階段
【三月一日(木)】
・隣町にある老舗遊園地内のお化け屋敷のチケット、一枚。該当の施設はすでに取り壊されて久しく、同じものは二度と手に入らないとのこと。
・持ち込まれた方も以前友人とともに施設内で不可解な現象に遭遇したことがあり、噂を調べるうちにこの話を耳に挟んだそう。
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松永は新たに自分が担当することになった〈廃校〉をうんざりと見上げた。何ということはない、中を歩いて出口まで向かうタイプの、よくあるお化け屋敷だ。
きっかけは、先任が階段から転げ落ちて脚の骨を折ったことだった。彼が退院してくるまでの代打と思って引き受けたのに、骨折した当人はすでに家族経由で退職届を提出しており、改めて顔を合わせることも引き継ぎが行われることもないまま職場から消えた。松永は後から知ったのだが、実は脚を折る前から辞める意思を固めていたらしいという話だった。
松永としては、いい迷惑だった。確かに従業員の中では古株だが、急な配置換えにはさすがに戸惑う(彼のひとつ前の担当はメリーゴーラウンドだった)。辞めるなら辞めると、前もってそれとなく知らせておいてほしいもんだ。だが、愚痴を言ったところで当人にはすでに聞かせようがないのだった。
松永がこの配置換えに気乗りしない理由は、今さら新しい仕事を一から覚えなければならなくなったからというだけではなかった。〈廃校〉は、昔から事故の多い施設として悪名を馳せていたのだ。事故の内容はいつも同じ。一階から二階へ上がる階段の途中で足を踏み外し、大抵はそのまま転落する。先任が骨折したのも、まさにその階段だった。今のところ死者は出ていないせいか、経営陣は〈廃校〉を改修するつもりも運営を休止するつもりもないらしかった。だが、毎度毎度同じ場所で同じような事故が起きているのだから、施設設計に欠陥があるとしか考えられない。松永は自分の担当施設で面倒ごとが起きるのは何としても避けたかった。
それに、「お化け屋敷の特定の場所で何度も事故が起こる」とくれば、当然
「あそこには〈本物〉がいる」
と噂が出る。この手の噂は尾ひれをつけながら町から町へ泳ぎ回り、全国から物好きな客を呼び集める。だが一方、同じ理由で従業員の定着率は悪かった。新人バイトが入っては辞めるので、〈廃校〉の責任者に一度据えられたが最後、いつまで経っても現場に出ずっぱりになるのは明らかだった。それも、松永の憂鬱の種だった。骨折がなくても辞めようとしていた先任の気持ちも分かろうというものだ。
松永自身は、怪談めいた噂などまったく信じていなかった。浮ついた客が連日押し寄せてくるのも迷惑だったし、そういう不注意な客がまた階段を踏み外す。責任者である松永が対応に駆り出される。運営側は、園内随一のドル箱を放置。……冗談じゃない。
いっそ誰かが本当に事故って死んでくれれば、こんなバケモノ屋敷ともオサラバなんだがな。松永はひとりごちた。できれば、おれ自身にはまったく責任のない状況で。閉園時間中に肝試しに忍び込んできたバカな客のひとりが段を踏み外して首の骨を折って死んで、その様子がばっちり監視カメラに残ってるとか——いや、そんなことになっちまったら、園ごと閉鎖にされかねない。それはさすがにマズイか。
腹いせにそんなことを考えてみても、明日から否応なしに〈廃校〉を管理せざるを得ないという事実は変わらない。業務に備えて、マニュアルを確認しながら中を一度見回っておく必要があった。
ブツブツと文句を垂れながら入り口に手をかけたとき、近くの鉄柵に止まっていたカラスが大きなしわがれ声で鳴き、松永はぎくりと身をすくませた。おかしな噂に取り合うつもりはないが、血のような夕焼けを背にお化け屋敷に踏み込まなければならないというこの状況は、鈍感な彼の感受性にも多少の気味の悪さを訴えていた。
正面の鍵を開け、昇降口を模した入り口から中に入る。〈廃校〉の出入り口はこれひとつだ。客は寂れた廃校に肝試しに来たという体でこの昇降口に立っているバイトから一グループ一本の懐中電灯を渡され、一階と二階の教室を順に回って、また昇降口に戻ってこなくてはならない。
演出の都合上、昼間でも足元が辛うじて見える程度の明るさしかない校舎内は閉園後ともなればほとんど真っ暗闇に近く、脅かし役はひとりも残っていないとわかっていても——いや、他に誰もいないと分かっているからこそ不気味だった。松永は内部点検用の灯りをつけたが、出入り口付近の蛍光灯は寿命が近いのか、目障りにパチパチと点滅を繰り返していた。彼は何となく、昇降口を開けたままにしておいた。
