中高野街道を松原から
前回は西高野街道を下高野街道との合流地点あたりまで歩いた。西高野街道の続きはまた下高野街道歩きで歩くことにして、今度は中高野街道の続きを歩きに行った。
中高野街道は前に平野から河内松原まで歩いていた。平野~喜連~瓜破~松原市に入って三宅~阿保。
高野山に向かう高野街道は西高野街道、中高野街道、下高野街道、東高野街道が河内長野で1つになった道。〇高野街道と言っても、元からそう呼ばれていたわけではなく、古くからあった道が高野山参りにも使われ、その中でもポピュラーな行き方が「〇高野街道」と呼ばれるようになったみたい。
河内松原駅(近鉄南大阪線)すぐ北の阿保茶屋跡は中高野街道と長尾街道の交点で、そこから南下して行くのが中高野街道。
前回は河内松原駅まで歩いていたので、そこからスタートした。駅南口すぐの上田交差点から道を一本西に移動して、この旧道らしいぐねぐね道を南下。松原小学校にたどり着いて道が左右に分かれたら、右に進む。
けれどひとまず左へ。左に柴籬神社があって、そこに行ってみたかった。上田元町商店街も過ぎて、東にこんもり見える緑を目印に向かった。「丹比柴籬宮趾(伝承地)」とあった。18代反正天皇の宮があったと伝わるらしい。
反正天皇は仁徳天皇と皇后(葛城ソツヒコの娘)との間の、天皇になった3人の息子のうちの一人。兄弟の住吉仲皇子が王位継承をめぐって反乱を起こしたとき、石上神宮に逃れた長兄(後の履中天皇)に言われて住吉仲皇子を殺させた人。
父、仁徳天皇が長寿だったので、履中天皇に続き短い治世だった。皇后も皇太子もいないままに崩御。
こんな南の方に宮を置いた初めての人だったそうだ。
15代応神天皇、16代仁徳天皇と河内に宮を置き、17代履中天皇は桜井の方に遷都。弟の18代反正天皇は再び河内(南部)で、さらに弟の19代允恭天皇は宮は飛鳥かな。仁徳天皇の死後、カリスマを失って、河内の勢力sと、桜井や飛鳥あたりを本拠地とする勢力sとかで勢力が分かれていたのか、実は3人の息子たちが時を同じくして別々に宮を持っていたのか・・・。
仁徳天皇の時には丹比道がおかれている。後に竹内街道になったのでは、とされている道ね。ここは丹比と呼ばれていたところで、道がおかれた仁徳天皇の頃から縁は深かったのだろうな。
柴籬神社の祭神は反正天皇だった。
この日、わざわざ寄り道して来るほどのところではなかったな、と思った。周囲はすっかり住宅地になっていて、その中にかろうじて残された小さななんの変哲もない神社に思えた。周りを刈り取られて小さくなって、もう隠すものもなくなってるみたいな。
けれどこの頃はまだ見る目がそんなになかったからなあ。今ならそれでも隠されているなにかを感じ取れるかもしれない。
道を引き返し、松原小学校から中高野街道の続きを歩いた。古い蔵のある町屋や古い道標などもあって、いい雰囲気を少々残しつつの住宅街だった。
住吉道の道標もあった。北西に斜めに道があり、住吉大社まで通じていたそうだ。相当古くからの道だったと思われるけれど、都市化の波でもうほとんど残っていないそうだ。このあたりの地名は新堂で、新堂~高見の里~布忍~河内天美~庭井~あびこ~墨江~住吉と通じていたのかな。
古くからって、どのくらい古くからだったんだろう? 仁徳天皇の丹比道はこの道だったのじゃないかとさえ言われているそうだ。
「大道置於京中、自南門直指之至丹比邑」、京の南から丹比への直の道をおいた、と記載されているのだって。もし住吉道が丹比道だったなら、都は高津宮、京はそこから南の住吉大社までつづき、京中には南北に大道をおいて、その南門からは、南東の丹比邑に至れる、って感じかな?
