船首像
【三月六日(日)】
・木製のフィギュアヘッド一体。実際にイギリスの商船で使われていたことがあるそう。
・持ち込まれたフィギュアヘッド自体には特に曰くはないが、作者にまつわる伝記的なエピソードが地元では語り継がれているらしいので、当店の趣旨からは逸脱しないのではないかとのこと。
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デイヴィスは腕のいい船首飾りの職人だった。無口だが仕事ぶりはまじめで、堅物そのものの顔つきからは想像できないほど繊細で美しい像をいくつもこしらえてきた。デイヴィスが店を構える港で造られる船のほとんどは彼の手がけた船首像を誇らしげに掲げ、七つの海を渡った。デイヴィスの船首像をつけた船が襲われると、積み荷や食料より先に像が奪われるとさえ言われた。そのくらい彼は腕利きで、彼の像はもてはやされた。
デイヴィスは頼まれればどんな形の像も作ったが、特に人魚や天使や女神など、女性の形を模したものを掘らせれば右に出るものはいないと言われていた。彼が手がければ、滑らかな肌の質感も、つややかな髪も、風に翻る衣も、木でできているとは思えないほどの仕上がりになった。依頼主に金銭的な余裕があれば瞳に丸く磨いた宝石が嵌め込まれることもあり、光を受けた像の双眸が煌めくと、今にも動き出さんばかりに——本当に命が宿ったかのように見えるのだった。
デイヴィスが女性の像を作るときは、いつも同じモデルを使っていた。というより、彼がモデルにするのは彼女ただひとりだった。花売り娘のジョイス。亜麻色の髪に茶目っ気のあるハシバミ色の瞳を持つ美しい恋人を、デイヴィスは心から愛していた。
ジョイスは無学だが利発で、口数の少ないデイヴィスとは対照的に、小鳥のようによく喋った。小リスのように軽やかで、子猫のように気まぐれ。そんな彼女の性質は花売り娘としては天性の資質となり、モデルとしては比類なき詩神のような能力となって発揮された。ジョイスが作業場に現れ、にっこり笑ってちょんと首を傾げると、どんなに作業に煮詰まっていてもデイヴィスは愛用の鑿を手に取らずにはいられなくなる。そして、彼女の笑顔を形に残そうとあれこれ頑張っているうちに、例の素晴らしい仕事を成し遂げているというわけなのだった。
だがしかし——妖精のような自由奔放さはジョイスの大きな魅力ではあったが、恋人としての誠実さとだけは相容れなかった。少なくとも、デイヴィスが内心ジョイスに対して求めていたような慎ましやかな振る舞いを、実際の彼女に期待するのは少し無理があった。デイヴィスから見たジョイスが奔放すぎたように、ジョイスから見たデイヴィスはあまりに硬派だった。
「芸術家って、もっと自由な生き方をするもんだと思ってたわ」
とジョイスはいつもむっつりと木を削るデイヴィスに言うのだった。
「まじめに生きてりゃいいってものじゃないわよ、人生って! 」
だが、デイヴィスは〈自由〉との交流はジョイスを見ているだけで十分だと思っていた。そして、ジョイスにはもうほんの少しだけでも誠実な恋人であってほしいと思ってはいたが、口に出すことはなかった。
愛想の良さは花売り娘の武器だ。彼女がその武器を使って仕事をし、ときおり——そう、客の男とその場限りの恋を楽しむような娘だったとしても、デイヴィスはそんなジョイスを愛していたのだからどうしようもなかった。もっとまじめな女性を選んだ方がお互いの幸福のためであることは分かりきっていたが、困ったことに、彼の愛にまっとうな愛を返してくれるようなごく誠実な女性が、ジョイスと同等にデイヴィスの創作意欲を刺激することはなかった。
デイヴィスはジョイスを愛し、そして自分の仕事を同じくらいに愛していた。だからいつでも、彼女がどんな航路を辿るにしろ最終的に自分のところへ戻ってくれればそれでいい、というところに彼の苦悩は落ち着くのだった。
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デイヴィスがジョイスの行動に目をつぶっていられたのは、第一にジョイスの〈浮ついた行為〉が彼の疑惑を出なかったからという理由が大きかった。約束をすっぽかされても、見たことのない飾りものが増えていても、会話が上の空でも、日頃作業場にこもっているデイヴィスがジョイスの〈奔放さ〉の実態を目にする恐れはなかった。ジョイスは自分の〈奔放さ〉の証拠を隠さなかった(彼女は自分の行動に対してまったく罪悪感を持っていなかった)ので、デイヴィスは彼女と会うたびに心を乱されはしたが、仕事に集中することで重い考えを振り払うことは不可能ではなかった。
