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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
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竹内街道を堺から

何の因果か街道などを歩くようになってもうすぐ1年が経とうとしていた。

わたしは暑さはもちろん、寒いのも苦手なトイ・プーだから、二月の寒い曇りの日なんて、暖かい部屋、温かい毛布のそばで眠っているのが最高。雪が降ったら「犬はよろこび庭かけまわる」と言うそうだけれど、わたしは遠慮したい。なのに、温かい毛布のそばで眠るよりも楽しいことがあるのを知ってしまった。

寒いというのに出かける準備をして、わたしはバッグにイン。電車に乗って散歩に出かけて、知らない道を、冷たい手足を冷たい地面に押しつけながら歩こうというわけ。

おかあさんもおんなじだ。手は冷たくて足はしもやけ。それでもまた出かけようというわけ。


今度は竹内街道を歩こう。

日本最古の官道とか言われる竹内街道は、もっと先にとっておきたいような気もしていた。メインデッシュみたいなものに思えたから。けれどこんな寒い日、堺からスタートする竹内街道はなかなかいいのじゃないかと思った。田畑の中の一本道みたいに風が吹きつけることはないだろうし、春だときれいだったろうなあ、と残念に思うこともないだろう。

バッグをもったおかあさんと家を出て、電車に乗りこむ前にバッグに入る。南海本線に乗って、堺駅で降りた。

駅前の幹線道路でバッグから出て、ひとまず匂いを嗅いだ。来たことのあるところだあ。知らない犬ばかりの匂いがする。

駅前から東へ向かった。これが堺郷の東西のメインストリートだったという大小路で、竹内街道と西高野街道との起点はこの大小路だそうだ。

あまり情緒はない、ただの街中のまっすぐな大通りだった。堺はほぼほぼ空襲で焼けてしまったところだから、メインストリートなんて特に昔の名残はない。


街中まちなかを歩き、南海高野線堺東駅に近づくと、堺市役所がある。

市役所には21階に展望ロビーがあって、わたしは再びバッグに入ってエレベーターに。きれいな新しいエレベーターで、チンと鳴ったらもう21階だった。チンと鳴って、扉が開いて外に出される、なにかに似ているなあと思ったらオーブンレンジだ。

展望ロビーはけっこう賑わっていて、地元のボランティアガイドの人たちが各々少人数のグループに説明をしていた。ここから仁徳天皇陵などがばっちりと見えるのだ。

周遊道を歩いた時、ただの森のようだった仁徳天皇陵は、ここから見るとちゃんと前方後円墳の形をしていた。他にも古墳が住宅街の中にところどころ見えていた。


前に歩いた長尾街道は、堺東駅の北あたりを通り、駅からすぐ東では方違神社や反正天皇陵のそばを通った。

竹内街道は長尾街道とほぼ平行に、少し南を東に進む道で、堺東駅の南あたりを通る。市役所と駅との間の大通りを新町交差点まで南下していった。駅の南にはジョルノってショッピングセンターがあったけれど、「完全閉店しました」と書かれていた。

交差点からは踏切を渡って東へ。このあたりからは道はカーブしていて、旧道っぽかった。人も車もそんなには通らず、道端には地蔵や石標なんかもあった。住宅街の中にどうにか残された感じだった。

道が2つに分かれると、竹内街道と書かれている左手へ。右手に進むと西高野街道。堺から南の高野山に向かう道。


このあたりから時々、竹内街道の新しい道標が現れた。

後で地図で見ると、南東方向に進んでいた。このあたりの大阪湾岸あるあるで、斜めになった海岸線に平行に縦の幹線道路が走り、それに垂直に横の幹線道路が走っていて、そのせいかこのあたりでは竹内街道も斜めになっていた。

仁徳天皇陵さえも一緒に斜めになっていて、大昔からのあるあるだったのかな。


しばらく行くと左手になにやらあって、行ってみた。

「向泉寺閼伽井跡」とあった。建物も何もない、ただの小さな緑の空き地が、住宅の中にあるだけだったし、その頃のわたしは「向泉寺閼伽井跡」とか言われても、なんのことかも分からなかった。

初めて見た「閼伽井あかい」の文字は、行基が掘った井戸のことをいっているらしかった。多分だけれど、仏教用語で「聖なる井戸」みたいな意味なのかな。その後で行った各地でも、行基が掘ったとされる井戸にはたいてい「閼伽井」と書かれていた。

奈良の大仏づくりの総監督|(かな?)を任されたことで有名な僧、行基は、各地に井戸を掘り、池を造り、港を造成し、寺を建て、布施屋を設置し、あちこちに名を残している。行基の足跡をみんなが大事に守って、語り継いできたのだろうな。