家に戻って地図を見ると新堂から立部まで、住吉~新堂の延長みたいな斜めの道があった。
浄光寺(融通念仏宗)があって、あたりは緑でいっぱいだった。周辺の旧家の庭木のようだったのだけれど、特に裏の大きな旧家の木々がすごかった。家はもう朽ちかけ、崩れかけていた。それを木々が覆い隠そうとしはじめていた。こんな市街地でも、自然にはこんなに勢いがあるんだなあと思わされた。
日本ってそんな国だそうだ。地震大国で、それ故なのかな、水も緑も豊富で、放っておいても緑が芽吹く、そういう国って案外少ないそうだ。
道がつきあたって、一本東の道で南下。岡交差点を渡って南下・・・けれどもう市街地になって旧道はない。小さな公園を過ぎて、岡町学園の裏手を通って東へ。アプロ(スーパーマーケット)が見えてきて、その前は狭いバス通りで、このバス通りを南下。
昭和の下町という感じの残るところだった。昭和の時代のお母さんたち、今ではおばあさんたちが自転車でアプロにやって来る。バス通りでありながら思い切り生活道路で、おばあさんの自転車が蛇行運転するのでバスものろのろ進んでいた。昭和の時代にはこんな道幅で大丈夫だったのだろうな。
このあたりに「正井殿」があったようだった。けれど狭いバス通りに気をとられて気づかずスルー。中高野街道の説明板があった。しばらく進むと引き返したところに正井殿が案内されていたけれど、もう引き返す気にはならずにそのまま進んだ。正井殿は神社だったみたい。どうして「正井殿」なんていうのかな。
それから竹内街道と交差。地名は「岡」で、竹内街道歩きでも歩いたところ。歴史のあるところのはずだったけれど、すっかり生活道路になった狭い幹線道路を歩いている限りでは全く感じ取れなかった。
それから今度は中環と交差。仁徳天皇陵の北を通り、大泉緑地の南側を通った中環が東の立部に向かって行くところ。「丹南東」交差点で中環を渡ると、右に来迎寺の道標があった。
すぐのようだったので、ちょっと寄り道して行くことにした。道標に従って中環を西に向かった。中環には大きなお店がいっぱい並んでいた。ドン・キホーテもどーんと大きく目立っていて、その西隣に来迎寺の駐車場があり、その西隣に来迎寺があった。ドンキにも負けないくらいにどーんと建っていた。
「融通念仏宗丹南本山」だって。平野に総本山のある融通念仏宗ね。総本山の大念仏寺は開かれていたけれど、ここは門も閉ざされて、簡単には入れない感じだった。前を通り過ぎて、今度はお寺の西側を南下して行ってみた。すぐに丹南天満宮があった。住宅密集地に鎮座する小さな神社だったけれど、拝殿の両サイドに武士みたいな等身大の人形がいて、初めて見たので記憶に残った。
天満宮から東に、中高野街道に戻ったのだけれど、このあたりはけっこう古い感じを残していた。地蔵堂なんかもあった。旧家のおうちにはたいてい来迎寺の張り紙があって、それはどうやら前に西高野街道歩きで通った狭山で見たものと同じものだった。
狭山ってけっこう遠いのに、来迎寺、融通念仏宗、丹南本山っていったい・・・。
融通念仏宗は摂津、河内、大和で流行したそうだ。
阿弥陀さまに念仏を唱えれば人は救われる、極楽へ行けるっていう教えかな。平安時代の尾張生まれの大原の僧、良忍が開祖らしい。それまでは経典を学び、修行をしなければ人は成仏できないとされていたのかな? それが念仏を唱えるだけでだれでも極楽へ行けると言われたら、そりゃあ大流行しただろうなあ。
坂上田村麻呂(渡来系の人で、桓武天皇の時の征夷大将軍)の子孫が平野に住んでいて、その邸宅に建てたのが大念仏寺。良忍は丹南にも寺を建てたのだって。けれどその後衰退し、鎌倉時代に法明なる人が復興。丹南の寺も再興して「来迎寺」になったんだそうだ。そして狭山もかつては丹南だったところみたい。
また狭いバス通りを南下していった。
真福寺ちびっこ公園なる小さな公園が現れて、入っていってみると横に小さな櫟本神社があった。
