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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
17/44

西高野街道を堺から

そして桜が満開の頃、今度は西高野街道を歩きに行った。

堺を出発して、狭山で下高野街道と合流し、河内長野で中高野街道と東高野街道と合流。高野山を目指すという道ね。

ぽかぽか陽気で、歩いていると暑いくらいだった。満開の桜の花は自分で光っているみたいに白かった。ぽかぽか陽気の昼間の桜、それでもこんなに幻想的なんだな、と驚かされた。

花見になんか行かなくていいんだな、と分かった。ソメイヨシノはいたる所で咲いている。そして咲いているソメイヨシノは、どの一本もみんな美しい。わざわざ遠くまで行く必要もないくらい。

散る花びらも、ぴかぴか光ってきれいだった。


南海高野線で堺東駅へ。

西高野街道は堺から高野山に向かう道で、スタート地点は堺の開口神社あたり。堺駅(南海本線)からなら大小路を南東に進んで堺東駅そばを通って行くのだけれど、そのもう少し先までは竹内街道と同じ道で、竹内街道歩きですでに歩いているからカット。堺東駅から歩くことにした。

堺東駅を西口から出て、閉ざされたジョルノ(前年に閉店した専門店街)を過ぎ、新町交差点を左折。南海高野線を踏切で越し、道なりに東に進んでいった。このあたりはまだ竹内街道でもある道。

しばらく行くと竹内街道は左折して行くのだけれど、西高野街道はそのまま直進。分岐点には「十三里石」とお地蔵さん。

十三里石には「是ヨリ女人堂十三里」とあった。女人禁制だった高野山の麓に女人堂があって、そこまでの13里に1里ごとに背の高い石に距離が彫られたものが設置されているそうだ。設置されたのは江戸時代で、それが今もすべて残っているのだって。

これが1つ目の石で、1里はだいたい4kmだそうだから、高野を目指す人たちはここから52キロ歩いたというわけね。


しばらく行くと耳原橋で下を通る南海高野線を再び渡り、広い2号線(中環)を歩道橋で渡った。ここは熊野街道歩きでも通ったところ。

歩道橋を降りたら仁徳天皇陵の周遊道で、大きな仁徳天皇陵がでんとたちふさがっている。

右に行くと熊野街道。左に行くのが西高野街道。西高野街道こと国道310号線をしばらく行き、三国ヶ丘駅とコーナンも過ぎて次の信号で左折。すぐを右折。

ここからしばらくは道は旧道らしくカーブしてはいたものの周辺は新しくて、時々現れる「西高野街道」の新しい石碑もとってつけたようだった。つきあたると左に行くのが西高野街道。ここはかつてにぎわっていた感じがした。道はカラー舗装されていた。


この近くに百舌鳥もず八幡があって、せっかくなのでちょっと寄り道。

310号線の梅北南交差点に案内のある参道を南に向かって行った。途中でただものでない感じの旧家などが見えてついついそちらに歩いて行くと、こちらからでも光明院、それから百舌鳥八幡にたどり着いた。

光明寺は光明皇后の発願で行基が創建したと伝わるそうだ。すぐ横が百舌鳥八幡だった。

光明寺に墓参りの方は神域に入れません、犬は入れません、と、なかなか厳しい神社だった。大きな樹齢800年の楠があった。

けっこう広い敷地に重機が入り、大幅にリニューアルしているところに見えた。狛犬のいる駐車場は整地されていたし、がらりと変わるのかな?

万代まんだい寺もあって、説明によるとかつて「万代」と書いて「もず」と読むこともあったのだって。

一般的には「百舌鳥」と書き、仁徳天皇の時代、陵墓をつくっていた工人が鹿に襲われそうになったのだけれど、その直前に百舌鳥が鹿の耳を食いちぎって助けたので地名が「百舌鳥もず」になったんだとか。「耳原橋」の耳原もその関係ね。作り話だろうけれど。

近くには御廟山古墳とかもあったみたいだった。けれど初めて百舌鳥八幡にやって来たこの日、何も知らずに引き返し、西高野街道の続きを歩いた。


本通寺があり、周辺には旧家が多く、行きかう道もカーブした旧街道風で、面白い道だった。

右手に緑が見えて行ってみると、樹齢800から1000年という大きなクスノキだった。そばには御廟山表塚古墳もあった。残るのは一部だそうで、小山みたいだった。5世紀後半のものらしい。

横に大きな旧家もあった。筒井順慶の子孫と言われているそうだ。その旧家のものと思われる塀が西高野街道まで続いていて、塀の向こうには茅葺き(かな?)の屋根が見え、大きなマンションも建っていた。屋敷の一部をマンションにしちゃった感じなのかな?


