観覧車
【三月八日(火)】
・観覧車のウッドパズル、組み立て済みのもの一点。木の板から決まった形のパーツを切り出し、立体的な模型を組み立てる知育玩具。
・とある少年が大切に組み立てて保管していたもの。彼の数少ない遺品とのこと。持ち込まれたお母様に、少年の話を伺う。
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気がついたときには、もう手遅れだった。
直美ひとりの手では、優太を育てることはできなかった。だから、望月と結婚した。シングルマザーである直美にも、優太にも優しくしてくれる。仕事ぶりはまじめで、責任感も強い。交際している間は、そんな男だと信じていられたのに。
確かに、当初の彼はいい夫、いい父親で間違いなかった。だが、直美との間に実子の美優が生まれた頃から、望月の本性が次第に見え隠れしはじめた。彼は乳飲子の世話と家事の一切を直美に押しつけた。直美が疲労から夫婦生活を拒否すると激怒して手を上げ、無理に行為に及ぶことさえあった。一言でも意見しようものなら、すぐに拳や足が飛んでくる。機嫌の良いときであれば、
「ひとりじゃまともに金も稼げないおまえが、おれに逆らっていいと思ってんのか? 」
と怒鳴られるだけで済むのだが。
周囲に味方はいなかった。望月は人当たりがよく、家から一歩外に出ればたちまち〈有能で家庭的な愛妻家〉の仮面を如才なく身につけ、結婚前の直美自身がそうであったように、誰もがその仮面を真実だと信じていた。四面楚歌のうえ、結婚当初から望月の経済力に依存している負い目のある直美には、〈逃げる〉という選択肢は存在しないも同然だった。
直美ひとりであれば、何とか逃げ出して助けを求めることはできたかもしれない。だが、彼女にはふたりの子どもがいた。彼らを置いていくことはできない。だからといって連れて逃げたとしても、生きてゆくことはできない。望月は経済力を盾に直美の心身を支配し、汚染し、奴隷そのものの過酷な暮らしを強要した。
直美が正気でいられたのには、息子と娘の存在が大きかった。優太は七歳という年齢ながら母の苦労をよく理解しており、父親の違う妹の面倒をよく見る、名前どおりの優しい少年だった。優太がいなければ、直美はとうに過労で倒れていたことだろう。優太は直美についてひととおりの家事を覚え、直美の手が回らない家事を積極的にこなし、母が義父に迫害されていれば、身をもって暴君に抗議して母を守ろうとした。
望月は当然のように優太を虐待した。実の親でもないのに金を出して育ててやっているおれに歯向かうとは、躾がなっていない証拠だ。母親と同じ、おまえもどうしようもない馬鹿だ。望月はそう言い、優太に対して直美へ加える以上の激しい暴力を振るった。直美は何とか優太を庇おうとしたが、彼女自身も満身創痍で、夫に取り縋って懇願する以外にできることはなかった。望月にわずかでもマシな点があるとすれば、それは実の娘にだけは手を上げなかったということだった。望月は娘の世話こそしなかったが、彼なりに娘を溺愛していた。
地獄のような日々が続いた。直美と優太は互いに励まし合い、何とか生き延びていた。ふたりに育てられた美優は母と兄によく懐き、都合のいいときだけ自分に構う父親に抱き上げられるとむずがるようになった。望月は家族の中で唯一〈まとも〉な娘が一向に自分に懐かないのは直美と優太のせいだと言い、日を追うごとにふたりに辛く当たった。
これ以上の地獄はない。これ以上の底はない。直美はそう信じて辛い日々を耐えたが、上には上があるように、下にはいくらでも下があるものだ。
ある日仕事から帰った望月は、家に帰り着く前からすでに機嫌を損ねていた。会社で何か嫌なことがあったのだろう。その日の暴力はいつに増して苛烈だった。彼が投げつけてきたマグカップに頭を直撃され、直美は意識を失って床に倒れた。
次に目を覚ましたときには、すべてが終わってしまったあとだった。直美は、血走った目で息を切らしている望月と、その足元に横たわる血まみれの息子を見た。腫れ上がった顔。落ち窪んだ左目。わずかに開いた右目は昏く、もはや何も映すことなくぼんやりと虚空に向けられていた。
