下高野街道を天王寺から
そして曇り空のある日、下高野街道を歩きに行った。
おおまかに言って、京から歩きで行くのに使われたのが山沿いの東高野街道、京から船で守口あたりまで出て、そこから歩くのが中高野街道、堺から向かうのが西高野街道、そして大阪から向かうのが下高野街道らしい。
下高野街道は四天王寺からスタートし、四天王寺庚申堂を通るのがスタンダードなのかな。寺田町からスタートして、美章園、榎神社、桃ケ池公園へという、難波大道の道が下高野街道として紹介されていることもあった。
難波大道は歩いたし、四天王寺や庚申堂には行ったことがあるしな、というわけで、天王寺駅からスタートすることにした。
地下鉄天王寺駅は3号出口が「庚申口」だった。北にある庚申堂に続く出口で、わたしたちは南に2号出口を出ていって、すぐの近鉄阿倍野橋駅東口へ。
あとは信号までずっと、道なりに南に向かった。「辻」が目立つところだった。辻調理学校関係の建物が多くて、学生さんによる製菓店もあった。朝早すぎて空いてなかったけれど、いい匂いがしていた。
この道は庚申街道でもあるらしい。庚申街道は、古市街道(平野~古市)のバイパスで、四天王寺~庚申堂~桃ケ池~今川~中野~針中野~湯里~住道~川辺(大和川の明治橋)だって。そのうちの四天王~桃ケ池が下高野街道と重なっている。
高野山に向かうのに、桃ヶ池までは庚申街道や難波大道だった道が使われたってことね。
「庚申」って散歩していてときどき出会うけれど、なんのことなのかよく分かっていなかった。
元々は中国の道教の教えからきているらしく、庚申の日というのが60日ごとにあるんだって。その日は眠らずに、みんなで過ごしましょうっていうのが「庚申さん」なのかな。みんなで寄り合って語ったり、時と場合によっては酒盛りしたりして夜を明かしたそうだ。楽しいイベントだったのだろうな。
その日、人の体に住む3種類の悪い虫が人の眠る間に活動するとされていて、それを阻止するために眠らずにいるんだそうだ。庚申さんを祀る対象にしたのが青面金剛像で、祀るお堂が庚申堂。
信号で左折。ここは「歴史の散歩道」の舗装がされていた。
ここをそのまま東に行くと、美章園駅。前に昭和な感じの下町ぶりにちょっと驚いたあたりだった。「あべの」は最近豹変したけれど、周辺はついていっていない感じがすごくする。このあたりもそうだった。
あびこ筋に出る前、マクドの手前の道に入り、そのままあびこ筋に出ずに手前で右折して、あびこ筋の一本西側を南下。次の四つ辻で結局はあびこ筋に出て、そのままあびこ筋を横切って直進。すぐに工芸高校があるので、手前を右折。
工芸高校の建物は近代産業遺産に登録されているらしかった。大正12年開校、13年に校舎が完成。アールヌーボーの様式なんだって。レンガ造りの趣のある学舎だった。
道が2つに分かれて、右に行くとすぐ文の里駅。ここは左に。
長屋といえば昭和町が有名だけれど、昭和町に近い文の里も長屋が多い。けれど旧道なんてほぼ残っていないようで、かくかく曲がりつつ進んでいった。
最初の四つ辻で右折。掲示板があって、明浄学院高校のPRなどがされていた。大正10年の開校で、制服(セーラー服)が当時から変わっていないんだって。小さな郵便局を過ぎて、すぐを左折。ここは文の里明浄通商店街らしくて、一瞬だけ短いアーケードがあった。そしてすぐに明浄学院高校(建て替えられて校舎は新しい)があって、その手前を右折。
高速の下も越えて、松虫通に出たら、左折。桃ケ池公園が現れた。
もう何回目かの桃ケ池公園だった。桃ケ池の東側の遊歩道を南下していった。
もうソメイヨシノは終わって、花びらの少しだけ残る葉桜になっていた。少しだけ植えられたピンクの桜はちょうどシーズンみたいで、きれいに咲いていた。この桜はこの日、あちこちで見た。「関山」(カンザン・セキヤマ)って品種かな? この日からしばらくして、関山も散っていった。
桃ケ池が途切れて、グラウンドになったところで阪和線の高架下をくぐって進んだ。
