桜貝
【三月五日(土)】
・桜貝を小瓶に詰めたもの、一点。海辺の土産物屋にあるような素朴で美しい一品。
・持ち込まれた方にいわく、学生時代の友人が作ってくれたものとのこと。友情の証として大切にしてきたが、とある出来事とそれにまつわる恐ろしい噂のせいで今は眺めるのが辛く、誰かに話を聞いてほしかったと語られる。もっと早く手を打っていれば……といまだ深い後悔に苛まれておられる様子。
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ゆかりと渚は同じ海辺の町の、ごく近所で育った昔からの顔見知りだった。幼なじみというような温かい絆は、物理的に近い場所で育ったからといって勝手に結ばれるものではない。勝気なゆかりと大人しい渚とでは見た印象からしても正反対で、性質の違うもの同士で不思議とウマが合ったということもなく、互いが互いにまったくの無関心だった。顔と名前は知っている。それ以上でもそれ以下でもなかった。
ふたりはそれぞれに友人を作って平和に過ごしていたが、中学校に上がると状況が変わってきた。小さな町には地区ごとに小学校が三つあり、三校の卒業生がひとつの中学校に集まる。何の因果かゆかりと渚は同じクラスに振り分けられたが、ゆかりと新しく友人になった女子生徒たちが渚に目をつけ、彼女をいじめはじめたのだ。小学校からの友人とクラスが分かれてしまい、ひとり寡黙に過ごしていた渚は、退屈しのぎにはかっこうの標的だった。
これは、渚の趣味に大いに理由があるとゆかりは傍で見ていて思った――渚は見た目から受ける印象のとおりに読書などを好んだが、そのささやかな趣味群の中にひとつ、彼女の存在を同級生からやや浮き上がらせているものがあったのだ。
渚は自宅近くの浜辺で薄紅色の桜貝を一枚一枚拾い集めてはそれを小瓶に入れて持ち歩いていた。特別何かの素材にするということもなく、ときおり取り出しては薄い貝殻の層がきらきらと光を弾く様子を眺めていた。渚のことを昔から一応知っているゆかりは、この収集癖のことも、集められた貝殻入りの小瓶が贈りものとして渚の友人たちの手に渡されていることも知っていた。小学校に上がる以前からそんなふうだったのだから、渚に興味がなくとも何となく耳に入ってくるものだ。
ゆかり自身は、海辺で美しい貝殻を拾い集めることを変だと思ったことは特になかった。小さい頃は彼女も近所の浜へ行って、似たようなことをして遊んだものだ。だが、標的の尊厳を損なうことだけを目的とした残酷な集団にとっては、渚が少し〈浮いている〉というだけで十分だった。
「中野さんって、ちょっと変だよね」
この一言が最初だった。はじめのうちは渚を遠巻きにして仲間内でひそひそと嘲笑うだけだったが、どんなに聞こえよがしに悪口を言っても渚が対抗する様子を見せなかったので、ゆかりたちのやり口は次第に直接的で過激に、そして陰湿になっていった。
上履きに泥を詰め込む。すれ違うときに舌打ちする。追い抜きざまにわざとぶつかる。教科書をゴミ箱に捨てる。窓の下にいる彼女に上から水をかける。手洗いに呼び出し、無理やり髪を切る。ゆかりたちからすれば、他愛もないちょっとしたゲームのようなものだった。どうすれば〈うっかり〉を装えるか。どこまでいけば教師が止めにくるか。どのタイミングなら効果的に渚を傷めつけられるか。ゆかりたちは四六時中知恵を絞った。
渚がゆかりたちにいじめられているというのは誰に目にも明らかなことだったろうが、同級生たちばかりか教師たちですら見て見ぬふりを決め込んでいた。誰ひとり咎めるものがいないという環境で、加害者たちはますます図に乗った。機嫌のいいときは嬉々として渚で遊び、機嫌が悪ければ彼女を八つ当たりの標的にした。
渚はどんなに痛めつけられても音を上げなかった。反撃するでも塞ぎこむでもなく、黙々と学校に通い、加害者たちの爪痕を淡々と処理した。他クラスに分かれた渚の親友は彼女の様子がおかしいことに気づいたようだったが、渚は我が身の苦境について吐露はしなかったらしい。親友に類が及ぶのを避けようとしたのか、人間不信に陥っていたのかはさだかではないが、いずれにしても渚はひとりで耐え、教室にいるときはいつも自分の他には誰もいないかのように静かに窓の外を眺めていたりした。
加害者たちには渚のしぶとさが愉快で、同じくらいに不愉快だった。自分たちの仕打ちに対してまったく心を動かされた様子のない、涼しげなあの態度。彼女が非暴力を貫き、何事もなかったかのように学校生活を送っているのを見るたびに、加害者たちは自分たちがいかにも幼稚なことをして喜んでいるというような惨めさを心の奥底で感じ取った。だが、それを冷静に分析できるほど賢い頭がひとつもなかったために、彼女たちは渚に無視されるたびに怒りに燃え、ますます彼女に執着した。