一階は学年別の教室に、職員室、理科室。脅かし役が数人配置されるほか、センサー制御で扉がガタガタ震えたり、音割れの校内放送が流れたり、誰かの話し声がヒソヒソと聞こえたりする仕掛けがある。松永は手動でひとつひとつ動作を確かめた。どこにどういう仕掛けが配置されているかが分かっていれば、てんで子供騙しだった。
一階を奥まで進むと、突き当たって右側に件の階段が伸びている。松永は足を止め、しげしげと階段を眺めた。内部照明に、懐中電灯まで使って、いちいち一段一段点検すらした。足を取られそうなものは何もない。よほど足をもつれさせでもしない限り、この階段から落ちることなどなさそうだが……。
「バカが。幽霊なんかいるわけねえだろが」
松永は悪態をつきながら二階へ上がった。浮ついた客連中が悪ふざけしてたせいで怪我したってのが最初で、ちょっと話がデカくなってるだけだろう。それを聞いてまたやって来たバカが、いもしないバケモノの影に怖い怖いと怯えてうっかり足を踏み外す。怪談話なんてどうせそんなもんだ。
階段の途中で客を驚かせるのは危険なので、踊り場の壁に大きな鏡(意味深だがただの鏡だ)がかけてある以外は特別な仕掛けも脅し役の配置もない。階段に問題がないことは確かめたのだ。やはり客側の不注意としか思えなかった。
二階は、音楽室に美術室、そしてトイレ。肖像画の目が光る仕掛けも、勝手に鳴り出すピアノも、客を振り向く石膏像も、トイレの個室から流れる子どもの声も、問題なかった。
〈廃校〉の構成は数十年前から何ひとつ更新されていない。レトロと言えば聞こえはいいが、松永に言わせれば古臭さが結晶して上からカビが生えたようなものだった。かえって、単調な仕掛けの動きや、動作のたびに鳴るギシギシという音が、懐中電灯一本を頼りに暗闇を進む状況では恐ろしく思える……ということはあるかもしれないが。古臭さが演出の一部になることだけはお化け屋敷ってやつのいいところだな、と松永は思った。
しかし、松永が〈廃校〉の安っぽい造りを鼻で笑いながら例の階段まで戻ってきたときだった。松永はふと踊り場の鏡に目を止めた。平らな鏡面の中に、彼以外の何かが動いたように見えたのだ。
見間違いではなかった。松永の背後に映っている階段の一番上の段に、痩せ細った白い足がくっきりと映っている——ワンピースを着た腰から上は見切れており、顔は見えなかった。
松永は息を呑み、反射的に後ろを振り返った。誰もいない……だが、鏡には確かに女の足が……。
松永に熟考の時間はなかった。目を戻した鏡の中で、立ち止まっていた女の足がこちらに駆け降りてこようとする素振りを見せた。自分の知らない仕掛けがあるのかもしれない。幽霊などいるはずがない。そんな考えなど一片も浮かばなかった。
絶対に追いつかれてはいけない。絶対に。直感的にそう思い、松永は後も見ずにその場を逃げ出した。
松永の人生上、これほど慌てふためいて何かから逃走を図ったことなどなかった。足がもつれて踊り場から一階に転げ落ち、鼻がグシャリと潰れるのを感じながら、松永は悟った。
——あの女だ。あの女のせいで、事故が起きてやがったんだ。
女が追って来ているかどうかはもはや問題外だった。松永はとにかくこの場から逃れたかった。
開けたままにした昇降口が遥か遠くに光り輝いている——喉の奥にヌルヌルした血の塊が滑り落ちてくる——松永は走った。あそこまで行けば助かる。必死だった。
振り向けない。足がもつれる。まるで夢の中で走っているかのようだ。鉄臭い血がゴボゴボと流れ込む。
一向に近づかない出入り口を目指して、松永は走り続けた。……
翌日、脅かし役として雇われているバイトの青年によって、松永の遺体が発見された。開けっぱなしの出入り口からまっすぐ射し込む朝日に照らされ、浮かび上がった体——口と砕けた鼻からの出血が著しく、まるで血の海で溺死したかのような異様な姿だった。現場の痕跡から、恐らく階段から転落した際に負傷したのだろうと通報を受けてやってきた警官は判断した。
しかし、松永は窒息したのではなかった。血と泡がこびりついた顔面は恐怖に歪み、鼻の骨折以外には外傷もなかった。彼は何か非常に恐ろしい目に遭い、その心因性のストレスによってショック死を引き起こしたらしい、とやがて結論が出された。
彼の右肩に残された不可解な手形の痣を彼の死に結びつけるかどうかの議論がなされたが、いまだ決着はついていない。