「うどんや風一夜薬」のお店(しょうがのどあめやしょうが湯を売っている。住吉大社にもときどき出ている)の前を過ぎて、次の四つ辻を右折。
このあたりからは旧道らしくなって、くねくねした道なりに進むと、法楽寺や山阪神社。前も難波大道歩きなどで通った道だった。
最初は、なにも知らずに散歩していて、町中に普通にある、大きな寺や神社に驚いていたものだった。けれど実は、ここは「かつて難波大道だったらしき、下高野街道や庚申街道でもある道」だったんだな。
旧道が残っているのもこのあたりだけで、またじぐざぐ歩くことになった。
山阪神社からスーパーナショナル方面に左折して、南田辺本通商店街を横切り、府道26号大阪狭山線の東田辺1丁目交差点で右折して、26号線を南へ。次の東住吉区役所前交差点は覚えがあった。交差するのは南港通りで、いつだったか駒川のほとりを歩いた日に、ここを通った。
そのまま南下して、カナートモールの手前の信号を左折。次の四つ辻を右折。地名は東田辺になっていた。このあたりも長屋が多い。
それから鷹合。途中で東に向かって、水路のような駒川沿いを南下して行った。鷹合も長屋が多かった。そして、このあたりは昭和町あたりより、もう少し古い感じがする。
東には近鉄南大阪線が走っていて、ここからはずっと近鉄線を左に見ながら歩くことになった。
駒川(高麗川)には通路ごとくらいに橋がかかっていて、その橋の名前も面白かった。
常徳橋のすぐそばには常徳寺があった。酒君塚橋のすぐそばには酒君塚公園。
久しぶりに酒君塚公園に行ってみた。公園には酒君の墓だと言われている塚がある。酒君は百済の王族だったけれど、わけあって日本に来ていた人。ヨサミのあびこさんから鷹をもらった仁徳天皇は、酒君に鷹を預け、育てるように言った。そしでその後、仁徳天皇は鷹狩りを始め、御幸森方面に鷹狩りに行くようになった。それ以降、鷹を育てる人々が住んでいて、地名も鷹合(鷹狩りのこと)になったんだとか。
けれど実のところは、酒君塚古墳は仁徳天皇の頃より古い4世紀末の古墳だそうだ。かつてはもっと大きかったらしい。
随願橋、松原橋、鷹二橋、鷹匠橋、栄橋、学橋(すぐそばに鷹合小学校)、鷹合橋、大宮橋(すぐそばに鷹合神社)、太鼓橋。
久しぶりの鷹合神社近辺にも行ってみた。ここは、鷹合の中でも特に古い感じ。
鷹合神社にはスサノオが祀られていた。「素盛鳴尊神社」とあって、かつては牛頭天王社であったらしい。
最初来た時は、「素盛鳴尊神社」の文字も見なかったか、見ても読み方も意味も分からなかったんじゃなかったかな・・・。今は「スサノオ」だと分かる。
スサノオと牛頭天王は今では同一視されている。元は別物だったけれど、神社と寺は分けなさい、神社には日本古来の神を祀りなさい、となったとき、仏教関係の牛頭天王(祇園精舎を守る神)を神社に祀るのは・・・となって、牛頭天王=スサノオってことにされた。
枚方の百済王神社(百済王の子孫、百済王氏の氏神)にも牛頭天王が祀られていて、牛頭天王は朝鮮半島由来の神じゃないかって説もあるそうだ。
長居公園通りに出て、駒川は姿を消した。
このあたりは八尾街道と交差するあたり。雄略天皇の頃の磯歯津路が一部八尾街道になったとされている。
矢田2丁目北交差点を横断して、更に南へ。万代スーパーの前を通り、急に静かになった道を南下して行った。賑やかな長居公園通りのすぐそばにはこんな静かなところがあり、そしてすぐそばには古い鷹合神社もあるんだなあと、しみじみ思った。かつてのわたしは全く知らなかった世界。長居公園通りだけを歩いていても決してわからない。
そのうちほんの少し通りが賑わってきて、左手が矢田駅のようだった。
パン屋でもありはしないかと、ちょっと寄ってみることにした。駅の裏側が地方都市風の小さい商店街になっていた。けっこう賑わっていて、お笑い芸人クマムシがやってくるってポスターも貼られていた。
駅前では酔っぱらいらしきおじいさんがずっとなにか大声で言っていた。・・・ちょっとガラが悪いところなのかな?