ここにあった閼伽井のそばのお寺もまた行基が建て、井戸に向かって建てたので「向泉寺」だって。もしくは和泉に向かって建てたので。

大寺院だったそうで、平安時代にはここの閼伽井の水を沸かして湯あみすると万病に効くと評判で、京からも貴族がやって来ていたそうだ。

地名は榎元町で、昔はいい雰囲気だったのだろうと思われた。今は味気ない住宅街だったけれど。

すぐ南が仁徳天皇陵。けれど、今や中環や線路(南海高野線)が間にあって、ある意味はるかかなただった。


向陵西町交差点で中央環状線に出た。商業施設の建ち並ぶ中を、ごうごうと車の走る、広い幹線道路だった。しばし中環を進んでいく。

細池橋で渡ったのは川ではなく、JR線が走っている線路だった。跨線橋ね。

向陵中町交差点には右手に竹内街道の碑があって、ここで中環を離れて一本南の道で東へ。

緑の一里塚なるゾーンがあった。「竹内街道1400年活性化プロジェクト」なる企画があり、江戸時代の一里塚を倣って、新たに設置したものらしい。この時は難波宮跡公園から太子町までの7か所に設置済みで、あとは長尾神社から飛鳥までの5か所が計画されているってことだった。

長尾神社は長尾街道で通るはずのところだけれど、竹内街道でも通るんだな。

「推古天皇の時に難波より京に至る大道を置いた」という記載が日本書紀にあって、その大道は今の竹内街道のことだという説が一般的みたい。プロジェクトはその説にのっとったもの。

当時の京は飛鳥だった。「難波より京に至る」という記述から、官道は難波宮から今の竹内街道まで南下して、竹内街道で東の飛鳥に向かう道だったのだろうと想定されていて、それで難波宮跡公園にも緑の一里塚が設置されたのだろうな。

推古天皇のとき置いた、その1400年後が西暦2013年。

後で知ったことには、長尾街道や竜田越奈良街道も、「京に至る大道」の候補だそうだ。1400年前のこととあって、確かなことは分からないんだな。


緑の一里塚からしばらく行くと、黒土西地蔵や公園などがあり、中環の近くでありながらなんだか雰囲気があった。地名は黒土。

このあたりから東の一帯はかつて丹比たじひ郡だったところ。南にもずっと丹比郡で、北はヨサミ。

丹比は鍛冶、それから製鉄も行って栄えていた地域らしい。このあたりの金岡、長曽根、日置あたりも中世、鋳物師いもじの一大居住地だったそうだ。河内鋳物師と呼ばれ、河内から全国に拡散していったのだって。

地名もそれに関係していると思われるものが多くて、日置は火置、金岡は元は金田で、鉄の産地のこと、黒土は製鉄で焼けて黒くなった土かなにかのことだとも考えられるのだって。

製鉄は最初は日置あたりで始まり、次第に金岡あたりに移っていったと考えられるそうだ。


地名はそのうち長曽根町になっていた。長曽根の地名の由来は分からないらしい。長曽根神社があるけれど、その由緒も不詳らしい。

このときは通り過ぎただけの長曽根は、なにか隠しているような感じがしていた。普通の住宅街のような顔をして、なにかを隠している。気になった長曽根に、後に何度か行ったけれど、思うのは、池上曽根遺跡の曽根にもなにか関わりのあるところなのじゃないか・・・。

信号で渡った広い府道28号大阪高石線は、下を地下鉄御堂筋線が走っているようだった。北に大きな木が見えていて、ちょっと行ってみると、楠塚公園の大きなクスノキだった。

金岡神社頓宮西之宮とあった。アスファルトやコンクリで固められた住宅街だけれど、固めていなければこんな大きな木を育むところなんだな。


地名は金岡町になって、金岡小学校の前を通った。

生徒たちの手による古い周辺案内図があって、そこには長曽根遺跡も案内されていた。黒土から金岡にまたがる遺跡で、古墳時代以降の集落跡などが見つかっているそうだ。

小学校前にはヒロミ屋なる文房具屋さんがあった。すごい古い建物で、ヒロミ屋って名とのミスマッチが素敵だった。けれどもう閉まっているみたいだった。

それから鳥居が現れた。鳥居の向こうは駐車場で、変な感じだった。その向こうに車道があって、その向こうにこちらを向いた小さな金岡神社。

金岡神社には平安時代初めの有名な宮廷絵師、巨勢金岡も祀られているそうだ。平安時代、それまでは中国の真似ばかりだったけれど、日本独自の国風文化が花開いたって言う。絵画もそうで、それまでは唐風の絵ばかり描いていたけれど、そこに新風を吹き込み、大和絵を確立させたのが巨勢金岡だったらしい。学ぶために人々が集まってきたのかな? 河内絵師という大きな集団になっていったそうだ。