丹比神社に合祀されてしまったらしい。かつてはここに真福寺もあったのだって。
むかし、お寺も神社も一緒になって存在していたけれど、明治時代に寺と神社は別々にして、数も多すぎるから整理してしまいましょうってことになり、多くのお寺が廃寺になり、神社は近くの大きな神社にまとめられて合祀されてしまった。それで以前には公園もふくむ境内をもっていたのに、こんなふうになっちゃったんだろうな。
「星聖楠(?)吉翁之碑」が建てられていた。真福寺村の農業振興に偉業を残した先人らしい。池の造築などに尽力したみたい。一帯は農業が盛んに行われたところらしく、道もあぜ道風にカーブを描いて、いりくんでいるようだった。古くて、面白そうな一帯だった。
ここから南に参道があって、その先には鳥居もあり、「式内櫟本神社 真福寺村」とあった。祭神は不詳。ここに立派な櫟(いちい・くぬぎ)の木があって、反正天皇が櫟本と名付けたとされているらしい。
今度は右手に美原ふる里公園。名前で想像するよりは小さな公園だったけれど、奥には「みはら歴史博物館」も併設されているようだった。ここは堺市美原。公園には「美原町は河内鋳物師発祥の地と伝わる」と説明されていた。ここから丹比全体へ、それから全国へ拡がっていったのね。
近くには黒姫山古墳もあるみたいだった。5世紀半ばの古墳で、このあたりを本拠地にしていた豪族、丹比氏のものじゃないかと言われているそうだ。大量の鉄製武具などが副葬されていたのだって。
このあたりからはバス通りもまあまあ幅も広く、歩きやすくなった。すぐに高速(阪和自動車道)を越えた。すっかり近代化していて、このあたりになると遠くの山もよく見えるし、田舎の感じなのだけれど、あまり古さが残っていない。一面田んぼだっただけに、完全リニューアルされたとかかな。
この南あたりに丹比神社があるはずで、左手にこんもりした小さな森が見えたから、あれに違いないと近づいていってみたのだけれど、さらに近づける道がなかなか分からなかった。で、もう諦めた。
後から調べると、どうやらぐるっと回って裏(東)から入れたみたい。
丹比神社には丹比氏の祖神、火明命(アメノホアカリ)が祀られているらしい。樹齢千年の楠もあるらしい。
地名は「多治井」だった。「丹比」からきた名前なのだろう。「黒山」や「日置」も近いらしくて、時々文字が現れた。どちらも製鉄に関わるのかもしれないとされている地名ね。
それからずっと南下し続けた。
舟渡北交差点で広い道を渡り、それからすぐ舟渡南交差点。右手には舟渡池があって、この池の東側の府道198号河内長野美原線に進んでいくのが中高野街道。東に向かっては府道35号堺富田林線が走っていて、これは富田林街道らしい。
しばらくは池のほとりを歩いた。それから198号線にでて、南へと向かっていくのだけれど、その前にすぐ横の舟渡池公園に寄ってみた。
街道に近くなければ絶対に来ることもなかっただろう舟渡池公園は、あまりないくらい素敵な公園だった。近くに工場があるのが残念だったけれど。
その日は風のやや強い日で、池には波がけっこうたっていた。波のたつ池をクロサギかなにかが悠々と泳いでいるのは、ミニ版の恐竜みたいで素敵だった。
BBQもできるどころか、炊事場までついている。浮き桟橋もある。桜もいっぱいで、すっかり葉桜になりかけていたけれど、少し前まではきれいだったことだろう。アヤメもきれいだそうだけれど、まだ(?)全く咲いていなかった。
シーズンも過ぎたせいでか、広い園内を貸切状態だった。ゆっくり歩いていると、モミジにも花がいっぱい咲いていた。モミジも花を咲かすんだ・・・。
かつて一帯は湿地帯で、交通に船を利用したから「舟渡」と呼ぶようになったと伝わるのだって。今ではそんな言い伝えが迷子になっているみたいなところだった。
続きは198号線を歩いても面白くなさそうだったので、舟渡池公園を出て198号線に入ってすぐ、左手に現れた池の方に入っていって、脇道を歩くことにした。