ところが、幕切れは実に呆気なくやってきた。ある日、いつもどおりデイヴィスの作業場にやって来たジョイスは、いつもどおりの無邪気な笑顔で言った。
「ごめんね、デイヴィー。あたし、もうここへは来ないわ」
内心の動揺の大きさに反して、デイヴィスの口から出たのは
「……どうして……」
という小さな一言だけだった。ジョイスはほほえみを浮かべたままで続けた——彼が愛してやまない、とろけるようなほほえみを。
「あたし、結婚するの。プロポーズされたのよ……あたしから花を買ってくれた人に。お芝居みたいでステキでしょ? 」
結婚? プロポーズされたから? デイヴィスは耳を疑った。なぜなら、彼はもう何度もジョイスに求婚し、ことごとく断られていたからだ。彼は恋人の幸福に責任を持ちたかったが、当の恋人がそれを受け入れないので、彼女の気が変わるまで待とうとこの頃戦法を変えたばかりだったのだ。
絶句しているデイヴィスの沈黙をものともせず、ジョイスは軽やかに話し続けた——結婚の日取り。当日の衣装。相手の男のこと。将来への希望。ジョイスが語る彼女の未来予想図は聞いているだけで心が明るくなるほど夢に満ちていたが、そこにデイヴィスの姿はすでに見当たらなかった。
「どうして、おれのプロポーズを受けてくれなかった? 」
デイヴィスはなんとかジョイスの話の切れ目に割り込んだ。息も絶えだえな恋人に向かって、ジョイスは本気で不思議な顔をした。
「あなたと結婚なんてできるわけないじゃない。性格が違いすぎるもの——まさか、気づいてなかったの? 」
「それなら——どうして……どうして、おれと恋人になんか……」
ジョイスはふたたびにっこりと笑った。
「あなたがあたしにそっくりな船首像を作ってくれるからよ。オペラ座の歌手にだって、そんなことをしてもらえる人はいないわ! 〈彼〉だって、そのおかげで声をかけてくれたのよ。取引のある商船についていたきれいな船首像と君があんまりそっくりなんで、思わず見惚れてしまったよ。まるで本物の天使だ。いや、君をモデルに作られているんだったら、君こそが——」
デイヴィスは最後まで聞くことができなかった。ジョイスはどうあっても彼と結婚するつもりはなかったということも。ジョイスが新しい恋人と懇ろになったきっかけが自分の作った船首像であったということも。表面だけの甘い言葉に惑わされるジョイスの愚かさも。そんな彼女を愛さずにはいられなかった自分のどうしようもなさも。すべてがデイヴィスの心を粉々に打ち砕き、同時に彼の両手は彼女の白い首を絞め上げていた。
デイヴィスはジョイスを心から愛していた。彼女が安楽でいられるように心を配り、あらゆる面で彼女を守った。彼女が訪ねてくれれば心が躍った。健康を損なえば、自分の方が胃を痛めるほど案じた。
素朴で不器用な愛だが、真剣だった。伝わっていると思っていた。寡黙なデイヴィスには、表面だけを美しく飾り立てたような言葉で気楽に愛を囁くなどという不誠実なことはできなかった。だが、デイヴィスにとってのジョイスが決していい恋人ではなかったように、ジョイスにとってのデイヴィスもまた、恋人としての何かを致命的に欠いていたに違いなかった。
寡黙で無愛想だが心優しいデイヴィスは、すぐに我に返った。あまりの衝撃で理性を失い、ジョイスを失いたくない一心でつい手が出てしまった。だが彼はすでに、ジョイスがした裏切りの何倍も恐ろしいことをしでかしてしまった後だった。
デイヴィスは慌ててジョイスを救命しようとしたが、彼の無骨な指は女の細い首を、彼自身も思いがけないほどあっさりと縊ってしまっていた。ジョイスは唇の端から儚く泡を吹いて完全に事切れていた。
デイヴィスの脳裏に、一瞬にしてさまざまな思いがよぎっていった。永劫呪われるべき罪を犯してしまったという絶望感と、よりによって最愛の恋人を手にかけてしまったという罪悪感。役人のもとに出頭しなければという焦燥感。ただちにみずから命を絶ち、恋人の後を追いたいという衝動。
そして、彼自身も恐ろしくて直視はできなかったが——これでもう浮気な恋人はどこにも去っていかないという、悪魔に魅入られたかのような安堵感……。
デイヴィスはこの不思議な安堵感をよく味わった。このとき彼の心の中に同時に浮かんでいた他の感覚に比べて、〈安堵〉は圧倒的に彼を慰めた。
