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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
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高尾山と大県

ぬで比古鐸比売神社は柏原市の提案する「高尾山創造の森 森林浴コース」にあった。

地名は大県で、太平寺の北。

大阪の東には生駒山系があって奈良との境になっていて、その生駒山系の西麓部を走っているのが東高野街道。その東高野街道を太平寺から北上して行った。

大県交差点を過ぎて、もう少し行くと鳥居があった。鳥居をくぐって東へ。参道は普通の公道になっていて、両サイドは普通の住宅地。

坂と階段を上って行くと鐸比古鐸比売神社だった。


比古ひこ比売ひめ神社や、金山彦(金山比古)神社、金山媛(金山比売)神社みたいに「ヒコ」「ヒメ」の対になった神社って、かなり古い神社だと思われるそうだ。

昔、卑弥呼がまつりごとを行い、弟が軍事を担っていた。そんなふうに古代、日本が小国に分かれていた時代、多くの場合男女によって小国の政治が行われていて、それを「ヒメヒコ制」と呼ぶのだって。その頃の名残を残すのが「比古」「比売」の対になった神社だと思われるそう。

元々は鐸比古神社と鐸比売神社は別々に祀られていたそうだ。それが後に1つになり、もっと山の中にあったものが麓に降ろされた。

鐸比古神社の祭神の鐸比古は、11代垂仁天皇の息子だと言われているらしい。垂仁天皇の二人目の皇后・ヒバス姫の妹が生んだ子で、鐸石別ぬてしわけ命というのだって。和気氏の祖になっている。

祀られたのは13代成務天皇のときだそう。

元々は裏山の高尾山、もしくはそこにあった巨石をご神体にしていたのだって。「鐸」と名につくことから言っても、金属関係の神社だったと思われるそう。

高尾山の斜面からは珍しい細工の鏡なども見つかっているのだって。


そして大県では6世紀末頃の大規模な鍛冶工房の遺跡が見つかっているそうだ。

日本では弥生時代から製鉄を行っていたと思われ(確定的ではないものの、長崎のカラカミ遺跡や広島の小丸遺跡などでは弥生時代からの製鉄の証拠かもってものも見つかっているみたい)、大規模な鍛冶工房跡も淡路島などで3世紀頃からのものが見つかっている。

3世紀は弥生時代が終わるころね。

それから古墳時代には鉄の品質が飛躍的によくなり、大規模鍛冶工房も長原遺跡(大阪市平野区)、森遺跡(交野市)などで見つかっているそうだ。5世紀前半とかのものらしい。

大県に大規模な鍛冶工房があった6世紀末と言ったら聖徳太子が産まれたころで、もう古墳時代も終わろうかって時代。

見かけた道標に書かれていた平尾山古墳群は、近くの平尾山の他、太平寺、大県、雁多尾畑、安堂、高井田の方にまで及ぶ古墳で、その数おそらく2000とか。小規模な横穴式石室の大群集墳で、6世紀末前後のものだそうだ。馬の遺骨など朝鮮半島由来のものも見つかっていて、渡来系の人々が埋葬されていると思われるそう。

古墳時代、まだ世界は不安定で流動的で、いろんな国の人々が百済などを経由して日本にやって来たみたい。特に百済や新羅の人々が、船で河内までやって来ることが多かったのかな。河内には朝鮮半島由来のものがとても多くて、今でも「百済」とか「こま」とかの名が残るくらい。

「竜田山から嶽山あたりで製鉄が行われていた」というのはいつのことだったのかな?

13代天皇の時に鐸比売比古神が祭られたのなら、その頃から鉄に関わる人々が住んでいたのかも。そして砂鉄を使って製鉄を行っていたのかも。

その後にか渡来人がやって来たのかな? 彼らの技術を教えてもらって、そのうち高品質の鉄器をつくれるようになり、長原や森に大規模な鍛冶工房がつくられた。そして6世紀には大県にもつくられた・・・のかな?

ルイス・フロイスなど、いろんな外国の人たちが日本にやって来て言っているそうだ。「こんなに知的好奇心の強い国民を他に知らない」

その好奇心で、いろんなものを吸収していったのかな。


製鉄や鍛冶のことについて、記紀に書かれていることによると、アマテラスの岩戸隠れの頃、既に倭鍛冶がいた。アマテラスを岩戸から出すために「鍛人かぬち天津麻羅あまつまら」が連れてこられていて、この人が倭鍛人の祖と言われているそうだ。

天の金山の鉄をとり(鉄鉱石のことかな?)、鍛人アマツマラを探してきたのだって。

現実の話で言うと、紀元前の頃には既に中国では広く製鉄が行われ、それが朝鮮半島にも伝わっていたらしい。そして日本は、中国や朝鮮半島とけっこう交流を持っていたらしい。

2世紀には鉄資源の豊富な朝鮮半島の南部で日本の人々も製鉄を行っていたそうだ。

弥生時代の終わり頃には石器がつくられなくなったみたいで、鉄器が豊富になってきたから必要なくなったのかな。そして戦いの多い時代になったか、高地性集落が多くつくられるようになった。鉄を武器にして戦っていたのかな。

そして古墳時代に突入。

15代応神天皇の母の神功皇后の時代には、新羅のタタラ津ってところから葛城氏(後の16代仁徳天皇の舅になる葛城ソツヒコって人)が人々を日本に連行。技術者を自分の本拠地(葛城)に住まわせ、いろんな工房をつくらせたとされている。

実際にその跡と思われる大規模遺跡が見つかっているのだって。南郷遺跡群といい、そこには鍛冶工房跡もあるらしい。

そして応神天皇のときには韓鍛からかぬち卓素たくそなる人が王仁博士らと共に来日。最新技術による鍛冶を天皇家にももたらした・・・のかな。

倭鍛冶と韓鍛冶は一緒になっていき、河内では丹比で製鉄が盛んになっていったのかな。中世にも続き、河内鋳物師はやがて全国に散らばっていき、各地で製鉄や鍛冶を行った。


神社の裏山が高尾山だった。というか、山の入り口が神社だった。

高尾山は府民が整備していった「府民参加の森」らしくて、こまめに手が入れられていた。トイレもきれいだし、木々には名札がつけられていた。ところどころに金網がめぐらされているのはイノシシよけなのかな?

山にはハイキングコースが多々あって、古墳などのいっぱいある「いにしえの道」などもあるみたい。

とりあえず登山口から上っていった。けっこうな坂道で、最初のベンチが現れたところで休憩した。それからもうずいぶん歩いていたので引き返し、JR柏原駅からおうちに帰った。

高尾山には弥生時代の高地性集落の跡だとか、山頂には巨石もあるらしい。

またそのうち改めてやって来ようと思った。

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