ある男の願い
【六月三日(水)】
・人体スケッチ、解剖図など数点。見事なスケッチ類。あくまで全体の一部で、総数は数百枚にも及ぶらしいとのこと。血痕多少。古いものなので経年劣化が著しい。
・絵の端に書き残されたサインから調査したところによると、作者は十九世紀イタリアに実在した少々伝説めいた人物で、当時としては革命的な知識を持っていたことが推測されるにもかかわらず、医師として名を残しているわけではないとか。ヨーロッパから古書を取り寄せたところ、本の間になぜか挟まっていたそう。
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ジャンニは、立派な志を持っていた。
「人類にとって重大な発見、偉大な貢献をし、名を残したい」
その一心で人並み以上に学問を修めたが、彼の望むような結果はなかなか挙がらなかった。彼には、何事かを発見するのに不可欠な好奇心や、貢献に必須の情熱や忠誠心、さらに偉業を成し遂げるのになくてはならない持続力の類がことごとく欠落していた。
ジャンニが興味を持つのは人々の称賛を浴びているどこか未来の自分の姿であり、学問そのものに対して同じ熱量を向けたことは一度もなかった。文学、美術、音楽といった芸術的なものにはじまり、法律、経済、医学、語学、科学、数学、社会学、心理学、哲学などなど、ありとあらゆる学問を渡り歩いた(人並み以上とはそういう意味だ)が、どんな学問のどんな分野も、ジャンニからすれば新規開拓の余地は残されてはいなかった。しいて言えば、〈何か〉で脚光を浴び、後世に伝えられる自分を追い求める姿勢にだけは、みずからの研究に生涯を費やす学者や芸術家たちと似通ったものがあったかもしれないが。
学問では芽が出なかったが、ジャンニは就く仕事には不自由しなかった。語学をひと通り学んだ副産物としてある程度使えるようになった外国語が土産物屋の接客には重宝され、やがて店ひとつを任されるまでになった。もともと、人のいい老夫婦が趣味で開けていたような海辺の小さな店だ。ひとりで店番をしていてもさほど忙しいというわけでもなく、楽な仕事だった。
しかし、閑散とした店を取り仕切るのんびりとした暮らしでは、彼の自己顕示欲が満たされるはずもなかった。
「何かおれの名が残るようなことがやりたい」
店先から見える教会の尖塔に向かって呟くのが、ジャンニの日課になりつつあった。哲学も修めたジャンニにとって神とは妄信に値するものではなかったが、神や天の国は実在しないという証明ができない以上は、店番のついでに祈るくらいの信仰心を捨てるわけにはいかなかった。
それに、ひょんなことから願いが聞き届けられないとも限らない。
「この願いが叶うなら、どんなに過酷なことがあってもいい」
――そのときだった。不信心なジャンニにもはっきりそれと分かるような、理外な〈天啓の声〉が脳裏に響きわたったのは。
「では、この声に従いなさい」
最初は、道を聞きに来た十歳の少女だった。面識はない。スイスとの国境に近い町から旅行に来たはいいが、大通りの人混みでうっかり両親とはぐれてしまった。幸い次の見物先がこの町で一番大きな教会だということを思い出し、そこへ行けば両親と会えるに違いないと思った、と彼女は話した。
〈声〉はジャンニに
「それは大変だったね。その教会はこの近くだ。チョコレートをあげるから少し休んでいくといい」
と言って少女を店の奥に誘い込むよう指示し、彼女が異変に気づく間もなく、背後から首を絞めさせた。ジャンニは想定外の指示に戸惑ったが、彼がためらっている間に少女は事切れてしまった。もはや後戻りはできなかった。
〈声〉は動かなくなった少女の体をナイフで解剖するようジャンニに促した。そして、その詳細をスケッチとして残すよう命じた。