元の道に戻って、続きを歩いた。
右手に西光寺と光西寺が現れて、このあたりは古そうなところだった。大きな通りを越えると、集合住宅の同じような棟がいっぱい並んでいた。右手に馬さしの小さなお店があった。1kg売りとかしてるみたい。おいしそう・・・。
左手には北向きの神社が現れた。神社の方角なんて気にしたこともなかったのだけれど、珍しいなって感じがして、何が珍しいんだ?と自問したら、北向きだからだった。なにかが珍しいって感覚がするくらい、神社をめぐってきたってことかな。
神社の名前はわからなかったんだけれど、宝神神社だったのかな? 塞之神(道祖神)を祀っているみたいだった。六地蔵とかもあって、石に彫られた文字が思い切り素人の黒い手書き風だったりもして、なんだか独特だった。そして玉垣の文字に目立っていた「部落解放」の文字。
元の道に戻って続きを歩き出すと、右手に今度はホルモンのお店。あちこち歩いているうちに学んできたから、そういうことか、と。
もっと右手に「矢田教育の森公園」があるようだったので、名前にひかれて行ってみた。
一帯が生まれ変わろうとしているところの感じがした。封鎖されている建物は、部落解放矢田西住宅集会所や部落解放矢田老人センター。市民交流センターひがしすみよしも、随分使われていない感じで荒れていた。
そして代わりに新しくきれいな、スペースも広々とした「矢田教育の森公園」や保育園、天然温泉の銭湯施設(大阪市初の天然温泉だって)などがつくられていた。
前に大依羅神社に行ったとき、寄ったあたりに似ていた。そこにも新しいこんな公園が作られていて、「獅子が空を飛ぶ日に」と題の付けられた像が置かれていた。
こんなふうに、つくり替えていっているところなんだろう。確かにいつまでも「部落解放」の名前が目立っていてもいけない気がする。こうやってそんな文字は消され、新しくリニューアルされて、新しく人々が流入してきて変わっていくんだろう。
ここはまだ人々が流入してくる前のようだった。閑散としていて、そばの大和川東公園も素敵なのに、人影は少なかった。
立派な光明寺を過ぎて、下高野橋を渡った。大和川ね。
右手に阿麻美許曽神社の緑が見えていた。
下高野橋の次は小さな七郷橋。ここは渡らず、左手の階段を下りていき、26号線の少し東の道で南下。地名は松原市天美北だった。
26号線を渡って、そのまま行くと、神社の鳥居。
平安時代初期の創設で、スサノオ、天児屋根命、事代主命を祀っているらしい。事代主はえびすさんと釣り仲間ってことで、えびすさんを祀る神社でよく一緒に祀られているそうなんだけれど、それ以外では葛城に縁の深い神様らしい。
天児屋根命は、例の中臣氏の祖神。元はどなたを祀っていたのかとか、詳しいことはなにも分かっていないみたい。「許曽」のつく神社は新羅系渡来人の神社ではないかとも言われているそうだ。
行基が滞在したという言い伝えもあって、それで近くの橋を「行基橋」と呼ぶのかな。あの大和川にかかるピンク色の橋。
行基橋を渡った時、見えていた阿麻美許曽神社の緑。そこにいた。楠がいっぱいで、境内だったのだろう一部は老人ホーム的なところになっていたけれど、そこにも神木がしげり、ホームの屋上までも枝が届いて、さらに上に伸びていた。
鳥居から出て、そのまま南に向かうのが下高野街道。
歩道のほぼない狭い道だった。車通りがそれほど多くないので、ましだったけれど。
左手に「関西出雲 久多美神社」が現れた。昭和41年にここに建てられたらしい。大物主命を神と祀る新興の宗教団体のようだった。
