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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
26/44

本町だって

いろんな街道を途中まで歩いた。熊野街道と紀州街道は泉佐野あたりまで、暗越奈良街道は矢田山あたりまで、竜田越は大和小泉まで、長尾街道は二上山あたりまで、竹内街道は古市まで、高野街道は千早口あたりまで。

街道のスタート地点は大阪や堺で、散歩がてらふらっと行ける感じだった。けれど遠くまで歩くうち、続きを歩くためには電車を乗り継いだりして行かないといけなくなった。

だんだん暑くなってもきていて、たくさん歩くのもつらくなってきたし、どこに行こうかなあと考えた。

そんなとき、天気予報で言っていた。「厳しい暑さが続きます。でも真夏と違うのは、日陰はまだしのぎやすいということです。」

確かにそうだった。そして日陰が多いのは、緑にしか期待できない田舎よりも、ビルでいっぱいの都会だった。田舎では木々は山に固まっているだけで、歩く場所はその合間の木陰のない田舎道ってパターンが多かった。

都会なら、密集したビルで日陰だらけだ。電車の駅もあちこちにあって、暑くてそろそろ帰りたいとなったときもすぐに電車に乗れる(田舎だと次の駅まで3km、とかもある)。至るところにコンビニや自販機があって、水分補給にも困らない。いざとなったら、クーラーの効いた室内で涼めるかもしれない(最高)。


まだ梅雨前の季節だったけれど、犬は暑さに弱いのだ。

犬ってもともと寒い地方の生き物だから、暑さにあまり対策のとれている体じゃない。汗をかくのも肉球くらいで、暑い時の体温調節には、直に冷やすか、はあはあいって口から熱を逃がすかしかないらしい。おまけに体中毛むくじゃらで、厚手の長袖長ズボンはいてるようなものよ。

都会を歩こう、と、今回の散歩はまだ歩いていない京街道へ。

京街道もスタート地点は大阪中心部。都会の中を、地下鉄で帰れる範囲内で歩こう。まだ梅雨前の、晴れ時々曇りくらいの、ひなたは暑かった日。

絶対足りないだろうけれど水は550ml。あとは買い足しね。


京街道のスタート地点は高麗橋ということになっているらしい。高麗橋は他にも多くの街道の起点になっている。

暗越奈良街道も、江戸時代の終わりのころからか、高麗橋がスタート地点というふうに変更されたんだって。高麗橋は大阪の中心部で、「里程元標」が置かれ、ここから何里かってことが道標には表示されるものだったらしい。

でもまだ行ったことはなかった。暗越奈良街道も元々の出発点だったらしき玉造から歩いたし。

京街道は高麗橋から歩いてみることにした。そして高麗橋に行くからには、近くにあるらしい坐摩いかすり神社にも行ってみようと思った。

それで坐摩神社の最寄駅の本町駅で降り立った。地下鉄本町駅。ここのところ、ずっとなじみのない駅でばかり降りていたから、本町なんて庭先くらいの感覚だった。こんな近くから散歩できるなんてお手軽感がうれしい。


本町駅には地下鉄の3つの線(御堂筋線、中央線、四つ橋線)の駅があり、出口もいっぱいある。構内にある案内を見て、21番出口から出た。ビルや高速道路なんかの構造物ばかりで日陰だらけだ。

すぐの高速の下に進むと、道路の向こうに神社が見えた。

行ってみると、火防ひぶせ陶器神社だった。西向きの神社かな。かつてはこのあたりに火除け地蔵がいたんだって。江戸時代、瀬戸物も大阪で取り扱われ、このあたりには瀬戸物問屋が建ち並んでいて、瀬戸物町になっていたらしい。瀬戸物の運搬時など、壊れないように保護するのに使っていたのが藁。燃えやすい藁を大量に使っていたから、火除け地蔵を大切にしていた。