もう少し行くと地下鉄御堂筋線のなかもず駅。南海高野線の中百舌鳥駅も近かった。

ここからは時々驚くくらい古い建物もあったけれど、全体的には新しい住宅地になっていた。

道は310号線に合流し、通りの向こうは府立大学(中百舌鳥キャンバス)。

前に大依羅おおよさみ神社に行ったとき、市立大学を見たのだけれど、新しくて大きくて立派で、ここが公立大学?と驚いた。ここも同じだった。しばし大学前を南下して行き、正門たぶんの前の信号を左折。一瞬学生街の感じのする道を歩いていると「白鷺公園」の案内があってそちらに進んでいった。

堺には「百舌鳥」のほか、「白鷺」「鳳」、鳥に関わる地名が多いような気がする。前方後円墳は鳥の形をモチーフにしたものという説もあるらしくて、もしかしたら鳥を神聖化していた人々がいたのかも?とか思った。それで鳥の名を地名にしていたのかも。「モズが鹿の耳を食いちぎって殺したから百舌鳥」というよりはまだましな説かな。


白鷺公園は満開の桜でいっぱいだった。公園の北から西にかけて池があり、池の堤に沿ってソメイヨシノが並んでいた。公園の西側の道を南下して行くのが西高野街道のようだったけれど、池の横を歩いて行った。春は桜だけれど、その後には池で1万株の花菖蒲が見られるらしい。

元々但馬池というため池があり、それを利用してつくられた公園なのかな?

公園を西側から出ると、西高野街道の続きを歩いた。すぐ高架の線路の下を通ったのだけれど、これは泉北高速鉄道だった。南海高野線とつながっている、泉北行きの線路。

泉北は古くは陶邑すえむらと言い、土師器が広くつくられていた一帯なのだって。

南海電鉄によって泉北ニュータウンが開発されたそうなのだけれど、古い窯跡がごろごろ出てきたらしい。その数は1000近く。泉北は須恵器発祥の地でもあるそうだ。そして長きにわたって大量生産され、各地に流通されていたのだって。

この先線路は南西に向かい、土師町とか土塔町とかを通って行く。土塔町というのは、行基が建てた塔にちなんでつけられた地名みたい。


西高野街道は南東に進み、星谷池へ。蓮か何かの枯れた茎がおびただしいほど立っていて、少々汚かったけれど、シーズンにはきれいなのだろうな。

もう少し行くと古くて面白い道になった。西高野街道を境にしているようで、西は新家町、東は関茶屋。「十二里石」が現れた。

旧家や片上楠太郎の碑もあった。片山某さんがどなたかは分からなかったけれど、豪商だったらしい。周りには片上さんの表札の旧家もあった。

ここに関所の跡があり、そこに茶屋が並んでいて「関茶屋」と呼ばれたそうだ。関は、南北朝時代に楠木正成が地元の日置さんに置かせていたもの。

もう少し行くと左手に神社が見えて、行ってみると出雲大社大阪分祠なるところ。大きくて立派な神社だった。南のほうにある入り口あたりの玉垣の中、「大阪粉浜支部」の文字が目立つ位置にあった。地元近くじゃあないの。けれど大阪粉浜支部なんて知らなかった。境内にいっぱいはためいている旗にも「粉浜支部」のものがあった。


元はカグツチを祀る神社だったそうだ。

イザナミが生んだ火の神で、そのときの火傷が元でイザナミは死んでしまった、というカグツチね。

一帯の地名は日置で、かつてはこのあたりも陶邑だったところ。日置は「火置」からきたのではないかとも言われ、火に関わる人々が住んでいたのではないかと思われるそう。

けれど神社の創建は昭和の時代で、あまり関係はないみたい。創建の後、ほどなくして出雲大社大阪分祠になったのだって。

旅所や庚申堂の横を通って西高野街道に戻り、続きを歩いた。

草尾、中茶屋、福田、陶器北と、ただ道なりに南下すればいいだけの楽な道のりだった。

途中、玉垣に囲まれた、興源寺というお寺があった。ここも行基が建てたと伝わるそうだ。

地名もいろいろいわれがありそうだった。草尾はちょっと分からなかった。中茶屋はここも茶屋の並んでいたところかな?

