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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
15/44

竜田古道と製鉄

次に行ったのは河内堅上だった。

前に歩いた竜田越奈良街道で、河内堅上駅付近で案内されていた竜田古道や金山彦神社が気になっていた。あと、近くの雁多尾畑かりんどおばた。響きが素敵で、ここも気になっていた。

柏原市が提案するウォーキングコースに「堅上の里と竜田古道コース(7km)」があって、雁多尾畑も盛り込まれているみたいだった。

歩いてみようと、スタート地点の河内堅上駅へ。

JR大和路線で柏原と王寺の間、亀の瀬あたりにある田舎の駅だ。前に竜田越奈良街道歩きで横を通ったら、民家とそう変わらないような風体の駅舎だった。駅にはトイレもないのじゃないかと思っていたのだけれど、あるにはあった。ただしボットン便所。

駅を出ると金山彦神社への道標があって、案内に沿ってぐねぐね道を進んでいった。行者堂があり、地蔵堂があって、池が現れた。竜田越で歩いた道には民家もほぼなくて、こんなところにどうして駅がと思ったのだけれど、竜田古道のほうには家々が連なっていた。古くて、ず~っと変わっていないんじゃないか、という感じがした。新しくやって来る人はいなくて、昔から住む人々が暮らし続ける、そんな集落に思えた。

建物はけっこう新しい青谷寺(融通念仏宗)があり、池の向こうには鳥居が見えていた。行ってみると金山彦神社だった。

リニューアル工事中で、社殿が新しく変わっていくところだった。池のほとりにはベンチなども置かれ、寛げるところだった。近くには金山媛神社もあって、どちらも製鉄関係の神さまじゃないかと思われるそうだ。

前に竜田越で歩いた竜田山は、たたら製鉄が行われていたところで、龍田大社に祀られる風神もその関係でじゃないかということだった。

古代、嶽山から竜田山にかけて製鉄が盛んだったらしく、金山彦神社も元は嶽山に鎮座していたのだって。嶽山がどこかは今では不明。

金山彦神社が最初に記録に現れるのは平安時代、醍醐天皇の時代らしいけれど、このあたりで7世紀末くらいには製鉄が行われていたらしい。残滓(製鉄の過程で出るカス)とかも見つかっているそうだ。

当時の横穴式石室もこのあたりで多く見つかっていて、渡来人たちの墓だったと思われるそう。渡来人たちが住み暮らし、製鉄にも関わっていたのじゃないかと思われるのだって。そして製鉄に関わる人々が金山彦、金山媛を祀ったと思われるそうだ。


イザナミとイザナギはヒルコを産み、アマテラスやスサノオらを産み、他にも多くの神々を産んだ。その最後に産んだのが火の神さまのカグツチ。けれど出産のとき、イザナミは大やけどを負い、黄泉の国へ。

イザナギはイザナミを追って黄泉の国に行き、半分腐りかけたイザナミの姿に恐れおののいて逃げ帰った。そんな物語が古事記に描かれている。

カグツチを産んだイザナミは、死を前にして病で吐いてしまうのだけれど、その吐瀉物から生まれたのが金山彦と金山媛。火によってドロドロのものが出てくる、というのが金属系のものを表しているそうで、そのことから製鉄をする人々の祀る神様となったのだって。

神社の説明によると、古代のたたら製法で鉄をつくる実験を行ったことがあるらしい。砕いた鉄鉱石を使い、風を送り続けると、一昼夜で27キロの鉄ができたのだって。

古墳時代には朝鮮半島から運んだ鉄鉱石を用いて製鉄を行っていたのかな。弥生時代には砂鉄(鉄鉱石が自然に微細な粒になったもの)を用いたのかな? 弥生時代に製鉄を行っていた証拠はまだ見つかっていないみたいで、行われていたのは鍛冶のみだったと前には思われていたそうだ。けれど、今では弥生時代の製鉄もほぼ確実視されるようになってきているみたい。