そうだ。おれは本当は、ずっとこうしたかったんじゃないのか、とデイヴィスは自問した。答えは間を置かずに出た。
デイヴィスはその後、丸一日かけてジョイスの体を少しずつ粘土で包み、鑿で丁寧に細部を整えて、完璧な塑像を仕上げた。木の彫像ばかり作ってきた彼にとっては畑違いの工程だったが、出来上がったものはいつもの船首像に劣らず見事だった。生身のジョイスはもはやどこにもいないが、彼女は塑像として永遠の命を得たのだ。恋の結末にも、自分の仕事にも、デイヴィスは満足した。
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最初の数週間は、突発的に我に返る瞬間があった。愛すべき恋人を惨たらしく死なせたばかりか、花を敷き詰めた棺桶の代わりに冷たい粘土の中に幽閉した。自分で自分のしたことが恐ろしくなり、手に握っている鑿を喉に突き立てかけることもあった。あるいはもっと冷静に、一目散に役人の元へ行き、罰を受けようとしかけたこともあった。
しかしそのたびに、〈ジョイス〉が彼を呼び止めた。粘土でできた唇は開かず、水晶を入れた瞳は瞬きすらしない。それでも、〈ジョイス〉は相変わらず小鳥のようによく喋り、大きな瞳で彼を見つめた。もちろん実際に声が聞こえるわけではない。だが光の当たる加減によって〈ジョイス〉は確かに表情を変え、デイヴィスは自分自身が彼女にした仕打ちのあまりの罪深さに絶望しながらも、〈ジョイス〉の豊かな表情の変化を目にすると、彼女が生きていた頃と同じように形に残さずにはいられなかった。あと一台。あと一台。彼は自分にそう言い聞かせながらも、次々と傑作を生み出していった。
ジョイスの生前と違うのは、彼女をモデルにして作られるのが天使や妖精ではなくなったということだ。〈ジョイス〉は右から光が当たると怒っているように、左から光が当たると嘆いているように、正面から見ると笑っているように見えた。彼女を殺害した直後の心情が表れたのだろうとデイヴィスは考えていた——〈ジョイス〉はあるときは酷薄に笑っているように見え、あるときは恨めしそうにこちらを睨んでいるように見え、またあるときは見るものをひたすら嘲笑っているように見えた。デイヴィスは〈ジョイス〉をモデルに、悪魔や異教の恐ろしい神の姿を掘るようになった。馴染みの客はデイヴィスの唐突な作風の転換に驚いたが、最初の衝撃が去るとともに彼の〈新作〉を称賛し、我先にと買い求めるようになった。世にも恐ろしい船首像は素晴らしい魔除けとして扱われるだけでなく、無垢な天使たちの表情にはなかった美しく蠱惑的な表情は、買い手にとっては抗いがたい魅力となった。
一方、ジョイスが失踪したことは世間的には特に大きな問題にはならなかった。彼女の婚約者は一応役人に届け出たようだったが、もともと気の多かったジョイスの正確な足取りを掴むのは難しいと判断すると、早々に捜索依頼を取り下げた。ジョイスは彼との未来を夢見ていたようだったが、彼の方は大して本気ではなかったのかもしれない。デイヴィスのもとに役人の手が及ぶこともなかった。
ジョイスの婚約者は都会的な、紳士風の気取った男だった。あんな軽薄そうなやつに騙されて不幸になるよりも、今の方がジョイスは幸せだったに違いないとデイヴィスは思った。婚約者の本性を知らないまま、恋人に一心に愛されたまま、永遠に美しい姿のまま——彼女風に言うなら、オペラ座の花形歌手すら手に入れられない運命を与えられたのだから。
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やはり、幕切れは実に呆気なかった。ちょうど、デイヴィスの船首像の評判を耳にした海軍の提督が、部下を大勢連れてみずから作業場を訪ねてきていた日だった。
提督とデイヴィスが〈ジョイス〉の前を通ったときだ。誰も手を触れていないのに〈ジョイス〉の頭がごろりともげ落ち、人々の前に転がった。提督が塑像の断面から滴る赤黒い液体が腐った血液だと理解すると同時に、地獄を煮詰めたかのような凄まじい悪臭が作業場に満ちた。
屈強な海兵たちに埃っぽい床に取り押さえられたデイヴィスの鼻先に、腐り落ちた〈ジョイス〉の頭があった。落下の衝撃で顔の半分にひびが入り、歪んだようになった彼女の表情はデイヴィスがこれまでに目にした中で群を抜いて醜悪で、もっとも残忍で、——やはり、美しかった。