福田は福島屋次郎兵衛なる大阪の豪商が出資してつくられた新田だったので「福田」だって。ゆるく長い坂を上ったあたりにあって農耕に適さず、貧しい村だったのだって。乾燥に強い河内木綿を育てるようになってから成功したそうだ。

陶器とうき」は、かつては「すえき」と読んだそうだ。このあたりで大量生産されていたという須恵器にちなんだ地名ね。


310号線がずっと西を並走していたけれど、このあたりで東寄りに向きを変え、狭山池の方に向かうみたい。その310号線も越えて、さらに進んだ。

310号線が離れていって、田舎の感じになっていった。お地蔵さんがあちこちにいて、大きな旧家もいっぱいだった。畑も多いし、緑も多い。山も少し近くなった。

都会では木々があると、たいてい寺社か旧家か公園がある。だから緑を見るとついつい寄って行ってしまうのだけれど、ここらでは歩いて行っても何もないことも多い。何もないところにも緑がある。

このあたりでは西高野街道が市境になっているみたいで、西が堺で東が大阪狭山市。

「十一里石」があって、岩室のあたりで広い堺狭山線を渡った。岩室も須恵器の関係の地名と思われるそうだ。岩でできたむろに須恵器を保存していたとかで。


それからまたただただ道なりに南下。

この右手、窪地になったあたりが不思議な雰囲気を醸していて気になった。

もうだいぶ疲れていてスルーしたのだけれど、後で地図で見たら極楽寺観音院などがあるようだった。ウグイスも鳴いていた。

この辺りは元は山あり谷ありの自然豊かなところだったのかな。今では尾根あたりが西高野街道になり、その周りは家々ばかりだけれど。

「岩室郵便局跡」「岩室家塾跡」の新しい碑が並んでいた。

岩屋には幕末には寺子屋があったそうだ。郵便局もかつて地域の名士的な人がやっていることが多かったみたいだから、家塾をしていた一族の人が郵便局もして、こうやって並んで碑が立つことになったとかかな?


天野街道との分岐が現れた。右手に進むと天野街道らしく、高倉寺法起菩薩の道標もあった。高倉寺は天野街道から西に行った泉ヶ丘にある寺らしい。

左手に進むのが西高野街道。地名は今熊だった。「今、熊野神社がある」ので今熊村だったそうだ。その後、古くからある今熊、岩屋と周辺の新田が合併して三都村に。熊野神社は三都神社に名が変わった。そしてその後、さらに狭山村と合併して三都村は消滅。

このあたりでは「来迎寺」の文字が目立っていた。どこの来迎寺なんだろう?

そしてここまで少しずつ上ってきた道が、ここで一気に下り坂になった。この道が素敵だった。近くの桜と遠くの山々が一望できた。いろんな鳥の鳴き声がした。

広い道の交差する都会なのだけれど、坂の途中にはレンゲ畑もあった。PLの塔も見えていた。

ここは「おわり坂」と言うらしい。一気に下って高所が終わる坂だから終わり坂かと思ったら、尾張坂らしかった。愛知(尾張)の土木集団との関わりが云々と説明されていた。けれど諸説あって、「終わり」説もあるらしい。

坂を下れば下ったで、桜が咲くのが里山風で素敵だった。広い道路沿いではあるのだけれど。

広い道を信号で渡ると三津屋川が流れていて、その向こうに西高野街道は続いているみたい。けれどこの日の散歩はここまでにして、川沿いの遊歩道を北上していった。南海高野線の大阪狭山市駅から帰るつもりだった。

牛滝地蔵がいた。このあたりを下高野街道が通っていて、すぐ南で西高野街道と合流するみたい。

西小学校があり、「池まで400m」と書かれていた。どうやらこの三津屋川はこの北で狭山池に注ぐ川らしい。

天野山から流れる天野川と今熊川をせきとめて造ったのが狭山池らしく、今では天野川は西除川に、今熊川は三津屋川に名前を変えているみたい。

亀の甲交差点で広い道に出た。ここを右折して東に行けば南海高野線が走っていたみたい。ところがここで間違えて直進。東に桜がいっぱい見えていて、行ってみると狭山池だった。日本最古のダム式ため池ね。

飛鳥時代に最新の技術でダム式ため池にされたという狭山池は、すごく大きかった。周りを歩けるようになっているのだけれど、向こう岸を歩く人の姿が小さい。

奈良時代に行基が改修を行っているのは知っていたのだけれど、その後も何度も改修工事が行われ、豊臣秀頼も行っているんだそうだ。その莫大な資産を減らそうともくろんだ徳川家康のわなにかかり、神社仏閣の改修工事を行うことになった秀頼だそうだけれど、こんな大きな池の改修工事まで! そりゃあお金もなくなっていったことだろう。


池畔には桜が満開で、散歩する人や犬でいっぱいだった。それでも遊歩道は広くて、快適だった。

半周して広さも堪能した頃、大阪狭山市駅への道標が現れた。

大阪狭山市駅は、かつては狭山遊園前駅だったのだって。戦前、池の東にあった狭山藩の屋敷が寄進され、狭山遊園になっていたそうだ。

戦後には競艇も行われていたそうだけれど、それは住之江公園に移転。遊園も平成に閉園したのだって。

道を間違えて足を運ぶことになった狭山池だったけれど、桜は満開だし、結果オーライだった。

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