両手足を投げ出してぴくりともしない優太の身に何が起きたのか。直美はしばらく理解できず、震える唇を半開きにして呆然と目の前の光景を眺めた。本当は悲鳴を上げて息子に取り縋りたかったが、どんなに努力しても声は出ず、体は動かなかった。美優の泣いている声だけが、沈黙の降りた部屋に響いていた。
望月は直美が見ているのに気がつくと、苛立った様子で近づいてきて直美の髪を掴んだ。荒い息が吹きかかる。
「………おい。おい、言うなよ。誰にも言うなよ。分かってるだろうな」
直美は自分が震えているのか望月に揺すられているのか分からなかった。直美が返事どころか気を失わないようにするので精一杯なのを見て望月は彼女の髪を放し、舌打ちしながら優太の体を抱えた。
部屋を出て生きざま、望月は言った。
「こいつ捨ててくるから、美優を泣き止ませとけ。もし誰かにチクったら、おまえもこうなるからな」
望月が出ていってしまうと、直美は耐えきれずにその場で吐いた。吐きながら泣いた。美優はベビーベッドで泣き喚いている。美優をあやすのも忘れて、直美は泣き続けた。
部屋の隅に、観覧車の模型が転がっている。生活苦の中で、たったひとつ優太に買ってやることができたパズル模型だ。優太は丁寧にパズルを組み立て、大切に遊んでいた。
このまま部屋に置いておいては、望月に処分されてしまうに違いない。たとえささやかでも、守るべきものが現れると人間は手足に力が戻る。直美は鼻をすすりながらふらふらと立ち上がり、小さな観覧車を大切に抱え上げて、望月が決して開閉しない台所の、調理器具をしまう棚の中に慎重に隠した。そして、床に残ったおぞましい犯罪の証拠の数々を冷静に拭い去り、何食わぬ顔で娘を抱き上げた。
恐らく、これからもこんな地獄のような日々は続くだろう。望月は、直美が経済的にも心理的にも自分から逃げられないことを知っている。直美が自分に歯向かってくることなどないとタカをくくっているに違いない。
それは確かにそうだった。しかしそれも、ついさっきまでの話だ。
逃げ場がないことに変わりはない。だが、それまでは芽生える隙さえなかった〈怒り〉と〈憎しみ〉の萌芽は、この日確実に直美と望月の関係性に内在的な変化をもたらした。いや——実際には、直美が自覚したのが今日であったというだけで、傷口の瘡蓋の下に膿が溜まるように、ずっと彼女の心にあったものだったに違いなかった。直美の忍耐力という名の厚い瘡蓋は、優太の死という外圧によってついに破られたのだ。
絶対に許さない。直美はひそかに憎悪を育てた。優太を殺した望月にも、今日この日までこの状況に甘んじ、優太を死なせた自分自身にも。
*
優太を死なせてからというもの、望月はそれまでの威圧感を保持しようと努力しながらも、常にどこか怯えたような様子を見せるようになった。さすがに、子どもを虐待死させたとなればこんな恥知らずな男でも多少は〈悪いことをした〉と——少なくとも、彼の美しい外面に対する脅威になることは理解できるのだろうと直美は思った。直美が以前ほど従順ではなくなったというのも大きいだろう。直美は望月の言いつけをたびたび無視し、怒鳴り散らす彼を冷たく眺めるようになった。
優太のことは、事情があって遠くの親戚に預けたということにして周囲の目をごまかした。だが、立て続けに人が、それも大人がひとりいなくなったとなれば、そんな言い訳も難しくなる。望月は周囲からは愛妻家で子煩悩ということになっていたので、長男に続いて妻まで同居できない状況になったらしい——というような噂は絶対に避けようとするはずだ。だから、どんなに直美に反抗的な態度を取られても、望月はこれまでのように容赦のない暴力は振るえないはずだった。
それに、直美は今さら望月の暴力を恐れる必要はなかった。望月は美優にだけは手を上げたことがないので、仮に自分がいなくなったとしても娘に危険が及ぶ可能性は低い、と直美は考えていた。外聞もある——長男、妻に続いて実の娘もということになれば、もはやどう言い訳しようと彼にとって不名誉な噂が立つことは避けられまい。それはそれでいい気味だ。だが、自分の利益に敏感なこの男のことだから、美優のことだけは何としても生かそうとするだろう。……こうした、自分は殺されても構わないという開き直った態度がかえって望月を恐れさせ、直美の機嫌を取るような言動すら見られるようになった。