そしてこのあたりは大阪市なんだって。大和川が付け替えられて、ひとつだった多くの村が大和川の北と南に分断された。遠里小野みたいに大阪市と堺市に分かれたり、若林みたいに八尾市と松原市に分かれたり、瓜破みたいに大和川南側でも大阪市を貫いたり。
阿麻美許曽神社も大和川の南側になってしまったけれど、元は矢田の氏神だったので、境内は大阪市東住吉区矢田を貫き、それだけじゃなく、参道にあたるこの道も、大阪市東住吉区矢田なんだって。
このあたりで、ちょっと違う道にひかれて入っていって、迷子になった。迷路みたいで、うろうろ歩きまわっていた。東の阪南大学の近くの線路あたりで、古い集合住宅みたいなところにも迷い込んだ。このあたりは西成区のごちゃごちゃしたディープスポットにも似ていた。その後も、墓地が目立ったり、「防犯カメラ強化」みたいな文言が現れたり・・・ニシナリ的だった。
どうにか道を戻って南下を続けた。左に天美小学校が現れて、道が分岐すると左側に。
そのうち西除川が現れた。この先、川沿いの遊歩道を歩いていく。ベンチもあったけれど、「監視カメラ」「みてるぞ」みたいなことが書かれていて、座って寛ごうかって気になれなかった。
そのうち右岸にきれいな新築の家が建ち並んだところに出て、雰囲気も変わった。
右側になにか見えたので行ってみると、「北新町大池公園」だった。新しく出来ました感でいっぱいだった。一帯が全部池だったのを、一部池を残して埋めたてて公園にしたのかな。公園の周りは田畑とかで、それを宅地造成したのかな。
新しく人々がやって来て、それで雰囲気も変わってきているのだと思われた。周りを見回すと、かなりの旧家も点在していた。豪農だったとかなのだろうな。
西除川沿いをもう少し行くと、布忍神社だった。一帯はかなり古い雰囲気で、面白そうだったのであたりを散歩した。布忍寺もあった。
元々、布忍寺は聖徳太子創建とも伝わり、それを空海が再建。その鎮守として布忍村の産土神、牛頭天王を祀ったのが布忍神社だったそうだ。
布忍神社を過ぎると、川に釣り人が等間隔に座っていた。よほどの釣りポイントか、釣り人の集いでやってきたご老人たちか、という盛況ぶりだった。「大和川合流2.8キロ」とあった。
布忍橋が現れて、よく見ればここは長尾街道歩きで歩いたところだった。「惣井戸」にも見覚えがあった。この長尾街道と下高野街道の交差点で、西除川遊歩道(西除川西側)より一本西の道に。
このあたりは国分と堺の間。堺から出発して国分に向かう途中ね。
「蓮如上人御旧蹟」という立派な石碑が現れて、行ってみると稱名寺(称名寺)だった。周りは旧家などもあって、古い雰囲気だった。壊れかけの、元農家だろうなっていう古い廃屋などもあった。
このあたりにも「人権」の文字があり、「更池」という地名らしき文字が目立っていた。
かつてこのあたりは更池といい、江戸時代の頃には、死んだ牛馬の処理をしていたらしい。
被差別民の起源ははっきりとは分かっていないようだけれど、はじめ「かわた」と呼ばれ、それから「えた」と呼ばれた人々だったみたい。川の近くに住み、皮を扱う仕事をすることが多かった。明治時代に解放令が出て、彼らも皮革や牛馬に関わる仕事を離れ、自由に他の職につけることになった。けれど、この仕事に誇りを持っているんだ、なのに奪われるのは死活問題だ、ということで仕事を続けたそうだ。
今も近くにはお肉屋さん関係が多くて、南大阪食肉市場などもあるようだった。