そしてそれがやがて火防陶器神社にと変わっていったらしい。

境内のいろんなものが陶磁器製で、面白かった。


そしてその裏が、坐摩神社(いかすり。通称ざま)だった。移転を繰り返した火防陶器神社が、坐摩神社の境内に越してきたのだそうだ。

そして坐摩神社もまた、それ以前に移転してきている。

住吉大社と同じく神功皇后が祀ったとされていて、その場所は淀川河口だったというから渡辺津あたり。そこでは後に坐摩神社を氏神とした渡辺氏が大いに栄えた。

西住吉街道を歩いた時に渡辺氏のことはちょっとだけ知った。

元は嵯峨源氏の流れをくむ一人のイケメンだったらしいが母(養母)の地元、渡辺(渡辺津あたり)に居を構えて渡辺綱を名乗ったのが始まりだった。坐摩神社を守護神とし、やがて渡辺党と呼ばれる大きな勢力になっていった。各地で水軍を結成し、渡辺はずっと、各地の水軍のボス的な存在だったみたい。

後に豊臣秀吉が大阪城を築城するとき、近すぎるってことで、移転命令。坐摩神社と一緒に船場に移っていった。それがここね。

その時、武具などを作っていた(つまりは皮革を扱う)者たちは別に新しく浪速神社を祀り、渡辺村となる地に移っていったということだった。


移転前の坐摩神社には、熊野街道の最初の王子、窪津王子があったのではないかと言われている。

移転後の坐摩神社には、「上片落語寄席発祥の地」の新しい碑があった。上方落語協会・桂三枝の名で説明書きなどもされていた。江戸時代、初代桂文治なる人が初めてここで寄席をひらいたんだって。

寄席の起源はお寺や神社の境内を借りて開いていたものだったらしい。今は見なくなったけれど、わたしが小さいころ、住吉公園で紙芝居をして水あめを売るおじさんを2度ほど見た。公園がつくられるようになったのは明治以降らしいから、それまでは寺社の境内がそういう役目をする場所だったのね。

地名は久太郎町きゅうたろうまちだった。「く」⇒「久」「だ」⇒「太」「ら」⇒「郎」とした地名ではないかと言われているのだって。つまり百済ね。


火防陶器神社、坐摩神社とあって、その更に東が難波別院(南御堂)だった。坐摩神社側から行くと、古い大きな石垣が壮観だった。

浄土真宗大谷派で、「大阪教区御遠忌キャラ」はブットンくんだって。ご当地キャラみたいに、それぞれの教区で「御遠忌キャラ」なるものを作っているみたい。「御遠忌」って、宗祖・親鸞の50年ごとの法要のことらしい。

境内にある御堂会館は工事中だった。それでも立派さはよく伝わった。ここまで立派だと凄みがあるなあと思った。

庭園には芭蕉の碑があった。暗越奈良街道で大阪にやって来た芭蕉は住吉大社で升の句を詠み、その後体調を悪くして、南御堂の前にあった屋敷に逗留中、亡くなった。辞世の句は「旅に病んで 夢は荒れ野を かけめぐる」。このすぐそばで生まれた句だったんだな。

毎年、難波別院では芭蕉忌を開き、法要の後、盛大に句会が行われるのだって。


工事の時、地中からでてきたという地蔵も祀られていた。

大阪は水の都だった。もともと流れていた川の他、堀川をいっぱい造って、運搬や通行に主に水運を使っていた江戸時代、大いに栄えた。

けれど鉄道なんかができ、水運から陸運の時代になって、多くの堀川が埋められて高速道路がつくられた。川を埋めるとき、傍らにいたお地蔵さんが一緒に埋められることも多々あったのだろうな。水害などで流されて、川の底にいたお地蔵さんだっていただろうし。

今でも大阪の土の中には、お地蔵さんが埋まっているのだろうな。


北御堂や南御堂について、何も知らなかったので、ちょっと調べてみた。

浄土真宗をたちあげたのは鎌倉時代の親鸞。親鸞の子孫が代々浄土宗のトップをつとめていて、有名な蓮如は8代目。大阪城に「袈裟掛け松」のある人ね。そのあたりに後に石山本願寺になる庵を建てた人。