ゆかりは友人たちほど積極的に渚をいじめていたわけではなく、むしろ当初は仲間内の雰囲気になんとなくつられていただけだったのだが、根負けしない渚をいじめることに対して次第に友人たちと同じく加虐的な喜びを感じるようになっていった。渚の目鼻立ちが整っていることも、渚の方が成績がいいのも、取り澄ましたいけ好かない態度も、すべてが鼻について仕方がなくなった。
なんとかして渚の反応を引き出し、ぎゃふんと言わせてやりたい。ゆかりはそう考えるうちに、とある妙案を考えついた。
「あの桜貝よ」
ある放課後、ゆかりは友人たちにそう提案した。渚は、相変わらず健気に桜貝を集めている。彼女が昔から執心しているあの桜貝を取り上げて、目の前で台無しにしてやったら。さしもの渚も、少なからず動揺するに違いなかった。
このところ、渚は学校が終わるとすぐに帰宅する。普段は図書館に寄って運動部の友人を待っているのだが、最近はそれがない。ゆかりたちからすれば好機だった。
他の生徒より早く帰宅するために、渚がやってくる頃の駐輪場には人気がない。ゆかりたちは小走りで渚を追いかけ、自転車を引き出してきた彼女の進路に立ちふさがった。渚は立ち止まった――一瞬の隙をついて、ゆかりは渚が自転車のカゴに入れていた鞄を奪い取った。
「触らないで! 」
普段は無口どころか教室では一言も口を利かない渚が大声を上げたので、件の小瓶を手に取ったゆかりと友人たちはぎくりと肩をすくませた。渚は自転車のハンドルに両手をかけたままではあったが、凄まじい憎悪のこもった目でゆかりたちを睨みつけた。
ゆかりたちは内心渚の思いがけない反撃に怯み、今回の計画を実行に移したことを後悔しはじめていた。鳩尾がひやりとし、手が震える。数なら圧倒的に有利であるにもかかわらず、すぐにはそれ以上のことができなくなるほど渚の目は恐ろしかった。
だが、後へは引けない――ゆかりは辛うじて口元を吊り上げた。もはや意地だ。何よ、こんな地味女。こんなやつ、何もできるはずないじゃない。
「あんた、いつまでもチマチマこんなもん集めて何がしたいの? 」
「返してよ」
「答えなさいよ、この――」
「返せ! 」
友人たちがヒッと声を上げて後ずさった。渚は自転車を脇に投げ倒し、彼女たちに詰め寄った。美しい目はつり上がり、白い両手が牙を剥いた蛇のように掴みかかってくる。そのまなじりは焼けた鉄のように赤く燃えていた。
ゆかりと渚は激しい揉み合いになり、その様子を他のふたりは呆然と立ち尽くして見ていた。なんとか対抗しようとしたゆかりの爪が頬に切り傷を作っても、渚はお構いなしで小瓶を取り戻そうと手を伸ばしてくる。ゆかりは必死で渚を突き飛ばし、小瓶を足元に叩きつけた。コンクリートに衝突したガラスの小瓶は粉々に砕け、中の桜貝が本物の花弁のように辺りに飛び散った。
ゆかりは――その一瞬で何を考えていたのかは彼女にも分からずじまいだった――勢い右足を上げ、散らばった貝殻をガラスのかけらごと踏み砕いた。あっという間のことだった。ごく薄い桜貝はゆかりのひと踏みでジャリジャリと音を立てるだけの細かなかけらと化した。
誰からも言葉は出なかった。渚もゆかりの友人たちも、割れたガラスと貝殻を注視した。
うう、とふいに渚が呻いた。突き飛ばされて転んだままの格好で、うずくまって顔を両手で覆う。切り傷から垂れる血にも構わず、その両手が長い髪を掻きむしった。ゆかりの友人たちはどうしてよいやら分からず、オロオロとふたりを見比べている。ゆかりも肩で息をしながら立ち尽くしていた。
う、う、う……泣いているのか何か言っているのか判然としない声で呻きながら、渚はうずくまっている。たった一言、
「おばあちゃん」
という言葉だけ、やけに明確な輪郭を伴って三人の耳に届いた。
勝利の快感などどこにもなかった。ゆかりたちは渚を残して、逃げるようにその場を立ち去った。
渚の訃報がもたらされたのは翌日だった。いつまでも帰宅しない娘を案じて渚の両親は警察に連絡を入れ、やがて溺死して砂浜に打ち上げられた渚の遺体が見つかったのだという。遺書などは遺されていなかったため、ゆかりたちの不安をよそに、渚の死は動機の分からない自死として処理された。同級生たちも担任の教師もいじめの事実を公表はせず、学校生活の忌むべき汚点として渚の話題を口に出すことを避け、時とともに風化して忘れ去られることを望んだ。
渚は、桜貝を集めようとして波に足を取られたのだ。渚の親友が涙ながらに語っているところを、ゆかりは何度か目にした。渚が貝を集めていたのは、彼女なりの〈願掛け〉だった。願いを込めながら一枚いちまい美しい貝を拾い集め、同じ願いをかけた貝で小瓶をいっぱいにする。自分は友情の願いを込めた瓶をもらったから間違いない。渚の親友はいつまでもそう言って涙した。