巨勢金岡の頃からあった神社には住吉三神が祀られていたそうだけれど、このあたりに住んでいたという巨勢金岡も祀られるようになり、それで神社の名が金岡神社になり、地名も金田から金岡になったんだそうだ。地名の由来にもなったというわりには、今では住宅地に小さく鎮座し、存在感の薄い神社だった。

周辺にはお寺もいっぱいで、金岡は寺内町だったのではないかとも言われているそうだ。詳細はよく分かっていないみたい。

一帯がただの古い集落ではないのはなんとなく感じられた。


後で知ったことには、難波宮から竹内街道あたりまで南下してから東の飛鳥に向かっていたとされる古代の官道は、金岡神社あたりがその接続点だったと思われるそうだ。難波宮からは難波大道と呼ばれる立派な大道で南下。後に金岡神社が創建されたこの地に至り、そこから丹比道と呼ばれていた道を東へ。

推古天皇の頃は、親戚だった蘇我氏の全盛期だったけれど、時が過ぎ、推古天皇の甥っ子の孫にあたる中大兄皇子が中臣鎌足と一緒にクーデターを起こした。蘇我氏を倒し、政治の実権を握って、後には天智天皇となった。その死後には息子の大友皇子が即位・・・のはずが、天智天皇の弟の大海人皇子が挙兵。戦いの後、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位した。

大海人皇子と大友皇子の戦いは壬申の乱と呼ばれている。そのとき、大海人皇子側の兵士らは高安城を占拠。大津道と丹比道から押し寄せる大友皇子側の軍を待ち受けたそうだ。

その大津道が今の長尾街道、丹比道が今の竹内街道というのが通説みたい。

そして推古天皇の時代の「京に至る大道」もこの丹比道のことだろう、というわけ。


金岡神社の南の道を東に向かっていった。左手に久しぶりの中環が現れて、大泉緑地交差点あたりで中環に出た。

中環を信号で渡った北は大きな大泉緑地。大阪府営の公園で、100ヘクタール超え。100ヘクタールといってもよく分からないけれど、少し入っただけで相当広いのは知れた。冬だからか人はほとんどいなかった。

大泉緑地交差点には、中環から分岐して大泉緑地沿いを東に向かう車通りの少ない車道もあって、その道をいくのが竹内街道。殺風景な道だった。田舎の工業地帯という風情だった。

最近まで田んぼだったのが工場になっていったのかな。左手にゴルフセンター、右手には池が広がり、池の名は大池だった。左にもかつては池(尻池)があったらしい。

大池には一部だけに水が残っていて、水鳥もいた。けれどゴミもいっぱいで、少し臭かった。

池の上が堺中央卸売市場になっていた。中環沿いにあって、そちらからだと池の上だって気づかないのかもしれない。こちらから見ると、池の上に浮いているように見えて面白かった。


しばらく工場地帯を進んだ。右手は八下やしも。この辺りはかつては八上郡八下郷だったところみたい。黒土あたりからこのあたりまでもまだ、かつては丹比郡だったところで、その丹比郡が丹南郡と丹北郡、八上郡とに分かれたのだって。

左手は野遠のとお町だった。ここも工場が多いのだけれど、なんだかすごく古い集落の感じがあった。ちょっとそういう部分に鼻が利くようになっていた。

特に古そうなあたりを歩いてみたら、八坂神社や西教寺があった。お寺のカイヅカカブキが見事だった。カイヅカカブキって、貝塚になくてもカイヅカカブキ、そういう名の木なんだな。最初に見たのが貝塚でだったので、貝塚のカブキでカイヅカカブキと呼んでいるのかと思っていた。

後で知ったことには、このあたりは下高野街道の通るところだったみたい。


西除川を越え、大きな通りを丹南北交差点で渡った。地名は岡で、ここからは松原市。ここも古いところらしかった。中高野街道も通っていて、かつては茶屋が並んで賑わっていたのだって。

江戸時代とかに高野山参りが流行したらしい。堺からの西高野街道、天王寺からの下高野街道は南の狭山池あたりで合流、平野からの中高野街道は更に南の河内長野で合流、生駒の東を通る東高野街道も河内長野で合流して、南の高野山に向かっていくのだって。

みんな別に高野街道で向かったわけではなくて、各々好きな道で行ったのだろうけれど、よく使われるなどした道が「高野街道」と名付けられたのね。

岡では河内鋳物師たちの工房跡なども見つかっているそうだ。今は、普通の住宅密集地に見えた。岡の大師堂くらいしか古いものは見当たらなかった。

・・・うむむ?

前に歩いた竜田越奈良街道では、道々、聖徳太子云々の話がいっぱいだった。聖徳太子創建のお寺があったり、聖徳太子も歩いたと言われていたり。けれど竹内街道ではまだ一度も聖徳太子の名を聞いていないな、と思った。河内鋳物師とか行基とかの話ばかりだ。

本当に竹内街道が推古天皇の、つまりは聖徳太子の頃に置いたっていう官道だったのかな?

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