ジャンニは自分のしでかしたことの恐ろしさに泣き、何度も吐きそうになりながら〈声〉に従った。自分に従うのなら絶対誰にも知られることはないと〈声〉が言ったからだ。〈声〉に指示は的確だった――どこにどんな内臓が収まり、骨や血管がどんなふうに通じ合っているか、ひとつずつ解説しながらジャンニに描き取らせた。
「この器官は、まだ詳しく知られていません。恐らく、今から百年経っても完全には解明されないでしょう」
少女の頭の中を初めて開いたとき、〈声〉が言った。皮膚と固い頭骨に守られた頭部を解剖するのは難しかったが、〈声〉の指示によってまったく傷つけずに中身を観察することができたのだ。
「開頭手術の技術が確立するのはそう遠い未来ではありません。しかし、それでも人類の理解は及ばない。数世紀にわたり、何人もの犠牲者が出ることでしょう」
一体なにが目的で自分にこんなことをさせるのやら、ジャンニには見当もつかなかった。だが、拒否権はない。
「『どんなに過酷なことがあってもいい』」
〈声〉は念を押すように言った。ジャンニは〈声〉が言うとおりに少女を完全に解体し、店の裏庭に埋めた。作業現場を片づけ、血まみれの前掛けを洗濯かごに入れてから何食わぬ顔で店先に戻ると、ジャンニの精神的な疲労とは裏腹に一時間も経っていなかった。
※
次の犠牲者は、気まぐれな風のように町から町を渡り歩く旅人だった。身軽な旅の途中で訪れた町の土産物屋に立ち寄り、郷里に送る絵葉書を買うのが習慣なのだと彼は語った。自分は気の向くままに行き先を選ぶばかりの旅ガラスで、返事を受け取ったことはない。だが郷里の両親や兄弟たちは、消息と旅情を伝える美しい絵葉書を大切に保管してくれているのだと。
彼の郷里への便りは、ジャンニの店で書いたものが最後になった。この絵葉書を受け取った旅人の家族は〈変わりない〉という文面を何の疑いもなく信じるだろう。まさか、近況を書くために紙面を注視していた彼が背後から殴り倒され、腑分けされてしまったなどとは夢にも思わないに違いない。
「この臓器は、病を得ても痛まない〈沈黙の臓器〉です」
旅人の腹の中を描き取っているジャンニに、〈声〉は解説した。
「本来は、この間の少女のものがそうだったようなハリのある薄桃色の臓器です。しかし、酒の飲みすぎや微小な病原体の作用によって、このように病変して硬く縮小します。また、症状が進むと腹水や黄疸などが現れます。この男の目をごらんなさい。白眼のところが変色しているでしょう」
ということは、この旅人は自分が手にかけなくてもいずれ夭折する運命にあったということが、とジャンニは思った。それならば、ただ路上で看取る人もなく行き倒れるよりも、ジャンニの手にかかって偉業の礎になる方がよほど有意義というものだ。役所の人間に嫌そうな顔をされながら共同墓地に放り込まれるよりずっといい。二人目にして、ジャンニの罪悪感はすでに薄れつつあった。
一人目の少女のことも、誰にもバレていない。旅行に来て行方が分からなくなったと騒ぎにはなったが、いまだジャンニに疑いをかける人物はいなかった。まして、二人目はこの国のどこにも身寄りのない風来坊だ(郷里はフランスの北の方だと言っていた)。ジャンニが彼の失踪に関わっていることに誰かが気がつくなどあり得ない。
それに――そう、これは神がジャンニにさせている〈仕事〉なのだから。〈声〉に従って奇跡のような手術とスケッチを成し遂げたジャンニは、そう信じて疑わなくなっていた。
※