神社の説明でも、弥生時代にも製鉄が行われていたと書かれていた。

応神天皇の頃、からかぬちが百済からやって来たという記載が記紀にあり、その頃、一気に鉄の質がよくなったそうだ。もしかするとその頃、朝鮮半島から鉄鉱石を手に入れられるようになったのかな。


金山彦神社の横は車道で、その緩やかなカーブの道を上っていった。

歩道は白線がひかれているだけで、けれど通学路らしかった。こんなガードレールもない道がけっこう通学路になっているって、散歩していて知ったことの1つ。

車道(府道183号本堂高井田線)をどんどん行くと、左手に中学校、小学校、幼稚園が現れた。小学校や幼稚園の小さな農園も道沿いにあった。

中学校を過ぎたあたりで竜田古道は183号線から離れて左手に進むよう案内されていたのだけれど、そのまま183号線を進んでいった。階段の上に現れたのが金山媛神社。

地元に密着した感じの小さな神社だった。けれどけっこう高いところにあり、老人には階段がしんどそうだった。神社のさらに上にも道が続いていて、少し行ってみると小さな「かりんどの福神 至福堂」なんてものがあった。引き返して183号線に戻ったのだけれど、こちらから行っても雁多尾畑に通じていたのだろうな。


JAを過ぎて、左手の道に進むのが竜田古道らしかった。直進の道には「竜田古道の里山公園」が案内されていて、寄ってみようととりあえず直進。けれどけっこう進んでもたどり着かなかった。道を間違えたのかしれない。

しかしけっこう急な上りの道を上がって来たというのに、家々が建ち並んでいてびっくりした。新興住宅地ではなく、古くからの集落の感じだった。

これは・・・なんだろう? もしかしたら製鉄のために木が根こそぎ切られ、そこに人が住んで、それで今も集落になっているとか?? 製鉄のために何よりも量が必要だったのは木だったのだって。高温にするために木を燃やし続けたから。

面白いところだった。歩く道のすぐ横に、家の屋根があったりする。道に立つ目の高さに横の家の2階の窓があり、2階にいる人と道から同じ目の高さで話せそうだったりする。

竜田古道に戻って歩いたのだけれど、そこも同じだった。

高低差が激しい、そんなところに大きな古い集落があった。道はいりくんでいるし、配達屋さんもたいへんそうだった。


そのうち右手に松谷光徳寺が現れた。

光徳寺、別名松谷御堂。竜田越奈良街道歩きで峠(地名)の峠八幡に「松谷御堂 是ヨリ六丁」とあったのはここのことらしい。

平安時代の988年、円融法皇の勅願によって建てられた壮大な寺院だったそうだ。けれど南北朝の戦いで消失。本堂の雁林堂かりんどうだけが残り、それで地名が雁林堂畑から雁多尾畑かりんどおばたになったとも言われるのだって。

その後は荒れていたのだけれど、鎌倉時代に後堀河天皇に働きかけて、勅願で松谷御堂として再建したそうだ。

道を間違えているんじゃないかと思いながら竜田古道ルートを進んでいった。

山々が眼下に連なっていた。ここはどこ??と思うくらいだった。大阪だよね・・・。

やっぱり家々は建ち並んでいたけれど、その庭は山と一体になっていたりした。外には誰もいなかった。

「右 大坂」とある古い道標があって、「おおさか環状自然歩道」と書かれてあった。ウグイスなんかが鳴いていた。


下りの道を行くと「どんどの滝」「どんどう不動尊」が現れた。もうここは山だな。

古い壊れかけの旧家には「電話金融 マルフク」。大阪市内でも壊れかけの無人になった古い家に「マルフク」の看板を見るのはあるあるだったけれど、「電話金融」は初めてだった。