静かで、農村という感じのところだった。なにもなくて、コーヒー豆のお店も潰れていた。代わりにレンゲ畑なんかがふつうにいくつもあった。
じぐざぐ進んで、菅生神社へ。ここは菅生氏(中臣系)の氏寺だったところらしい。
中臣系なので、元々の祭神は天児屋根命。ちょっと分かるようになってきた。天児屋根がいて、その何代か後に大小橋命がいて、大小橋は難波京にある産湯稲荷神社で産湯をつかったと言われている人。応神天皇の頃の人で、その古墳が御勝山古墳(大阪市生野区)だという噂がある。その何代か後には、中臣氏、菅生氏など、そして藤原氏へと分かれていったんだな。
菅生神社は高台にあった。南側を通る道は和泉街道だって。東には木々が茂っていて、東除川の堤の木々のようだった。
一帯は、園芸大国って感じだった。園芸用の樹木らしき木々が、都会では考えられない規模で育てられていた。どれもこれも立派で、このままどんな大邸宅にもっていっても十分に見栄えしそうだった。
神社から西に歩いて198号線に戻ると、東野交差点だった。ファミリーマートがあり、菅生神社のだろう鳥居が、このファミマの駐車場に向かってたっていた。
198号線を南下して、次の信号で一本左の脇道へ。道にはカラー舗装がされていて、その道をしばらく行くと大鳥池だった。手前に中高野街道の文字が道路に書かれていた。
池の右側の道に。池の向こうにはPLの塔と山々がきれいに見えた。
周辺はニュータウンっぽく新しく造成されていた。そこに残された斜め右に向かう道に入り、198号線に戻っていった。このあたりは南海高野線の狭山駅とか大阪狭山市駅とかの東側らしかった。
しばらくまた狭い車道(198号線)を南下して行った。
地名は池尻で、198号線の右側も左側も古くて面白そうなところだった。立派な鯉のぼりがはためいていた。
高低差があって、自転車のおばあさんがはあはあいって自転車を押して坂を上っていた。池尻の下の方から上がってきたみたい。買い物に行くところなのか、若い時には苦にならなかったのだろうけれど、大変そうだな・・・。
南海電車の高架の下を通った。高架を過ぎると「狭山藩陣屋跡」とあった。
陣屋というのは大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷のことらしい。ここ、狭山藩にいた大名は北条氏。戦国時代の小田原の北条氏の後裔を名乗っていたそうだ。
しばらく行くと、狭山池公園への道標が現れた。
それから報恩寺と、黒山警察交番、郵便局などのある四つ辻に出た。右に行くと狭山池、左に行くと大阪狭山市駅。ついこの間も歩いた道だった。狭山池に向かう道が下高野街道で、ここで中高野街道と下高野街道が合流するみたい。
ここから中高野街道は「大阪狭山市」駅方面に向かい、南海高野線に沿って南にと進む。
カラー舗装された道は大阪狭山市駅まで続いていて、踏切を越えると、「中高野街道」「吉野道」の道標があった。
ここを右折し、道なりに南に進んだ。行き先で道の名を呼んでいた時代、中高野街道は狭山から平野方面へは「平野道」、平野からは「狭山道」とも呼ばれていたんだって。
けっこうすぐに南海高野線の次の金剛駅に到着。狭山神社が駅前けっこうすぐにあったのだけれど、もっと遠くにあると思いこんでしまって、随分うろうろ探し回ったんだけれど、見つからなかった。
半田村の氏神で、牛頭天王社だったところらしい。
狭山神社は元々は臣狭山命なる「狭山連」の祖神が主神だったそうだ。天児屋根も一緒に祀られていて、臣狭山命はその子孫らしい。狭山連もまた中臣系ということね。
聖武天皇の時代の書物には「河内国丹比郡狭山郷 中臣村山連首麻呂」なる人の名も記載されているそうだ。中臣氏がこのあたりにも住んでいたんだな。
うろうろ探し回ったので、駅の西側も歩いて、高低差の激しいところだというのは分かった。かつてこのあたりに城もあったそうだ。