〈声〉はそれからもジャンニに指示を出し続け、ジャンニはそのたびに人を殺しては詳細なスケッチを描いた。一人目の少女を模範として、二人目の旅人のときにすでにその傾向は見えていたが、〈声〉が指定する人物は体のどこかしらに重大な病巣を抱えていた。梅毒、肝硬変、狭心症、心筋梗塞、骨肉腫、白血病、白内障、胃潰瘍、腸閉塞、気胸、肺炎、脳炎、脚気など、ジャンニが医学を学んだときに覚えたものもあれば、恐らく同時代のどんなに優秀な医師もその名を知らないであろうというものもあった。富豪、浮浪者、娼婦、学生、老人、少年と少女、妊婦と胎児、男と女――世の中のありとあらゆる種類の人間がジャンニの手にかかり、解体されて研究資料となった。
土産物屋に来た客を指定されることも指定された場所で誰かを待ち伏せることもあったが、短期間で何人も手にかけているにもかかわらず、問題が起きたことはなかった。普段どんなに人通りが多い場所でも、ジャンニが〈仕事〉をするときはなぜか誰ひとり通りかからなかった。ジャンニが次に解体する予定の人物以外は。だから、やはりこれは神に託された仕事――人類全体の発展のために籠を受け、奨励されている特別な仕事なのだとジャンニは信じこんだ。
この〈仕事〉は確かに一大事業だと、ジャンニはいまやひとり犠牲にするたびに喩えようもない充実を感じていた。〈声〉はジャンニに人を殺して病巣を描き取らせる目的を説明したことはなかったが、ジャンニの挙げてきた成果は彼自身の目にもいまや明らかだった。
ジャンニが描き溜めてきたスケッチを公表すれば、世界中を驚かせることができる。常識が覆るのは間違いない、もしかしたら、革新的すぎるあまりにかえって学会から目の敵にされるということはあるかもしれないが……。
種の繁栄に貢献し、歴史に名を残せるのなら、人間の限りある知識だけを頭に詰め込んで満足している頑迷なものたちからの見当違いな迫害にくらい耐えてみせる。いつか歴史が、おれの正しさを証明するだろう。ジャンニは凡人には理解され得ない知識を時代に先んじて与えられたがゆえに悲劇的な最期を迎えるはめになった気高い自分自身の姿をニヤニヤと妄想した。
しかし、ジャンニが〈美しい悲劇の最期〉にいくら思いを馳せようと、〈声〉はまだまだ満足しないらしかった。それから数年の間ジャンニは〈研究〉をたゆまず続け、解剖した体を土産物屋の裏に埋め続けた。
あるとき、ジャンニはついに痺れを切らした。彼が描き溜めたスケッチは、いまや厚い医学書ほどにもなっていた。この世でもっとも正確な、宝のような知識の山だ。これさえ公表すれば、称賛されるにしろ無視されるにしろ、あるいは迫害を受けるにしろ、世間の耳目を一挙に集めることができる。なんなら、彼は世界中の医学界から非難を浴び、嘲笑の対象となることを少し望んでいたかもしれない。後世まで語り継がれる偉大な人物であるほど、存命当時は周囲から冷遇されるものだ。〈声〉は特に彼を止めなかった。
ジャンニは自分の研究を神に与えられた仕事だと考えていたので、自分が偉業の達成者として分相応だとはつゆほども思っていなかった。しかし、ジャンニからスケッチとそれに付随する考察の山を渡された出版社では一介の土産物屋がなぜこんなものを描けたのかと彼を怪しむ声が挙がり、彼らはジャンニに伏せて警察に話を通した。
警官はすぐさまジャンニの土産物屋に急行し、出版社からの返事を店で待っていたジャンニを取り押さえた。店の裏庭からは、正確に何人分と判別するのが困難なほど膨大な人骨と腐乱途中の死体、さらにほんの数週間前に殺されたばかりらしい死体までも次々に発見された。
ジャンニは迫害を恐れてはいなかったが、それはあくまでいずれ偉大な人物として再評価されることを見越してのことだった。呪われるべき稀代の殺人鬼としてでない。取り返しのきかない罪の枷に手足を拘束されたまま永遠に後ろ指を指され続け、墓標に唾を吐きかけられるなど冗談ではなかった。
「こんなはずじゃなかった」
いまや呪われるべき名の持ち主となったジャンニは、処刑の直前に後世まで語り継がれることとなる言葉を遺した。
「おれは神の声に従っただけだ」