そして12代目は教如。教如は大阪渡辺に大谷本願寺を建立。

親鸞を祀るところを本願寺といったみたい。元は京都にあったけれど延暦寺によって焼かれてしまい、石山本願寺とか大谷本願寺とかが、大阪に新たに本山としておかれたんだな。

後に大谷本願寺は坐摩神社と同じように豊臣秀吉の城下作りで移転させられ、ここに移ってきたらしい。

そして更に後には、徳川家康に与えられた京の地に東本願寺をたてて本山とし、大谷本願寺は「難波別院」となった。

ところが11代顕如の時代に、京都にあった本願寺(西本願寺)もすでに再興されていて、教如の弟がこれを継いでいた。西と東、兄弟で分裂することになってしまった。それまではただの「本願寺派」だったけれど、兄弟で西本願寺(正式名は本願寺)の本願寺派と東本願寺(正式名は真宗本廟)の大谷派に分かれてしまった。強大な力を持っていた本願寺の力をそぎたいという家康の思惑が働いていたらしい。

南御堂(難波別院)は大谷派、北御堂(津村別院)は本願寺派らしい。

渡辺氏と同じく、とりあえず片鱗だけかじってみた。かじりかじりいこう。


南御堂の東が御堂筋で、その御堂筋に「芭蕉終焉の地」の碑が建っていた。

御堂筋は、当時の関市長が「こんな大きいもん作って、飛行場にでもするつもりか?」と呆れられながら、これからの時代には必要になる、と大幅拡張してつくりあげた道路。街路樹のイチョウが、根元からも葉っぱをだしていた。

街中の散歩は、やっぱりいつもと様子が違って、ビル、サラリーマン、ベンチにはパソコンを開いた背広の男の人や、ただ座っているハイヒールの女の人。それぞれ同じ方向を向きながら、違う時間の中にいるようだ。

そして案の定ビルが日陰を作ってくれて、けっこう涼しかった。

御堂筋を北上していき、立派な北御堂も越えた。北御堂は本願寺派の集会所だったところを明治時代に津村別院と名付けたものみたい。

御堂筋は、交差点の名前も面白かった。備後町、瓦町、淡路町、平野町。瓦町は瓦を売っていたところで、備後町、淡路町、平野町は伏見町と同じで、それぞれの地から商人を呼んできて住まわせたってところかな。

平野町3丁目交差点から少し西にいったところに御霊神社があった。

この辺り一帯は西成郡津村郷だったところで、その産土神だったらしい。入江が円形になっていることからつぶら江と呼ばれていて、その「つぶら」が津村になったらしい。

津村別院(北御堂)の津村もここからきている。


御霊ごりょう神社って、元々は関東平氏5家の祖を祀っていて「五霊神社」だったとか、霊のたたりを鎮めるための神社だとか言われてるみたい。

5家の祖のうちの一人、鎌倉景正(相模国鎌倉あたりの平氏で、通称権五郎)を祀っている御霊神社も各地にあるらしくて、ここもその1つ。「権五郎→ごろう→ごりょう」という言葉遊び的なものもあるみたい。

江戸時代、ここ船場に因幡国の藩主が住んでいて、鎌倉権五郎さんを祠に祀っていたんだとか。そして圓神社に土地を寄進。圓神社はここに越して来て権五郎さんを合祀し、その後名前も「御霊神社」に変えたんだって。

圓神社は元は今の靭にあって、瀬織津比売を祀る産土神だったらしい。瀬織津姫は禊の神様らしく、水の近くに祀られることが多いそうなのだけれど、古い神様らしく正体は不明。ニギハヤヒと関係があるのでは云々と噂されているみたい。