昭和12年、南海鉄道がお遍路さんブームに先駆けて、「四国八十八ヶ所出開帳」なるイベントを開催。そこを歩けば八十八ヶ所をまわったと同じご利益が、という謳い文句で大盛況だったらしい。
そのイベントが開かれたのが助松と金剛らしくて、イベントのために駅がつくられ、駅前は金剛に。後に周辺の地名も金剛になったのだって。
金剛駅から、ずっと道なりに進んでいった。
駅近くの説明板によると、中高野街道には融通念仏宗のお寺が点在しているらしかった。
中高野街道の出発点は平野。その平野に総本山の大念仏寺があり、丹南本山の来迎寺、池尻の極楽寺、風輪寺、富田林の安楽寺、河内長野の極楽寺などもあって、中高野街道は融通念仏宗の参詣道でもあるそうだ。途中に浄光寺もあったな。
その風輪寺を過ぎ、高野線の西側を、西の低地には下りないように道なりに富田林市へ。
伏山で安楽寺も過ぎた。このあたりにはかつては、今では埋められた谷なんかもあって、けっこうな山道だったそうだ。
滝谷駅に近づくと、新しく造成されたらしい広い一帯が現れた。その新しい住宅地の中を歩いていった。
最近まではかなりの田舎だっただろうと思われた。
元々は滝谷不動への参詣駅として開業した駅だそうだ。滝谷不動は駅から東に3キロあたりのところにあるらしい。3キロ離れていて参詣駅だなんてな、と思ったけれど、開業した明治時代には普通だったのかな。今では近鉄の滝谷不動駅が最寄り駅(1キロ弱)らしい。
滝谷駅も越えて進むと、甘い匂いがしてきた。甘ったるい薬みたいな匂いだなと思っていたら、国道310号線を越えたところで「かぜに改源」の工場があった。
滝谷駅から千代田駅までは、ずっと住宅街だった。
最近まで田舎だったんじゃないかと思われた金岡駅~滝谷駅とは違って、ここにはもう少し前からびっしりと人が住み暮らしてきた感じだった。
南海電鉄が住宅街を造成してきたのかな? 人が隙間なく暮らしていて、大成功している感じだった。よくこんなにも増えたもんだなあ、人類。
山の上り道だった感じの坂道を行くと、松林寺と春日神社が現れた。高台にある広い一等地のような感じのところ。春日神社は脇にちょっと間借りしているみたいにひっそりと小さかった。
春日神社は全国に千ほどもあり、中臣氏の守り神や祖神(天児屋根命)を祀る神社だそうだ。高野街道などを歩いていると、この天児屋根を祀っている神社や、スサノオを祀っている神社によく出会った。
東大阪あたりではニギハヤヒ(物部氏の祖神)を祀る神社によく出会った。一帯はかつて物部氏の勢力地だったということだった。同じように河内のこのあたりでは中臣氏が幅をきかせていたってことかな。
それからは下り坂で、登り口同様に地蔵や「大夆山登山記念」の石碑などが並んでいた。
ここで西高野街道と合流。その説明と、「四国八十八ヶ所遥拝道之碑」があった。四国八十八ヶ所出開帳の関係なのかな?
まだ高台で、山が近かった。
ここから中高野街道は下って町中に入っていった。
西友(スーパーマーケット)に近い交差点で、中高野街道はこのまま道なりに進むのだけれど、近くの千代田駅から帰ることにした。
南海高野線千代田駅は昭和13年にできたそうだ。
きな臭い時代、昭和15年に「大阪陸軍幼年学校」が千代田に誕生(復活であったんだけど)。13歳から15歳までの少年たちが入校し、3年間の教育を受けて、更に陸軍予科士官学校に進んで、士官候補生となった。定員は50名だったけれど、当時は定員を大幅に増やしていたそうだ。その幼年学校開校にともなって、つくられた駅なんだって。
西高野街道は堺からおわり坂(下高野街道との合流地点あたり)まで歩いた。
中高野街道は平野から千代田(西高野街道の合流地点)まで。
東高野街道はおいておくとして、今度は下高野街道を歩いてみようかな。
下高野街道を狭山池まで歩き、おわり坂、千代田、河内長野(東高野街道との合流地点)と南下して行ったら、東高野街道以外の高野街道は全部歩いたってことになる。