その日、美優のために遊園地へ行こうと言い出したのも、もしかしたらその一環だったのかもしれない。望月は美優を外出させるための準備は手伝わなかったが、直美を急かすこともなかった。以前なら、すぐに罵倒が飛んできたものだったが。
近場に水族館と遊園地を並べた大きな娯楽施設があり、三人はそこへ出かけた。美優は直美に抱かれて終始機嫌よく、直美も久しぶりに明るい気分を味わった。
ただひとり、望月の様子だけがどこかおかしかった。彼は遊園地の敷地に入ってからそわそわしはじめ、滞在時間が長くなるにつれてますます落ち着かない態度を見せるようになった。歩いていて、急に驚いたように後ろを振り返る。ベンチに座っているとき、突然信じがたいものを目にしたように遠く一点を凝視する。直美は彼の様子をそれとなく観察するうちに、彼が決まって敷地外の海の方に注意を向けていることに気がついたが、彼女にはいくら目を凝らしても注視すべきものは何も見えなかった。
そんな調子で、何時間過ごしただろう。望月はついに青ざめた顔で
「そろそろ帰ろう」
と言い出した。美優が指差して「乗りたい」と訴えたので、三人は最後に観覧車の列に並んだ。
狭いゴンドラの中で、望月はやはり、海を見ていた。眺望を楽しんでいるとか、ぼんやり遠くを見ているとか、そんなのどかさはなかった。彼は何かに憑かれたような、鬼気迫る顔つきで直美に尋ねた。
「おまえ、見える? 」
「なにが? 」
直美は訳が分からなかった。きょとんしている彼女に、望月はイライラと地団駄を踏んだ。
「あいつだよ! よく見ろよ、何で見えねんだクソ! 」
「あいつって? 」
望月はドンと足を踏み下ろし、喚いた。
「優太だよ! 」
その名が口にされた瞬間だった。
バタンと音を立てて、ゴンドラの扉が勢いよく開いた。弾けるように開いた反動で本体にぶつかって跳ね返り、ゴンドラが大きく揺れる——突然のことに驚いて声も出ない直美の視界に、そのとき〈彼〉が映った。
優太だった。
ギイギイと不穏な音を立てて止まったゴンドラの外から、直美が最後に見たままの痛々しい姿で優太が逆さまにこちらを覗き込んでいる。青ざめた顔を怨嗟に引き攣らせ、血と海水を全身から滴らせて。
優太は一瞬だけ、ゴンドラの隅で縮こまっている直美と美優の方に視線を向けた。優太。直美は思わず立ち上がって息子の方へ歩きかけたが、優太はそっと首を振って彼女を制止した。なぜか、「そのままそこにいて」と言われたような気がした。
望月は錯乱して暴れたが、優太の痩せ細った腕は彼の足首を折れそうなほどの力で掴み、じりじりとゴンドラの外へ引き摺っていった。直美は美優を抱きしめて必死に揺れに耐えたが、それも数秒のことだった。
望月はゴンドラの底面の縁に辛うじて指を引っ掛け、直美に助けを求めた——が、開いたときと同じ勢いで閉まってきた扉に指を切断され、そのまま落下していった。ゴンドラが観覧車の真上に来ていたからだろう、成人の重い体が鉄骨に衝突しながら落ちていく恐ろしい音と大勢の悲鳴がしばらくやまず、直美は顔を伏せて美優の耳を塞いでいた。
ややあって、緊急事態が発生した、ゴンドラを動かすのでその場を動かず待機してほしいとアナウンスが流れ、通常よりも低速で観覧車は回りはじめた。優太。直美は呼んでみたが、少年の痩身はどこにもなかった。
下に近づくにつれて野次馬の騒ぎがはっきりと聞き取れるようになった。直美自身は下を覗き込んで望月の末路を直視する勇気はなかったが、人が騒いでも無理からぬ惨状になっているだろうことは確認するまでもなかった。
ドアの近くに切り離された指が転がっていることを除けば、すべてが白昼夢だったのではないかと思えるくらいに現実味がなかった。直美はしばし呆然と、車内の騒ぎにも気づかぬげに眠っている美優を抱えていた。
あのとき確かに一度開いたはずの扉は、乗車前に外側から係員によってしっかりロックがかけられていたのだから当然だが、直美たちが無事に外へ出るまでついに微動だにしなかった。