左手に阪南大学のグラウンドが現れるあたりからはカラスの町のようだった。古いビルなどもあるのだけれど、木々の代わりにそのビルに、カラスが群れていた。
周囲に緑が目立つようになり(ずっと右手に見えるのは大泉緑地)、けれど荒れた感じ。狭い歩道にはガードレールもあるのだけれど、草ボウボウで歩けなかったりする。
そしてひっきりなしにカラスが鳴いていた。
大きな池(尻池?)の間を通り抜けて、すぐの工場地帯を右折した。
下高野街道はそのまま南下していくけれど、西にずっと行くと大泉緑地を抜けて新金岡駅(地下鉄御堂筋線)にたどり着くので、今日のところは新金岡駅から帰ることにした。
野遠、北八下と歩いて大泉緑地へとたどり着いた。老人ホーム的なところや小学校などもあるけれど、なんだかそれがそぐわない、工業地帯って感じがした。
そして地下鉄新金岡駅へ。途中、リサリサって洋菓子店があって、お土産にクリームシフォンをゲット。おうちでいただいた。ボリューミーでおいしかった。
これまで、西高野街道、中高野街道、下高野街道と歩いてきた。
ただの大雑把な感想だけれど、西高野街道は「女人堂」までの里石が残っていて、女性のための道って感じがした。高野山は明治5年まで女人禁制だったらしくて、けれど多くの女性が高野山を目指し、入山はできないので入口に建てられた女人堂にこもったんだって。
里石は江戸時代の茱萸木村のお百姓さんが発起人になって建てられたそうだけれど、どうして「女人堂」までの里石だったのかな。単に高野山の入口の意味でだったのかな? それともお参りする妻やおっかさん友だちのためだったのかな?
中高野街道は融通念仏宗の道という感じ。融通念仏宗のお寺が多くあった。融通念仏宗のお坊さんが布教しつつ通った道でもあったのだろうな。スサノオを祀った神社も多かったけれど、それはそこらじゅうの話だ。
下高野街道は、なんだろう、貧しい人たちの道って感じがした。
熊野街道にも、天皇や貴族の通る街道と、それより低い場所を通る一般人用の道があり、小栗街道は貴族は通らない一般人用の熊野街道、ハンセン病患者も通った道じゃないかと言われているみたいだ。
熊野は、四国八十八ヶ所と同じように、行き場のないハンセン病患者を受け入れてきたところなんだって。そして道沿いの人々も、彼らを受け入れてきたっていう。
高野山も、ハンセン病患者を受け入れてきたところらしい(ちなみに空海はハンセン病患者だったっていう説さえあるらしい)。下高野街道は、そんな人々の通る道、そんな人々を受け入れてきた道かも・・・そこまでは言わないでも、貧しき人々が通るのは、下高野街道だったのじゃないかって感じがした。
下高野街道と呼ばれるようになったのは明治以降のことらしい。
大阪関茶屋線とも言われていたみたい。天王寺村~北百済村~(北田辺~南田辺~)南百済村~矢田村~野田村へと続いていた。平野からは「狭山道」、狭山からは「平野道」と呼ばれたりもしていた。
室町時代の頃までは旅行できるのなんて貴族くらいだったから、貴族のいる京から向かう東高野街道が発達。船で京からやって来た人々が下船して歩いたという中高野街道もかな?
西高野街道は鎌倉時代になる頃にでき、室町時代に庶民の参詣道として栄えたらしい。その後、江戸時代には大阪、堺がにぎわったから、西高野街道は物流の道として大賑わい。
にぎわう西高野街道を大手を振っては歩けない、そんな人々が高野山を目指すとき、下高野街道を使ったのかもしれないな、と思った。