圓江で平安時代の頃に八十嶋祭(天皇即位のための儀式の1つ)が行われたらしく、それで祀られたのが圓神社だったらしい。


坐摩神社には「上片落語寄席発祥の地」の碑があったけれど、ここには「文楽座之碑」があった。

「肌まもりの樹」というのもあった。大阪空襲で焼けてしまった後、この木だけが再生したんだって。

焦げた木から緑の葉が出てきたのかな。空襲で肌が焼けただれた人もいただろうし、希望に感じられたのだろうなあ。

御堂筋から少し道を入ると、古い建物がけっこう残っていた。和菓子屋、カレー屋、登録有形文化財になっている銅板の使われているお家。結構古いものを残していて、それがおしゃれに使われている。

毎日通ったって追いつかないくらいの数の飲食店があって、道には弁当屋もけっこう出ていた。昼時になると、運んできてワゴンみたいなところで売り始めていた。

肌色の濃い目の女性2人が紺色の制服姿でオフィスビルから出てきて、弁当屋に向かっていた。何語かわからない言葉で会話をしていた。


御堂筋に戻って北上していくと、道修町、伏見町、高麗橋、今橋、北浜、それから淀屋橋。たいていの交差点の末尾に「3」が付いていた。御堂筋にはたいてい「3」、堺筋には「1」が付いているみたい。

「高麗橋3(高麗橋3丁目)」交差点を右折すると高麗橋なのだけれど、その手前の「道修町どしょうまち3」交差点で右折。少彦名神社に行ってみたかった。

そこから「道修町1」交差点まで東に歩いたのだけれど、この通りが面白かった。

「薬の町」、道修町(どうしてこんな名前になったかは分かっていないらしい)だけあって、製薬会社が軒を連ねていた。新しくて、地味ながらに意向をこらした素敵なビルあり、古そうな素敵な洋風のビルあり、古い町家のままの佇まいもあり。ビルの合間に横の通りの素敵なビルも見えて、歩いていて飽きなかった。「ミュージアムストリート」と名付けられていた。

わたしたちは素通りしただけだったけれど、興味を持って歩いたら、けっこう時間がかかるのじゃないかな。


江戸時代、道修町には西洋(オランダ)の薬、東洋(清)の薬を一手に扱っていた「薬種中買仲間」が軒を連ねていたのだって。全国で流通する薬はまずはここに集まっていたそうだ。

今も製薬会社の展覧会みたいだった。武田薬品工業本社、塩野義製薬本社、田辺製薬本社、小林製薬本社、カイゲンファーマ本社等等。

明治時代によそから移転してきたところも多いようだけれど、武田なんかは江戸時代に道修町で仲買商店としてスタートしているみたい。

田辺製薬の場合は・・・

徳川家康の時代、朱印状をもらい、今のフィリピン(ルソン)やタイへ出かけて生薬などの貿易を行う。4代目家綱の時代、分家した初代田辺五兵衛が地元・土佐堀に薬種問屋出店。6代目田辺五兵衛、薬種中買仲間に加入。11代目田辺五兵衛、道修町に進出。

ルソンで生薬の貿易?と不思議に思ったんだけれど、朱印船貿易の主な交易相手は中国で、ただ中国(明)は日本の船の出入りを禁じていたので(倭寇に苦しめられたりしたため)、お互い合法的に取引できるルソンなどで取引を行っていたんだって。


ミュージアムストリートが終わる頃、少彦名神社が現れた。

街なかの路地のような短い参道を抜けて、奥に隠れた神社に参る。なんだか素敵なところだった。オープンな隠れ家みたいな。張子の虎などもあった。

「薬種中買仲間」たちが祀った神社だったのだろうな。なんだか江戸時代の大阪商人たちの良心に触れられたような気がした。みんなで祀る少彦名の名にかけていい薬を扱うぞ、みたいな。

スクナヒコナは大国主の国造りを助けた小さな人で、あらゆる物事の神様になっている。特に薬の神様として有名みたい。

堺筋に出たら高麗橋1丁目交差点まで北上して、そこを西に行くと、高麗橋だった。

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