間もなく、渚の祖母が亡くなったとゆかりは母から聞かされた。危篤と小康を繰り返す長患いで、このところは少し気力が戻ったようだったが、渚に先立たれてその気力もあえなく打ち砕かれ、最期は吹き消された蝋燭のようにちんやりと亡くなったという。
それでは、あのとき渚が持っていた貝は……ゆかりが踏み砕いた貝は……ゆかりはその考えに至るにつけ胸が冷たくなるのを感じたが、努めてその感覚を忘れた。
わたしには、何の関係もないことだと。
※
十数年が経った。
ゆかりは中学、高校と何事もなく卒業し、大学進学を機に都会へ出て一度は就職したが、やがて同郷の男性と結婚して地元へ戻ってきた。お腹には長男がすくすくと育っている。すべてが順調だった。
このところ唯一ゆかりの心を曇らせたのは、かつての友人の訃報だった。友情のために死を惜しんだのではない。亡くなった友人は中学生の頃一緒に渚をいじめた生徒で、渚が亡くなったせいでとうに疎遠になっていた。
「あの子、中野渚が死んだ浜辺で倒れてたんですって」
連絡してきたのはいじめグループの残るひとりで、怪訝がるゆかりに震える声で言った。
「それも、なんか変な死に方だったらしくて……」
友人は詳細を説明しようとしたようだったが、ゆかりは話を遮った。
「まさか、呪いだなんて言わないでしょうね! わたし、もうあのことは忘れたの。もうすぐ子どもも生まれるんだから、今さらおかしなこと言わないでよね! 」
まだ何か言い募っている友人に構わず、ゆかりは乱暴に電話を切った。この十数年、渚のことはなるべく思い出さないように努めてきた。平和な学生時代を経て、ゆかりは幸福を掴んだのだ。彼女にとってこの連絡は、見たくもない過去の傷を思い出させる忌々しい亡霊の呼び声に他ならなかった。
渚に対するなけなしの罪悪感が、拭い去りがたい過去の罪を目の前に突きつけてくる。今さら後悔したところで取り返しがつかない――どうしてここへきて突然ふたたび脳裏に蘇ってきたのかと、ゆかりは苛立った。
しかし一度思い出してしまうと、どうしたことかどうにも忘れられない。渚に謝罪して許されることはできない。だからといって、このまま放置するのは後味が悪かった。
渚の墓前に詣でるといった発想は、ゆかりにはなかった。彼女は渚が亡くなった浜に出かけた。渚が生前桜貝を集めていた浜だ。ゆかりにとっても見慣れた場所だった。
日暮れの海岸の風情は寂しく、潮騒に混ざって海鳥の声がかすかに聞こえていた。ゆかりは拍子抜けした気分で辺りを見回した。渚の一件ですっかりほの暗い印象がついていたが、いざ訪ねてみればそこはやはりただの浜辺だった。
ひとりだと思っていた浜辺には先客がいた。ゆかりの立っている場所から、岩陰にうずくまった誰かの背中が見えた。背に長く垂れた髪は黒かった。
時が止まったような感覚だった。おもむろに立ち上がり、こちらを振り向いたのは〈渚〉だった。
見間違いか? 勘違いか? ゆかりは思わず立ち尽くして相手を凝視した――渚は青ざめた顔で、滑るように間を詰めてきた。
あの目だ。十年以上も経っているが、ゆかりが思い出した映像はつい昨日見たばかりのように鮮明だった。直視されただけで背筋が凍るような憎悪。ゆかりが桜貝を取り上げたとき、渚がゆかりを睨んだときとまったく同じ目だった。
殺される。ゆかりは我に返り、逃げようとした。
「返して」
低い唸り声とともに、ゆかりは右腕を後ろ手に掴まれた。必死に振りほどこうとしたが、びくとも動かない。焦って振り返ろうとした途端、関節とは逆方向に腕がひしゃげ、折れ曲がるはずのない場所がメキメキと音を立てながら折れた。
痛みと衝撃、さらに恐怖で声を詰まらせ、叫び声を上げることもままならないゆかりの右腕を満足のいくまで捻じ曲げると、渚はゆかりの右手を取って何かをじっと見つめ、嘲るようにふんと鼻で笑った。
「返してもらうわね。本物ほどきれいじゃないけど」
なにを、と聞き返すことはできなかった。小指の爪と肉の間に何か尖ったものを挿し込まれるのを感じた直後、爪はべりべりと引き剥がされてむしり取られた。
ゆかりは自分が何を言っているのかも分からないまま謝罪の言葉を泣き叫んだが、渚はゆかりがどんなに泣き喚こうが容赦しなかった。ゆかりが渚を最期までいじめたように。彼女の記憶を無視し、なかったことにしようとしたように。
両手足の指が右手の小指と同じ運命を辿る間、少しずつ波打ち際に引きずられていきながら、ゆかりは息も絶えだえに嘆願した。
せめて、この子は助けて。だが、まともに出せなくなった声でつないだ言葉はすべて、誰の耳にも届くことなく波音に呑み込まれた。