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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
13/44

柏原は

3月だけれど寒かったある日、長尾街道の続きを歩きに行った。

寒いくらいの方がちょうどいい。歩いていても暑くはならないし、水分補給もそこまでしなくても大丈夫。電車でバッグの中に入っていても快適。

前回の長尾街道は河内松原から石川あたりまで歩いた。石川に架かる石川橋からは竜田越奈良街道歩きで歩いた道と同じで、途中、国分で竜田越奈良街道と分かれていく。

まだ歩いていない国分の分岐点あたりから歩こうと思った。

そのあたりから歩くには最寄り駅は河内国分(近鉄大阪線)だったけれど、柏原駅(JR大和路線)から。駅からは南東に向かい、高井田駅(JR大和路線)近くで大和川を渡って国分に行くつもりだった。

適当に歩いていると太平寺なる古い集落に入っていて、いわ神社が現れた。

階段の上の高台にある神社で、階段の下には素敵に大きなクスノキ。

智識寺跡とあった。聖武天皇の頃、智識寺なる大寺院がこのあたりにあり、ここはその智識寺、もしくはその子院の太平寺があったところだそうだ。

智識というのはお寺を建てる信心や知識をもつ人々のことらしく、智識寺は智識たちが中心になって飛鳥時代の終わり頃に建てた寺だったのだって。

聖武天皇は平城京(首都)と難波宮(副都)を行き来する際、河内の六寺を回り、そのうちの1つ、智識寺で大きな廬舎那仏や智識たちの姿を見て感銘。それが奈良の大仏をつくるきっかけになったそうだ。

河内の六寺って智識寺ほか、山下寺(大県)、大里寺(大県)、三宅寺(平野)、家原寺(安堂町)、鳥坂寺(高井田)。みんな柏原市だ。大和川の北あたり。当時、柏原は時代の先端をいく栄えた大都市で、大寺院もずらりと並んでいたらしい。

その後、平安時代の1086年に智識寺は落雷で倒壊。ほかの寺も残っていないそうだ。

石神社には智識寺の塔の礎石らしき石が残っているのだって。この時は知らずにいたけれど。


すぐ横は歴史の丘展望台公園だった。素敵な公園だったけれど犬NG。

高低差のあるところで、ブドウ畑があり、業平道が案内されていた。平安時代の伝説的プレイボーイ、在原業平ね。天皇の孫でありながら、おじいちゃんは天皇を引退した後で政権奪回を狙うという暴挙に出てしまった人だったから、政治の表舞台に出ないように、風流の世界に生きた。その言動は一部伝説化して伊勢物語などになったと思われ、その1つが高安の娘との悲恋だった。

十三街道歩きで知ったのは、神立茶屋に娘がいて天理から通っていたという話だったけれど、他にもいろんなパターンの話になっていて、業平が通ったとされる道にも諸説あるそうだ。柏原市では石神社(当時は智識寺)あたりを通り、大県方面に進んでいったという説を押しているみたいで、ここに業平道が通っている。

それから迷子になった。今とは違って、柏原には全く土地勘もなかったからなあ。あちこち歩くうち安堂町へ。ここも古そうなところだった。家原寺があったというところね。迷った代わり、柏原市の田舎ぶり、古さが少し分かったように思った。

東の一帯は山で、山桜や赤い梅がきれいだった。今も長閑で、大きな旧家なんかが並んでいて古い、興味深いところだった。

「河内ぶどう」の文字が目立っていて、柏原ってぶどうや、ワインの産地なんだそうだ。

リビエールホールと市役所を越えて、大和川の土手沿いを南に進んでいった。高井田には史跡高井田横穴公園なる公園があって、気になったから高井田経由で国分に行こうと思っていた。けれどさんざん迷って疲れたので、川沿いを歩いて簡単に国分に向かうことにした。

土手にはつくしが何本もにょきにょきはえていてびっくりした。大和川河口から19kmとあり、マムシ注意の看板もあった。

すぐ横を25号線が走っていて都会の様相なのだけれど、本来はこんなに自然豊かなところなんだな。


大和川を渡る橋が現れて、この橋を渡った。国豊橋で、25号線だった。

橋の上から見た東の一帯はとりわけ田舎の様相だった。緑ばっかりが見え、「⇒青谷」とあった。國分神社裏の松岳山古墳あたりかな?

橋を渡ると国分。国分寺があったあたりとかなのかな?

江戸時代までは大和川は柏原から北に流れていて(江戸時代に付け替えられた)、古代には北にあった河内湖に注いでいたのだって。河内湖は土の流入などでどんどん小さくなっていったから、時代によってサイズは異なるみたい。

当時は草香江と呼ばれていて、玉祖道(今の十三街道)の北、生駒の西の大きな湖だったみたい。

このあたりで大和川に石川が注ぐのだけれど、古代、石川はエガ川と呼ばれていて、近くではもしかしたら大和の「ツバ市」よりも古い時代から、「エガ(餌我)市」が開かれていたらしい。

飛鳥時代から奈良時代にかけて栄え、外国の人たちも来ていたと思われるそう。宇陀の水銀なども扱われていて、当時中国で水銀が珍重がられていたから、中国からも買い手が来ていたと思われるのだって。

場所はよく分からないものの、今の国府こう(藤井寺市)あたりじゃないかとされているみたい。市で栄えていたあたりに国府や総社がおかれたのかな。そしてそこから少し離れて国分寺がおかれたのかな。後で知ったことによると、聖武天皇が各国に国分寺と国分尼寺を建てるようおふれを出したとき、「風光明媚な場所に建てる」という条件があったそう。国府あたりは栄えすぎていて、少し離れた今の国分に建てたのかな。

名前から言っても石川沿いの古市(羽曳野市)にエガ市があったんじゃあ?と素人ながら思ったのだけれど、古市はかつて「フルチ」と呼んだらしく、「ふるち」に「古市」の漢字をあてただけなのかな?


大和川には船が行き来していたんだろうか。

中国からは難波津から河内湖に入り、下船してエガの市にやってきたのかな?

宇陀などからは川を下って物を運んでいたのかな?

エガの市や大和川界隈から大和に侵入する不審者がいないか、治安を守るためにも守衛する人々もいたのかな?

一時は大和川界隈で力を持っていたのは、高井田や青谷の鳥取氏など、物部氏に従う氏族だったと思われるのだって。


国富橋を渡ってすぐ左手に西町地蔵がいて、その北側の道が竜田越奈良街道歩きで進んでいった道だった。ここを行くと長尾街道との分岐点があり、國分神社があって、ジェイテクトそばの吊り橋で大和川を渡って青谷へと進んだ。

柏原駅から歩いたので大和川を二度も渡ることになったけれど、本当は堺から東に向かって石川を越え、ジェイテクトそばのつり橋で初めて大和川を渡る。

今回も古い国分の町並みを堪能しつつ坂を上り、古い道標のあるところを右折。ここが長尾街道との分岐点だと思ったのだけれど、本当はもう少し手前で右折するべきだったのかな? ここを間違えて、またまた歩き回ることになった。迷子になりつつも古くて面白い一帯があるとついつい細い道に入っていったりもして、そのうちに道のいりくんだ国分で完全に迷子になった。

なんとか河内国分駅に出て、駅から25号線を南下すると国分小学校前にたどり着いた。国分小学校前から南下していくのが長尾街道。ここまで相当に歩いたけれど、まだ今日のほぼスタート地点あたりだった。

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