それからはもう家はなくて、ブドウ畑や畑ばかりがあった。

屋根部分をビニールで覆われたブドウ畑の横はすごい熱気で驚いた。そして畑以外は視界ぜ~んぶ山だった。

雁多尾畑、山の一部が集落になっているだけで、やっぱり山林もいっぱいなんだな・・・。製鉄のために切り拓かれて集落になったというより、たとえば松谷御堂やそのお参り道近辺に集落ができていったのかな。


「青谷・堅上2km 安堂・高井田2.5km」の道標が現れて、安堂・高井田方面へ。

このあたりは田舎の風情だったなあ。鶏がずっと鳴いていたりした。

赤い鉄橋が頭上に現れた。大県方面に行ける道らしかった。

山、ウグイス、赤い橋。大阪府内、しかも人が多く住むはずの柏原市にやって来ただけだというのに、遠くの山にやって来たみたいだった。

なんでも大阪府って、西は海だけれど、他は山で囲われているんだそうだ。北は北摂山系、東は生駒、その南に金剛や葛城山、南は紀泉アルプス。それらの山々が県境になっていて、おおさか環状自然歩道というのはその縦走歩道やダイヤモンドトレイルを結んだ道らしい。全長300kmほど。

竜田古道は奈良との境あたりの道なので、こんなにも「山」なんだな。

鉄橋の下を過ぎると「○○注意」の看板があって、また「マムシ」かな?と思ったら、イノシシだった。


また「イノシシ注意」の看板があって、それからすぐが堅下南中学校だった。前回の長尾街道歩きで迷って歩いたあたりだった。市街地もそう遠くないのに、このあたりの子にはイノシシは学校の近くにいる生き物なんだな。「高井田」や「平尾山古墳群」の道標も見た。

せっかく近くまで来たので、前回見逃した石神社に残る智識寺の塔の礎石を見に行こうと、石神社を探した。それでまたも道に迷ってしまった。山すそを走る感じの農道に出て、観音寺なんかがあった。急な階段を上ったところに山門があって、上って行ってみた。途中には桜が並んでいて、だいぶ蕾がふくらんできていた。

階段の上からは柏原の町並みが遠くまで見えた。山の周縁部にはすごく古そうな集落。その向こうには近代的な都市。色までが違っていた。手前は黒壁などで黒っぽく、その向こうはビルの外壁やガラスで白い。


階段を戻り、農道からそのまま下に続く階段を下りていった。地名は大平寺。

黒い集落を通り、向こうの白い市街地に向かう道へ。相当の旧家が並んでいて、ぼろぼろで壊れかけている旧家なんかもあった。

業平街道(業平道)の案内や、カタシモワインフードやカタシモワイナリーがあった。柏原はワインの産地らしいからな。

ブドウはカスピ海(どこ?)あたりが原産地で、紀元前3000年頃には栽培されていたそうだ。じわじわと広まって、中国にも紀元前には伝わっていた。そして日本にももたらされ、ヨーロッパブドウが自生していたらしい。智識寺の鴟尾(しび・とびのお・瓦の装飾のこと)の模様もブドウなのだって。栽培するようになったのは平安時代。

昭和の初めころには、大阪府がブドウ栽培面積日本一だったらしい。「醸造許可を持つブドウ農家」が当時はこのあたりに何十軒もあったのだって。今では一軒だけが残り、それがカタシモワイナリー。明治時代に堅下でブドウ栽培を始め、大正時代にワイナリーをつくったのだって。今も柏原のブドウ栽培の中心的な存在で、太平寺にはそのブドウ畑、ワイナリー、ワイン直売所、レストランなどがあるみたい。

ワイナリーとあって、一帯は古いだけじゃなく、なんだかおしゃれだった。「大坂ミュージアム構想」の支援事業の対象でもあったみたい。


柏原市の提案する「堅上の里と竜田古道コース(雁多尾畑の里と竜田古道コース)」は近くの安堂駅でゴール。

けれどまだ時間があったので、気になっていた鐸比古鐸比売神社にも行ってみることにした。

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