第4話 アリアドネーは旗を紡ぐ
私の無意識をコントロールする、最大最強の外部刺激とは……
それは、自意識に他ならないのです。
自意識が幻想である、という考えの根拠となっているのは、存在したとしても、「受動意識仮説」によって自分をコントロールしていないと言えるからです。「受動意識仮説」は、自意識そのものが無い、なんて言ってないのです。
単に、自意識には期待できるような機能が備わっていない、ということに過ぎないのです。
私が気付いたのは、自意識には、自意識として今まで期待していたのと違う機能を持っていた、ということです。
自意識が、自意識の実感として、確かに存在しているけれども、自分をコントロールしていないというのなら、それは自分にとって傍観者であり、他人であると言えます。
しかし。
他人の無意識は、私の無意識に影響を与えているではありませんか!
他人の影響は、外部刺激として考えることができます。
そして自意識は、他の外部刺激と違って、寝ていない限り、常に無意識の側にあるのです。常に思考というインプットをし続けるのです。
私の自意識は、私の無意識をコントロールしていないかも知れません。
しかし、影響を与えていないはずはないのです。
他人の無意識は、確かに私の無意識に影響を与えているのですから。
私のかつての結論であったことを、もう一度書きます。
受動的に意識しているに過ぎないものなら、
人間的価値として、あってもなくても、
いや、むしろないほうが良いものなのだ。
この嫌な気持ちさえ幻想ならば、なおさら不要だ。
いいえ。
何かを生むことができるなら、世界に爪あとを残すことができるなら、
それは幻想にとどまることではありません。
価値のないことではありません。
自分イコール会社であるなら、本当の社長でなかったとしても、社長である必要はないのです。本業はロボットたちがそれなりにこなすと言うのなら、会社の「理念」であればいいのです。
私の自意識が、「自分」に影響を与える存在でしかないというのなら、それに徹すればいいのです。
どうせ、それしかできないのですから。
だから、自分は、行くべき方向を指し示す、自分を率いる旗手でいよう。
なんとも青い結論ではありますが。
それが、私にとっての「自分というモノ」、なのです。
ご愛読、ありがとうございました。
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