。
小さな公園のところで一本西の道に入り、ちょっとした商店街を北上。
途中、都島通の信号の向こうに関目神社が見えて、寄り道。ここは「関目七曲」なる、大阪城下に突入してこられないようにしたってところで、じぐざぐ道になっていた。
関目神社は豊臣秀吉が大阪の北の守りとして祀ったのが始まりなんだそうだ。スサノオを祀っているらしい。
関目の七曲りに須佐之男尊神社(関目神社)、ここは大阪の守りの要所の1つで、「関目」の名もそのことに由来するんだろうと言われているのだって。
京街道の続きを歩いたら、また都島通に出て、そこは地下鉄関目高殿駅だった。
このあたりは公園が少なすぎ、あっても狭すぎ、数少ないベンチには先客がいた。
そんなに歩いていないけれど、暑くて疲れたし、もう帰ろうかな、と駅に降りていくと、地下食堂街があった。
ただの小さな地下鉄の変哲のない駅だろうと思っていたら、ほとんどが空きテナントで、営業しているらしいところもえらく古く、昭和のまま時が止まっているような感じが妙に魅力的だった。
谷町線の野江内代駅あたりとはあまりに時代が違う・・・と思ったら、野江には翌年、新しい駅ができる予定で、それで付近がぴかぴか新しくなっていたのかな。
谷町線の駅自体は昭和52年にできているんだって。関目高殿駅は、きっとその頃のまま、あまり変わっていないんだろう。
野江に新しくできるのは、JRおおさか東線だそうだ。今も一部のみ営業が始まっている(前に通った俊徳道駅とか)。なんでも「北梅田」から久宝寺までをつなげる路線らしい。
人口も少なくなっていくのに、すでに電車で行けるところに更に路線作っていってどうするんだろう・・・とか思った。
そして乗り換えのために降りた梅田の地下街は様変わりしていた。阪神梅田駅あたりが大きく変わっていた。こんなにどんどん変えていってどうするんだろう・・・とか思った。変え続けていないとだめみたいに。
早めに切り上げれば、そして涼しめの日を選べば、6月の散歩はなんとかなりそうだな、と思った。
地面が焼けるように熱くなる8月9月は無理としても、
暑くてばててもすぐ帰れる大阪市内、まだほぼ知らない北部も歩いてみようかな、と思った。




